打倒!慶應に燃える神奈川県野球強豪校


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2023年夏の高校野球選手権で全国制覇を成し遂げた慶應高校でしたが、私的に(これで来年は慶應の甲子園出場は、春夏ともに厳しくなるだろう)と思っておりました。

勿論、2年生で全国制覇し3年になる小宅投手含め、慶應ナインが慢心するとかではなく、激戦区!神奈川県の野球強豪校、伝統校が一丸となって!「打倒!慶應」を掲げ猛練習を開始すると思ったからです。

結果、夏春連続出場を目指した2023年秋季神奈川県大会で、慶應は3試合連続のコールド勝ちの圧倒的な横綱相撲で準々決勝まで勝ち進みますが、桐光学園に0対4で敗退し春の選抜絶望!

そして直接、春夏甲子園大会出場には関係ありませんが、夏の大会のシード権に影響が出る選抜後の春季神奈川県大会でも、慶應は1回戦、2回戦をコールドで圧勝し3回戦も危なげなく勝ち進み準々決勝進出。

でも、秋季大会同様、再びこの準々決勝で慶應は横浜に4対9で敗れました。


そして秋季大会優勝校の桐光学園も、東海大相模に5対8で準々決勝で敗れ、準決勝ではその東海大相模慶應に勝った横浜に5対1で勝利しますが、決勝で武相に8対9で敗れ準優勝。

武相は1968年の夏を最後に甲子園から遠ざかっていますが、2024年現在、60代以上の爺さんなら、武相は野球の強い学校のイメージはあると思います。なので、古豪復活という感じでしょうか?

勿論、神奈川には東海大相模、横浜という全国に名だたる有名野球強豪校がおり、更には桐蔭学園法政二、湘南と甲子園で優勝した学校もあります。

また桐光学園日大藤沢横浜隼人横浜商大高、平塚学園、そしてこちらも甲子園出場は遠のいていますが古豪の鎌倉学園、横浜商と野球強豪校がひしめく神奈川県。


これら強豪チームが「打倒!慶應」目指し、夏の大会に向けて今日も練習しています。なので「慶應も厳しいな」と思うわけであります。

とはいえ慶應ナインとて、真紅の優勝旗をキャプテン一人で甲子園に返還にいかせたくないでしょうから、秋、春の敗戦を分析し、全力で!夏の県大会優勝を目指している事でしょう。

というわけで、注目の神奈川県大会の抽選会は6月8日。夏の大会の開会式は7月5日、横浜スタジアムで行われます。



 

1964年4月、ザ・ビートルズが全米ビルボードチャート1位から5位までを独占!

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ザ・ビートルズはシングル「抱きしめたい」で1964年2月に、イギリス勢として初のアメリカのビルボード Hot 100シングルチャートで1位を獲得!

以降7週連続でトップを突っ走り、アメリカそして世界でザ・ビートルズ旋風が吹き荒れるとっかかりになり、4月には何と1位から5位までをチャートを独占。 その時の1位から5位までの曲は以下のとおり。

1位「キャント・バイ・ミー・ラヴ」
2位「ツイスト・アンド・シャウト」
3位「シー・ラヴズ・ユー」
4位「抱きしめたい」
5位「プリーズ・プリーズ・ミー」


当然ながらこの記録は、未だに破られておりませんが、ザ・ビートルズが凄かったのはトップ3独占は3月14日にも達成しており、その時の3曲が以下のとおり。

1位「抱きしめたい」
2位「シー・ラヴズ・ユー」
3位「プリーズ・プリーズ・ミー」


更に翌週の3月21日もトップ3独占!「シー・ラヴズ・ユー」と「抱きしめたい」の順位がひっくり返ってます。

1位「シー・ラヴズ・ユー」
2位「抱きしめたい」
3位「プリーズ・プリーズ・ミー」


更に更に!翌週の3月28日も、3週連続でトップ3を独占!

