1971年7月発売、PYGのシングル第二弾「自由に歩いて愛して」。
ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズの人気者・実力者が集まったスーパーバンドPYGは、商業的にけっして成功したバンドではなかったです。
「自由に歩いて愛して」もオリコン最高位25位なれど、PYG唯一の!ヒット曲。
ただ、このオリコン最高位25位というのは微妙な数字で、案外、当時少年少女だった今や爺さん婆さんでも、PYGも 「自由に歩いて愛して」も知らない人がわりと多いです。
当時は全国放送はNHKぐらいですから、NHKの歌番組に出ない限り、NHKとローカル放送ぐらいしかチャンネルのない地方在住の人は、東京人と同じ情報は持てなかった時代なので、この辺はしょうがない。
ただ、この作詞:安井かずみさん、作曲:井上堯之氏の「自由に歩いて愛して」は、沢田研二氏も萩原健一氏もソロになっても歌ってるほどお気に入りのナンバー。
PYGはザ・ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」もレパートリーにしていたので、「自由に歩いて愛して」のパーカッションの入れ方なんざ、「悪魔を憐れむ歌」の影響を感じます。
よって、非常に当時としてはファンキーなロックナンバーです。
で、8月に発売されたPYGのファーストアルバムは、何と!オリコン10位。
当時シングルよりアルバムの方が売れたのは、まるで海外のロックバンドみたいな現象で珍しかったと思いますが、PYGがスーパーバンドだったのはここまで!
9月にはドラムが大口広司氏から、ミッキー・カーチス&サムライの原田祐臣氏に変わっています。3月のデビューステージから、僅か半年でPYGは早くもメンバーチェンジしています。
後にベースの岸部修三氏が、ギターの井上堯之氏が自分のベースと大口広司氏のドラムが不満だったと思うと回想してますが、この交代理由は公式に声明は出されてないですね。
余談ですが同年4月、イギリスのロックバンド!フリーが来日しており、ミッキー・カーチス&サムライのベーシスト、山内テツ氏はこの時フリーのメンバーと交流を持ち、後に何と!メンバーになってます。
そして新メンバーになったPYGのシングル第三弾は、11月発売の「何もない部屋/戻らない日々」でしたが、なんと!この曲は萩原健一+PYG名義!
もう一人のPYGのシンガー、沢田研二氏は同月にソロシングル第一弾「君をのせて」を発表してます。
が、これは本人たちの希望ではなく、PYGが思ったように売れないので焦った渡辺プロダクションが、沢田研二氏をソロで売り出したくてしょうがなかったという、大人の事情だったようです。
そんなこんなで沢田研二氏は、ある時期まで「君をのせて」が嫌いな曲だったそうですが、こちらも事務所の思惑に反してオリコン最高位は23位。PYGの「自由に歩いて愛して」と、さほど変わらなかった。
まぁ〜『作詞:岩谷時子さん、作曲:宮川泰氏』の巨匠二人の作品の「君をのせて」がもし!大ヒットしていたら、沢田研二氏のソロ活動はもっと!濃い歌謡芸能的なものになっていたでしょう。
また、もし「自由に歩いて愛して」がオリコントップ10入りする大ヒットになっていたら、PYGはこの路線で継続していたでしょうが、この辺は神のみぞ知るの領域です。

沢田研二氏のソロデビュー前の5月、元ザ・スパイダースの堺正章氏が「さらば恋人」でソロデビューし、なんとこちらはオリコン最高位2位の大ヒット!
同時期、同じくザ・スパイダースの井上順氏の「昨日今日明日」も、オリコントップ10入りの大ヒットしております。
更には解散しなかったザ・モップスの「月光仮面」もそこそこヒットしており、グループサウンズブーム期は圧倒的人気No.1だった沢田研二氏でしたが、なんかこの時期はパッとしなかったんです。
そして!萩原健一+PYG名義の「何もない部屋/戻らない日々」も不発。PYGは商業的には失敗したバンドだったと言えます。
そんなこんなで同年11月にPYGはライブアルバムを発表しますが、スタジオ録音アルバムは結局、デビューアルバム1枚だけで、年が明けた1972年には萩原健一氏は映画「約束」で俳優として注目されました。
映画「約束」が公開された3月、沢田研二氏はシングル第二弾「許されない愛」を発表。
作詞は山上路夫氏でしたが作曲はザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦氏の「許されない愛」は、「君をのせて」とはうってかわったPYG寄りの、サウンドはプログレのようなロックサウンドの名曲です。
「許されない愛」は、見事にオリコントップ10に入る、沢田研二氏ソロ初ヒットになりました。
ここから加瀬邦彦氏作曲のシングルヒットを、沢田研二氏は連発し、ザ・タイガース以来の歌謡界の頂点になるわけです。
そして、PYGはレコーディングには関わっておりませんが、沢田研二氏のバックバンド=井上堯之バンドとしてお馴染みになり、同年の紅白歌合戦にも沢田研二氏のバックで出場しています。
1972年は前年と違いPYGに良い風が吹いてきたようで、俳優として人気になった萩原健一氏のテレビ初主演「太陽にほえろ!」の制作が決まると、なんと!音楽担当はPYG!
おそらく萩原健一氏の推しで、当時二枚看板だった「石原裕次郎テレビ初登場!」が売りだった石原裕次郎氏はまだこの時、映画製作に燃えておりテレビが全くやる気がなかったので、通ったと予測できます。
当時、石原裕次郎氏はヒット曲も沢山あり、ジャズマンとも交友が深く、もし石原裕次郎氏がやる気があったら、萩原健一氏がPYGを推しても、力関係で石原裕次郎氏が音楽担当を決めていたでしょうから。
石原裕次郎氏は「太陽にほえろ!」の成功で、テレビは儲かることを知り、その後は金にならない映画は撤収。テレビの「大都会」や「西部警察」に石原プロダクションとして全力で取り込んでおりますから。
で、「太陽にほえろ!」のメインテーマは井上堯之氏ではなく大野克夫氏の作曲で、この曲はやはり原田裕臣氏のドラムと、岸部修三氏のベースが肝になってると言えます。
結局、PYGは沢田研二氏のバックバンド=井上堯之バンドと、萩原健一氏主演ドラマや映画のサウンドを担当する、これも井上堯之バンドに、なんとなーく代わっていきました。
が、正式にPYGの解散表明というのは出ていなかったと思います。