若大将=加山雄三氏の大ブームは、1966〜1967年に起きており、一連のシンガーソングライター=加山雄三氏のヒットシングルの多くは、この時期に発表されたものです。
有名な「君といつまでも / 夜空の星」は、1966年の東宝正月映画「エレキの若大将」の挿入歌として人気爆発したわけですが(併映は「怪獣大戦争」)、続く若大将シリーズ第七弾は「アルプスの若大将」。
『加山雄三ブーム』を反映してか?「アルプスの若大将」も、シリーズ第四弾の「ハワイの若大将」に続いて今はなきパンアメリカン航空(パンナム)とのタイアップの、豪華!海外ロケ作品です。
映画は冒頭から加山雄三氏得意のスキーシーン満載で(慶應大学時代国体出場してる腕前)、スイスのツェルマット、オーストリアのウィーン、イタリアのローマと贅沢三昧。
おそらく映画も歌もヒットしまくってる加山雄三氏に対する、映画会社や事務所からのご褒美、賞与的な映画だったのではないかと思えるのが、この「アルプスの若大将」です。
特に加山雄三氏の、今で言えばPVのような大ヒット中の「君といつまでも」「蒼い星くず」「夕陽は赤く」とギターを持っての歌唱映像!
これが、映画とレコードのヒットが相乗効果なのがよくわかりますし、寺内タケシ氏は登場しませんが、「蒼い星くず」を演奏してるブルージーンズのメンバーに加瀬邦彦氏がおります。
加山雄三氏の慶應高校・大学の後輩で、プライベートでの付き合いもあった加瀬邦彦氏はこの後、寺内タケシとブルージーンズを脱退し自身のグループ、ザ・ワイルドワンズを結成。
同年11月に、メンバーの鳥塚繁樹氏作詞、加瀬邦彦氏作曲の「想い出の渚」でレコードデビューしています(B面「ユア・ベイビー」の作曲も加瀬邦彦氏(作詞は安井かずみさん)です。
そしてバンド名のザ・ワイルドワンズは、加山雄三氏の命名。加山雄三氏の1967年2月発売のシングル「二人だけの海」は、ザ・ワイルドワンズが演奏しています。
それまでフルオーケストラ録音は別にし、バンド録音は寺内タケシとブルージーンズ、加山雄三とザ・ランチャーズのどちらかでしたから、ザ・ワイルドワンズは大抜擢だったと言えます。
ちなみに加山雄三氏は、自分からしゃしゃり出てシンガーソングライターの自分、自分のバンドを売り込んだわけではなく、バンドは俳優の合間の趣味でやっていました。
シングルレコードは以前より発売してましたが、他人様の書いた曲を歌ったそれはどれもヒットには至らず、周りに薦められ自分で書いた曲を録音したら、これが大当たり!
寺内タケシとブルージーンズだけでなく、自身のバンド、ザ・ランチャーズでのロックバンド形式での録音は、ブルーコメッツやザ・スパイダースと同じで先駆者でした。
で、『加山雄三ブーム』の頂点時期とする理由に、続く若大将シリーズ第8弾が、まるまる加山雄三氏が同年7月15日から17日に行われた日劇でのリサイタルのライブ映像「歌う若大将」だからです。
同年6月30日〜7月2日に、ザ・ビートルズが日本で初めて日本武道館でライブ演奏をしますが、日本の歌謡芸能、音楽家の世界で日本武道館や野球場でライブをやるという発想のまだない時代。
日劇で3日間で約2万7千人集客したそうなリサイタルには、自身のザ・ランチャーズを率いてエレキを弾き歌い、大橋節夫とハニー・アイランダーズ等をバックに歌唱する加山雄三氏が映し出されてます。
一人のシンガーソングライターのライブショーが、まるまる1本の映画になったのは1966年9月10日上映の「歌う若大将」の加山雄三氏が日本では初めてでしょう。
ちなみに、この頃の加山雄三氏のシングルヒットは、
・1965年6月15日発売:「恋は紅いバラ / 君が好きだから」
・1965年12月5日発売:「君といつまでも / 夜空の星」
・1965年12月5日発売:「ブラック・サンド・ビーチ / ヴァイオレット・スカイ」
・1966年4月5日発売:「蒼い星くず / 夕陽は赤く」
・1966年6月15日発売:「お嫁においで / アロハ・レイ(さよなら恋人)
・1966年9月15日発売:「霧雨の舗道 / 小さな旅」
・1966年10月15日発売:「夜空を仰いで / 旅人よ」
・1966年11月15日発売:「ジングル・ベル / ぼくのクリスマス」
・1966年12月15日発売:「まだ見ぬ恋人 / 俺は海の子」
当時の流行歌手のシングル盤は、3ヶ月に1枚発売がだいたいのお決まりでしたが、加山雄三氏は1966年にシングル盤を6枚も発表しており(アルバムは3枚)、正に!世は『加山雄三ブーム』。
1966年、最も売れたシングルレコードは「君といつまでも/夜空の星」で、トップ30迄に「お嫁においで」「夜空を仰いで/旅人よ」「蒼い星くず/夕陽は赤く」と4曲も入ってます。
そんな加山雄三氏は、ザ・ビートルズ来日時、ホテルまで直接会いに行ってるのは、有名な話ですね。
で、映画「アルプスの若大将」に話を戻しますが、例によって苗場スキー場での、ダンスパーティーをとっかかりにした澄子さん(星由里子さん)絡みの揉め事はお約束。
そして、すったもんだの末に若大将はスキー大会で大活躍し、澄子さんともハッピーエンドで「完」。
ワンパターンと言う勿れ。若大将シリーズは、水戸黄門の葵の御門の印籠と同じでこれでラストは良いのです!こうじゃないと若大将シリーズではないですから。
で、関西弁を使う「変な外人」で、当時は凄く有名だったイーデス・ハンソンさんが、米国籍ですがフランス人役で登場。青大将(田中邦衛氏)の適当な約束の元、来日する外人を演じてます。
若大将は困った青大将に「お願い」され、実家「田能久」にイーデス・ハンソンさん演じるフランス人を居候させます(孫に甘くて優しいお婆ちゃん(飯田蝶子さん)の功績ですが)。
で、このイーデス・ハンソンさんは、「アルプスの若大将」の後、同年フジテレビの「マグマ大使」にレギュラー出演してますから、本当に当時の彼女は売れっ子でしたね〜。
また、ゲスト出演の若林映子さんは、この翌年、1967年に浜美枝さんと共に、かの!「007」シリーズ「007は二度死ぬ」でボンドガールに抜擢され国際スターになりましたが、早くに引退されてます。
というわけで映画の中だけでなく、なんとなーく東宝も日本全体も、夢に溢れてた精神的には良い時代だったな〜なんて思うのです(勿論、物質的には今の方が絶対!裕福ですが)。
最後になりますが、この後、倒産して莫大な負債を加山雄三氏は背負うことになった、実質オーナーの岩倉具憲氏と、父親の上原謙氏と共同オーナーの「パシフィックパーク茅ヶ崎」が完成したのも1965年。
当時としてはずば抜けて豪華で最先端だった、こちら↓通称「パシフィックホテル」ひとつとっても、当時の『加山雄三ブーム』は、桁外れの夢の世界だったのが、今の若い人でもわかると思います。