1位「シー・ラヴズ・ユー」
2位「抱きしめたい」
3位「ツイスト&シャウト」


そして4月4日のトップ5独占になっており、トップ5独占なんて前人未到の記録が凄すぎるので、こちらのトップ3独占が影が薄くなってますが、これだけでも凄いことです。しかも3週連続なんて、、、。

ですから、如何に1964年2月から4月の、アメリカにおけるザ・ビートルズ旋風が凄まじいモノだったのか?今更ながら思わされます。

さらにトップ5独占の同日の、100位以内にもザ・ビートルズの曲は他に7曲もチャートに入っています。

31位「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」
41位「フロム・ミー・トゥ・ユー」 
46位「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノゥ・ア・シークレット」 
58位「オール・マイ・ラヴィング」 
67位「ユー・キャント・ドゥ・ザット」
68位「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン
79位「サンキュー・ガール」 


初のザ・ビートルズ主演映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」の撮影は、トップ3独占前に開始。

ですから、映画制作する段階では、ザ・ビートルズも映画スタッフも、こんな大変なことがアメリカでこの後起こることを、全く知らなかった。

正に!映画撮影中に、これは起きた「事件」であり、ザ・ビートルズもマネージャーのブライアン・エプスタインも他スタッフも、来るニュース来るニュースが驚きと歓喜のニュースばかり!

まぁ〜普通に考えて夢心地、有頂天だったでしょう。

そして映画の撮影は4月下旬に終わったわけで、もーうそこの時のアメリカはザ・ビートルズ旋風の真っ只中!

同年イギリスで7月、アメリカで8月に上映されたこの映画も大ヒットし、主題歌の「ア・ハード・デイズ・ナイト 」も当然のように英米チャートで1位を獲得。

1963年からイギリスでは続いていた、そしてアメリカでは1964年に爆発したザ・ビートルズ旋風は、止まることを知らない勢いでした。

また、1964年2月はザ・ビートルズが初めてアメリカに上陸し、全米ネットテレビ番組の「エドサリヴァン・ショー」に出演。

視聴率は72%という脅威的な数字を記録し、このテレビ番組出演が、その後のチャートのトップ5独占に一役買ったと言えるでしょう。

一方、日本でザ・ビートルズのレコードが初めて発売されたのが同年2月、東芝からの「抱きしめたい」で、アメリカでの「抱きしめたい」のチャート1位に合わせた発売です。

というわけでイギリスは元より、アメリカよりも日本はザ・ビートルズのレコード発売は遅れていました。

なので、実際にイギリスやアメリカのように、リアルタイム1963~1964年当時、日本でザ・ビートルズはそこまで流行ってないです。

1964年の日本は、前回の東京オリンピック開催の年で、こちらの方が当時の日本人は大盛り上がりだったのは、若い人でも想像がつくでしょう。

1964年の日本レコード大賞受賞曲は、青山和子さんの「愛と死をみつめて」。新人賞は西郷輝彦氏と都はるみさん。これから「橋幸夫舟木一夫西郷輝彦」の御三家の時代になる、日本はそんな時代でした。

更には、1965年にはザ・ヴェンチャーズ、アストロノウツによる「エレキの夏」、空前のエレキブームが男の子の中で日本では起き、主役はザ・ビートルズではなくこちらのエレキインスト。

勿論、それなりのザ・ビートルズファンは当時からいたと思いますが、リアルタイムでザ・ビートルズが日本で本当に盛り上がったのは1966年の来日時で、少しイギリスとアメリカと熱狂の時期がズレてます。

日本でも当時は洋楽ヒットに日本語詞をのせる「和製ポップス」が流行っていたので、東京ビートルズスリーファンキーズが、ザ・ビートルズの楽曲をカバーしてますが、ヒットしてません。

イギリス、アメリカのビッグバンだったザ・ビートルズなれど、当時の日本ではそうでもなかった、、、

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なので日本の場合、イギリスやアメリカと違いちょっと特殊で、1965年のインストのエレキブームから、1966~1968年の歌を唄い演奏するグループサウンズブームになっており、イギリスとアメリカとは様相が違うんです。

