プロ野球の世界では、高卒と違い大卒、社会人は『即戦力』と謳われ、特にドラフト1位2位だと1年目から活躍を期待されますし、ドラフト3位以下でも、少なくとも2年目、3年目の活躍を期待されるもの。
で、1974年のドラフト会議で、駒澤大学の中畑清氏は3位指名されましたが、中畑清氏が100試合以上出場したのは入団5年目の1979年。
中畑清氏も近年YouTubeで、入団4年目の1978年のシンシナティ・レッズとの日米野球で本塁打を打たなかったから、自分は終わってたと回想しているほど、大卒の選手にしては珍しい!遅咲きの選手でした。
中畑清氏が入団した頃の読売ジャイアンツのサードは、レフトからコンバートされた高田繁氏がいたので中畑清氏の出番はなかったわけですが、1979年の高田繁氏は入団以来初めて!100試合を割っています。
そこで台頭してきたのが、前年の日米野球でホームランを放った中畑清氏で、規定打数には足りませんでしたが打率.294、本塁打12本と活躍。
中畑清氏の対等により高田繁氏は古巣のレフトに戻りますが、1980年に35歳で引退。同年、中畑清氏は既定打数に届き打率.268.。22本塁打を放ち、サードのレギュラーを確固たるものとしました。
が、しかし!、、、
1980年のドラフトで、読売ジャイアンツは東海大の大人気選手!原辰徳氏を見事に1位指名し入団。原辰徳氏はサードだったので、苦節5年目にしてレギュラーを獲得した中畑清氏、早々にピンチになります。
追い討ちをかけるように1981年のシーズン早々、中畑清氏は試合中に負傷してしまい、それまで1年目からセカンドでレギュラー出場していた原辰徳氏がサードにまわり、これにてサードに定着。
そしてセカンドには中原清氏のドラフト3位時の高卒1位選手、篠塚利夫氏が代わって大活躍し、こちらもそのままレギュラーに定着。こうして、中畑清氏は怪我の最中にポジションを失ってしまっています。
が、ファーストの山本功児氏、松原誠氏が中畑清氏には運良く不調だったため、中畑清氏はファーストに起用され、この辺が中畑清氏らしいのですが、この年に生涯最高打率(.322)を記録しレギュラー定着。
こうしてある世代には、読売ジャイアンツの内野といえば『ファースト中畑、セカンド篠塚、サード原』の、お馴染みがレギュラーになったのは1981年からでした(ショートはベテランの河埜和正氏)。
中畑清氏とのファーストのレギュラー争いにやぶれた山本功児氏は、王貞治氏現役時よりファーストと外野を掛け持ちしていたし、中畑清氏と違い既に準レギュラーだったので外野にまわっています。
というわけで、1975年入団の中畑清氏が読売ジャイアンツのレギュラーとして活躍するのは1979年からであり、とても印象に残る選手でしたが、活躍期間は1988年までの僅かに10年でした。
1988年までレギュラーで快調だった中畑清氏が、1989年にレギュラーを失うのもやはり怪我が原因で、欠場してる間に外野から駒田徳広氏がファーストにコンバートされ、見事に!2年連続の3割超の大活躍。
古巣のサードには原辰徳氏がいるし、原辰徳氏がレフトに一時コンバートされた時には岡崎郁氏がサードに入ったので、怪我から戻っても中畑清氏はポジションがなくなっちゃった。
結局、新旧交代というかなんというか、まだ2~3年はやれたでしょうが中畑清氏は現役引退しました。
というわけで、読売ジャイアンツ45代4番の中畑清氏は、打撃タイトルには無縁で、通算安打は1294、本塁打171、打点621。48代4番の原辰徳氏は打点王1回、通算安打1675、本塁打382本、打点1093。