というか、今では当たり前ですが自分たちで曲を作り演奏し歌うザ・ビートルズのスタイルは、当時の日本の歌謡芸能の世界を仕切っていた「ジャズの人たち」には、営業妨害以外のなにものでもない。

当時は作詞作曲者と歌手、そしてその歌手のレコーディングをしたりテレビや公演で演奏するのはジャズのビッグバンドと、分業制で日本の歌謡芸能の世界は成り立っていましたから。

ザ・ビートルズのようなスタイルが流行ったら、彼らは飯の食いあげになっちゃう(結局、長い歴史の結果そうなりましたが)。

だから当時の日本では「噂のザ・ビートルズ」に対する風当たりは相当!強く、イエーイエーと叫んでるガチャガチャうるさいだけの素人音楽をやる、長髪のイギリス乞食というのが、当時の日本の大人の評価でした。

おそらく歌謡芸能の世界を仕切ってた「ジャズの人たち」が、意図的に流したこれは情報だったと思います。

今も昔も日本人は自分がバカだと周りに思われたくないので、すぐ権威象徴の情報に擦り寄りそれを復唱する国民性ですから、すぐにこういう情報は広まっちゃう。

敗戦後、占領軍アメリGHQ相手に演奏しギャラをもらい稼いだ金で築いた、彼らジャズマンの「マネーマシン」=歌謡芸能の世界を、ザ・ビートルズは壊しかねない商売敵、厄介な存在。

結局、この空気が1966年のザ・ビートルズ初来日の頃にも蔓延しており、今も伝説になってるすったもんだがあったわけで、また、グループサウンズブームも、ジャズの人達は良くは思ってなかったでしょう。

唯一、ジャズの人達の仲間、歌手のバック演奏やレコーディングをやっていたジャキー吉川とブルーコメッツだけは、オリジナル曲を作って自分たちで歌って演奏しても認めてやる。

でも、あとの「素人の小僧達」のバンドなど、断じて認めない。

これが、グループサウンズブームのジャズの人達や大人の定説でしたから、あれだけ圧倒的な人気があってもレコードが売れまくっても、ザ・タイガースレコード大賞も無縁で紅白歌合戦も呼ばれなかった。

また、グループサウンズザ・ビートルズの影響と伝わっておりますが、彼等がやってた曲はザ・ローリングストーンズの方が多く、ザ・ビートルズのカヴァーをやってるグループは、殆どいませんでした。

巨匠!渋谷陽一氏の意見をいつも引用流用させてもらってますが、私も「日本にビートルズ世代なんていない」論者で、いるとしたら2024年現在、70代前半の爺さん婆さんの筈。

若者や青年達の完全な後追いビートルマニアの方、身内含めそこらの70歳前後の爺さん婆さんに、ザ・ビートルズの思い出を聞いてみると良いです。びっくりするぐらい何も知らないですから(笑)。

なので、後世の若いザ・ビートルズファンや古のロックファン達は、当時のイギリスやアメリカのザ・ビートルズ現象を、日本には当てはめない方が良いと思います。

日本は、調べればすぐわかりますが、ちょっと違ってましたから。

日本でザ・ビートルズが正当に音楽や演奏力が評価され、ロックバンドと普通に今のように認知されるのは解散して数年後、所謂「青盤・赤盤」が発表されたあたりからで、そして今に至っています。 

私も解散頃からの遅れてきたビートルマニアですが、自分と年の近い女性で熱狂的なザ・ビートルズファンなんて一人も会った事ないですし、男も今の今まで数えるほどしかいません。

吉田拓郎教信者」「ユーミン崇拝婆さん」「永ちゃん最高爺」なら、石投げればすぐあたりますけど(笑)。

 

1975年 太平洋クラブライオンズの江藤慎一選手権監督の山賊打線!





1975年、選手兼任監督江藤慎一氏率いる太平洋クラブライオンズは、前後期通算3位!

1968~1982年の長〜い暗黒時代を経験してるライオンズは、親会社が西鉄太平洋クラブ→クラウンライター→西武と4回かわっており、この暗黒の14年間で唯一の!Aクラスがこの1975年でした。

結果、選手兼任監督になった江藤慎一氏を大洋ホエールズから、白仁天氏を日本ハムファイターズから、土井正博氏を近鉄バファローズから獲得した太平洋クラブライオンズの、この年の打線はかなり強力!

まぁ〜その後の西武が会社を上げてライオンズを強くしたので、なんとなーくその前のクラウンライターや太平洋クラブの印象は薄いですが、太平洋クラブは「チームを強くしよう!」としてました。

前年、結果は怪我で1試合しか出場しなかった大外れでしたが、MLB通算382本塁打を放っていた、当時の言葉の『現役大リーガー』、フランク・ハワード太平洋クラブは巨額で獲得してます。

また、その前年にもMLB通算93本塁打ドン・ビュフォードを、こちらも巨額で獲得しており、ハワードと違いビュフォードは丸3年活躍、1975年の強力打線でも活躍しました。



というわけで、外人に限らず国内でもトレード補強は続いて1975年、通称『山賊打線』の太平洋クラブライオンズパリーグのチーム打率1位。通算本塁打・打点は優勝した阪急ブレーブスに次いで2位。

そして首位打者白仁天氏、本塁打王土井正博氏の新加入のお二人が獲得し(共に初受賞)、打撃10傑には9位に基満男氏、10位のマティ・アルー太平洋クラブから3人も入りました。

更には、ビュフォードも21本塁打竹之内雅史氏も19本塁打白仁天氏も16本塁打と打ちまくった1975年の太平洋クラブライオンズの開幕オーダーは以下↓。

1 三 ビュフォード
2 遊 基満男
3 一 アルー
4 右 土井正博
5 左 江藤慎一
6 指 竹之内雅史
7 中 白仁天
8 二 国貞泰汎
9 捕 西沢正次

投手 東尾修

選手兼任監督江藤慎一氏は、セパ両リーグで3度首位打者に輝いている、この打線は相手ピッチャーからすると、息が抜けなかったと言えます。

 

まぁ〜、後の近鉄バファローズの『いてまえ打線』の大元って感じだったでしょうかね〜?

一方、投手陣はチーム防御率は3,73とリーグ5位で、投手陣がもう少し頑張っていたら、あの打線だったら大袈裟ではなく優勝してたかもしれないです。


それでも、エース東尾修氏は23勝15敗で最多勝を獲得しており、防御率も2,38で3位。広島カープから獲得した木原義隆氏が10勝9敗、防御率2,76で7位。

阪急ブレーブスから獲得して3年目の石井茂雄氏も9勝9敗2S。東尾修氏と共に西鉄時だからの生え抜き!4年目の加藤初氏が8勝11敗。この4人がローテーションピッチャーでしたが、後が足りなかった。

ところが!太平洋クラブは、Aクラスの大功労者の江藤慎一選手兼任監督の残留は決めますが、新たに!アメリカから、MLBで選手・監督として実績あるレオ・ドローチャーを監督に招聘。

この辺が繰り返しますが、太平洋クラブは積極的にチームを強くしたい、不人気のパリーグでも(当時は)話題を作りたいという強い思いのあるスポンサー会社でしたが、これが裏目に出てしまいます。

江藤慎一氏が新たに選手権打撃コーチを要請されますが、監督として成果を出していた江藤慎一氏はこれを固辞しなんと!退団。選手としてロッテオリオンズへ復帰。

更には!この時71歳のレオ・ドローチャーは、来日直前に病で倒れてしまい太平洋クラブは招聘を断念。

更に!更に!1975年はセリーグでは、長嶋茂雄新監督の読売ジャイアンツが球団初の最下位に落ち込む大事件が起きてしまい、太平洋クラブは、加藤初氏をトレードで読売ジャイアンツに放出してしまいます。


結果、伊原春樹氏と共に、関本四十四氏と玉井信博氏との2対2のトレードでしたが、1976年は関本四十四氏は1勝4敗、玉井信博氏は3勝13敗2Sと期待を裏切ったのに対し、加藤初氏は15勝4敗8S。

加藤初氏は日本ハムファイターズから獲得した張本勲氏と共に、読売ジャイアンツの最下位からリーグ優勝に大貢献しています。

まぁ〜太平洋クラブにしては、人気の読売ジャイアンツから選手を獲得すれば話題性もあるし、特に玉井信博氏は加藤初氏と同い年のまだまだ若い投手だったので、大きな期待もあったでしょう!

しかし、このトレードは太平洋クラブ側の大失敗で、加藤初氏は1976年から1990年まで15年間大活躍したのに対し、関本四十四氏は1年で大洋ホエールズに出されますが、勝ち星なきまま1978年に現役引退。

玉井信博氏は翌1976年も1勝8敗と振るわず、西武に球団が変わってからも残留してますが、1976年以降は勝ち星なく1980年に現役引退しています。

結局、すったもんだの末、ヘッドコーチから監督に究極なった鬼頭政一氏率いる1976年の太平洋クラブライオンズは、1972年以来の最下位転落。

太平洋クラブはこれにてスポンサーをやめ、太平洋クラブは4年で球団経営から撤退し、新たにクラウンライターがライオンズのスポンサーになりますが、2年で球団経営から撤退。西武に身売りしました。

 


1991年の東宝「ゴジラ対キングギドラ」に観る、Japan as Number One


大森一樹監督&脚本、1991年12月公開の東宝映画「ゴジラキングギドラ」は東宝60周年記念作品でした。

まぁ〜なかなか良作ですし、出演陣もちょい役含め小林昭二氏、佐原健二氏、黒部進氏、土屋嘉男氏など特撮ものオールスターなのもファンには見物です。

ゴジラキングギドラ」は、タイムマシンで23世紀からやってきた未来人たちが登場する物語で、時代的に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」公開から6年、同Part2公開から2年、同Part3公開から1年。

未来シーンは登場しませんが、大東亜戦争末期と現代を行き来するストーリーは、こりゃーもう「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズの影響にあった映画なのは間違いないでしょう。



更に!こちらもタイムマシンものの不朽の名作!「ターミネーター」日本公開からも6年、「ターミネーター2」は同年公開されたばかりの、正に!世はこのタイムマシンもの2本が大当たりしていた時代。

東宝大森一樹氏も、その影響を受けてないわけがないわけで、未来人はアンドロイドと共にやってきて、ロバート・スコット演じたアンドロイドは、もろに!「ターミネーター」を模倣しています。

また、「ゴジラキングギドラ」公開の1991年はバブル崩壊の年ですが、この脚本、未来人が23世紀も日本が世界でブイブイ言わセてるのを止めるために、キンググギドラに日本を破壊させようと企てる物語。

思えば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の未来も、日本がブイブイ言わせてる設定、日本公開1989年の「ダイハード」も、アメリカに建てられた日本企業のナカトミビルが舞台。

誠に当時の日本経済はアメリカ、世界の脅威だったのがよくわかります。昨今の欧米の映画で、これは悲しいかなないです。アジア系で金落ちと言えば今やChinaばっかり。


なので、バブル崩壊と言っても当時は、「なーに今ままでがちょっとおかしかっただけで、またすぐ元に戻るさ」と殆どの日本人は思っており、その後の『失われた30年』など誰も想像してなかった。

ゴジラキングギドラ」の未来の日本は、そんな時代背景に大森一樹氏が脚本を書いたものですが、23世紀はわかりませんが、21世紀の今や日本経済は世界の脅威でもなんでもなくなっちゃった。

だから、この大森一樹氏脚本の「ゴジラキングギドラ」は、ちょいとバブル時代を知る爺にはせつない映画です。当時は、こんな筈じゃなかった『失われた30年』ですので。

というわけで、最後になりますが「ゴジラキングギドラ」でヒロインを演じた中川杏奈さん、ドイツ系クォーターの美しい女性でしたが、2014年に闘病の末、子宮体癌で49歳でお亡くなりになってます。

  

読売ジャイアンツ歴代通算最多勝利投手に見る、通算200勝の難しさ!





読売ジャイアンツの歴代通算最多勝利投手は、別所毅彦氏の221勝

別所毅彦氏は、南海ホークス時代の勝ち星を加えると通算310勝で歴代5位。1位の400勝の金田正一氏は読売ジャイアンツでは47勝しかしておらず、この辺が別所毅彦氏やスタルヒン金田正一氏の違いです。

2位が中尾碩志氏で209勝ですが、別所毅彦氏も1944~1945年の2年間、中尾碩志氏は1943~1945年の3年間、大東亜戦争で若い頃に野球歴が中断しているのが惜しまれます。

そして3位が堀内恒夫氏で203勝 。2リーグ分裂後では、読売ジャイアンツで唯一の200勝投手が堀内恒夫氏。

通算200勝以上はここまでの3人で、4位がもう一人の300勝投手!スタルヒンですが、読売ジャイアンツでは199勝。5位が200勝投手の藤本英雄氏ですが、こちらも読売ジャイアンツでの勝ち星は183勝でした。

まぁ〜ここまでトップ5の投手名を聞いても、堀内恒夫氏以外は2024年現在50~60代のおっさん、爺さんでも流石に『昔の人』と思いますが、6位から10位まではおっさん、爺さんにもお馴染みの名前ばかり。


6位は平成の大エース!斎藤雅樹氏で180勝、7位が桑田真澄氏で173勝、8位が槙原寛己氏の159勝の、1980~1990年代に『三本柱』と呼ばれた3投手が続きます。

で、このお三方、200勝には届かなかったですが、時代と共に野球も変わってきたので、特に!槙原寛己氏は56セーブと抑えをやっていた年もあるので、勝ち星だけでは必ずしも評価できないです。

これは112勝(16位)の上原浩治氏も同じで、33セーブ、23ホールドと、先発、中継ぎ、抑えと球団のチーム事情により担っていたので、勝ち星だけでの評価は出来ません。

読売ジャイアンツで通算100勝以上して、セーブとホールド合わせて50以上の数字を残しているのは、この槙原寛己氏と上原浩治氏の二人だけです。

 

勿論、そういう記録がなかっただけで、昔のエースと呼ばれた投手は先発、抑えの大活躍でしたが。



ちなみにこの8人の中で、読売ジャイアンツのピッチャーとして通算300イニング投げているのは堀内恒夫氏だけで、奪三振槙原寛己氏が2,111で最高で、次が桑田真澄氏の1,980。

で、通算勝利9位が、V9ジャイアンツの前半のエースだった城之内邦雄氏で141勝。10位が江川卓氏の135勝で、内海哲也氏が133勝まで追い上げましたが、あと2勝届かずトップ10入りならず。

現役では読売ジャイアンツ一筋の菅野智之氏が、2023年現在121勝で最多で、あと14勝で江川卓氏に並びトップ10入りですが、野球も昔とは随分変わったので、この先100勝達成も難しくなるでしょう。

最後になりますが、王貞治氏や柴田勲氏がピッチャーから野手に転向し成功してるので、守備も上手く打撃に定評もあった堀内恒夫氏、斎藤雅樹氏はピッチャーがダメだったら野手という狙いで獲得したとか。

おそらく、こちらも守備も打撃も天下一品の桑田真澄氏もそうだったんでしょうね。

 

V9時代の『ONに次ぐ五番打者』候補者たち



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読売ジャイアンツは、1965年に東映フライヤーズから吉田勝豊氏、1966年には西鉄ライオンズから田中久寿男氏、1967年には同じく西鉄から高倉照幸氏を獲得。

このお三方が『ONに次ぐ五番打者』候補でした。

1965年の不滅のV9の1年目、吉田豊氏は133試合に出場し本塁打7本、44打点、打率.264と、そこそこの成績でしたが、『ONに次ぐ五番打者』候補としては物足りない感じだったのでしょうか。

翌年から試合出場は減り、1968年に西鉄にトレードされています。

また、田中久寿男氏は1966~1968年の3年間、100試合以上出場はなく、本塁打も3年間で9本と振るわず、1969年に、こちらも西鉄にトレード。

高倉照幸氏は1967年に73試合出場でしたが、本塁打は15本放っており、打点も44、打率.274と、当時の『ONに次ぐ五番打者』候補としては最高の成績を残しましたが、翌年には大幅に成績を下げています。




どうも当時は人気のなかった、球場もガラガラのパリーグから人気の読売ジャイアンツに移籍すると、1年目は活躍しますが2年目には燃え尽きてしまうようで、高倉照幸氏も1969年にアトムズにトレード。

最後にもう一人!『ONに次ぐ五番打者』候補で1969年に大洋ホエールズから獲得したのが、桑田武氏でしたが、僅かに13試合出場で本塁打0、打点0で1年でヤクルトにトレードされています。

まぁ〜『ONに次ぐ五番打者』候補で、最も強力だったのが桑田武氏で本塁打王1回、打点王1回含め、通算223本塁打大洋ホエールズの不動の4番でしたからね〜。

突然!1968年に桑田武氏は怪我含め極度の不審に陥り、別当薫監督とも揉めてトレードになったわけですが、実際にこの年以降、引退するまで桑田武氏は選手として復活することはなかったです。

あと、首位打者経験ある広島カープの主砲!森永勝也氏も『ONに次ぐ五番打者』候補として、1967年に読売ジャイアンツに移籍しましたが、好打者でしたが年齢的に『代打の切り札』という感じでしたね。

結局、読売ジャイアンツの『ONに次ぐ五番打者』候補は、1968年のドラフト会議で法政大の田淵幸一氏も逃した読売ジャイアンツは、生え抜きの末次民生氏と柴田勲氏がつとめるようになりました。


1968年は期待に応えた柴田勲氏が、キャリアハイの26本塁打放ちますが、大きいのを狙いすぎたためか三振が激増してしまい106三振で三振王。

翌年も柴田勲氏は打率、本塁打ともに落としてしまい、元のアベレージヒッター&盗塁王に戻るまで数年かかっているので、柴田勲氏の『ONに次ぐ五番打者』は成功だったとは言えなかったでしょう。

一方、柴田勲氏ほど活躍はできなかった末次民生氏なれど、V8の1972年には21本塁打、打率.283、打点63で『ONに次ぐ五番打者』として大活躍!

翌年の末次民生氏は13本塁打、打率.262、打点59と打撃三部門全て前年を下回りましたが、V9最後の年もV8に続いて、『ONに次ぐ五番打者』のつとめは果たしたと言えます。

ただV9時代、『ONに次ぐ』本塁打を最も放っているのは92本の柴田勲氏で、次がホームランバッターの印象が薄いのに、V4からの5年間で75本塁打放った高田繁氏。末次民生氏は72本で3位です。

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1963年 サーフシティ、サーファーガールで天才!ブライン・ウィルソン(ザ・ビーチボーイズ)が大ブレイクした





ザ・ビーチ・ボーイズの有名な「サーファー・ガール」。

 

1963年の発表のこの曲は、キャピタル発売のシングル盤としては4作目になります(ほぼインディーズ系デビュー曲の「サーフィン」を入れると5作目)。

過去3曲のうち「Ten Little Indians」はカヴァー曲ですので別にして、今でも有名な2曲「サーフィン・サファリ」「サーフィンUSA」は、マイク・ラブが主旋律を歌っています。

 

で、前作の「サーフィンUSA」が、初めて全米ビルボードトップ10入りを果たした(最高位3位)ザ・ビーチ・ボーイズにとって、次の作品はとても重要です。


そこで、マイク・ラブではなく、ブライアン・ウィルソンが主旋律を歌い、そして彼の作詞作曲の「サーファー・ガール」が、選ばれたわけです。

 

思えばメンバーはともかく、キャピタルのお偉方も若きブライアンの天才を、この頃確信していたのでしょうから、それはそれはオーラが出るほどその才能は輝いていたのでしょう。

 


ちなみにこちらも古のサーフロックの名曲、ジャン&ディーンの「サーフ・シティ」も作曲はブライアン・ウィルソンで(作詞はジャン・ベリー)、1963年7月に2週連続全米ビルボードチャート1位を獲得。

 

「サーファーガール」も、「サーフィンUSA」の3位には及ばなかったですが最高位7位の連続トップ10入りさせ、ザ・ビーチ・ボーイズはこれにてその地位を確固たるものにしています。

なので、天才!ブライアン・ウィルソンが、その才能を爆発させたのは、この1963年だったと言えるでしょう。

ちなみに、同時期にイギリスで大ブレイクしていたザ・ビートルズは、アメリカではまだ何も起きてません。

で、シングルカットされた「サーファー・ガール」収録の3枚目の同名アルバムより、ブライアン・ウィルソンがプロデュースも担当するようになったわけですが、この時まだ彼は21才になったばかり。

既に「サーフィン・サファリ」「サーフィンUSA」の2枚のアルバム、同名のシングルをヒットさせていたとは言え、商業主義のレコード会社も思い切った選択をしたものだと感心します。





そんな若き天才!ブライアン・ウィルソンはアルバム「サーファー・ガール」から、積極的に外部のミュージシャンを起用するサウンド作りを開始。

実質的に、オリジナルメンバーによるザ・ビーチ・ボーイズサウンドを聴きたいのなら、アルバム「サーフィン・サファリ」「サーフィンUSA」の2枚です。

「サーファー・ガール」以降、ザ・ビーチ・ボーイズのレコーディングメンバーは不明な部分が多く、有名なアメリカのスタジオミュージシャン集団のレッキング・クルーも登場してきます。

まぁ〜アメリカでもイギリスのザ・ビートルズ旋風が巻き起こるのは、「サーファー・ガール」の翌1964年からで、自分たちで曲を作り演奏し歌いハモり、印税も稼ぐ。それこそが今最もカッコいい。



ミュージシャンや当時の若者達に、そんな価値観がうえつくのはザ・ビートルズの影響で、イギリスでもザ・ビートルズ以外は、まだまだスタジオミュージシャンを使ってレコーディングしていた時代です。

そのザ・ビートルズアメリカで大旋風を巻き越す1年前に、ブライアン・ウィルソンがバンドメンバー以外の巣tジャイオミュージシャンを起用しようとしたのは、何もおかしな発想ではなかった。

むしろ、それこそが当時の音楽業界の定石であり、特にレッキング・クルーの参加したレコードは売れており、商業主義のレコード会社のお偉方も、そのやり方に反対する理由などあるわけがない。

勿論、ザ・ビーチ・ボーイズの他のメンバーも、それが音楽業界の当たり前のスタイルだったので、案外わりと素直にそれに従っており、ありがちな音楽家としての性による軋轢はなかったと言えます。

そんなバンドの分岐点になったのが、サードアルバムの「サーファー・ガール」でした。

 

最後になりますが、1963年当時の日本ではザ・ビーチ・ボーイズザ・ビートルズも、まだ影も形もありません。

 

坂本九氏の「SUKIYAKI」(上を向いて歩こう)が、ザ・ビーチ・ボーイズザ・ビートルズよりも早く全米ビルボード1位を獲得。翌年の東京五輪開催に向け、いけいけどんどんで都内はいきなり変貌していました。