高市早苗首相を訪問したディープ・パープル! やはりこれは歴史的な出来事だと思うな〜




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2026年4月10日、イギリスのディープ・パープルのメンバーが日本の高市早苗首相を訪問した。

まぁ〜それだけでも凄いことなのですが、所謂『第二期』のメンバー、イアン・ギラン、イアン・ペイス、ロジャー・グローヴァーの3人が、今も元気にライブツアーをやってる事に更に驚いた次第。

2012年にジョン・ロードが他界してしまったので(71才没)、『第一期』からのメンバーはドラムのイアン・ペイスだけになってしまいましたが、そのイアン・ペイスは1948年生まれで6月で78才です。

更に!イアン・ペイスより年上、1945年生まれのイアン・ギラン、ロジャー・グローヴァーは今年81才。

ディープ・パープルは、所謂『第四期』を最後に1976年に残念ながら解散。が、8年後の1984年に『第二期』のメンバーで再結成して、それはそれは当時、大いに話題になったものです。

この辺は1978年のヴァン・ヘイレン登場、『第三期』でディープ・パープルを脱退したリッチー・ブラックモアのレインボーの影響があったと思いますが、降ってわいたメタルブームが当時は起きてました。

ディープ・パープル再結成には、そんな時代背景があったんですね〜。

再結成と同時に発表された、それまでのディープ・パープルのベスト盤「ディーペスト・パープル」は、ディープ・パープルを知らない若い方には、お薦め。最高の入門盤だと思います。


で、再結成はうまく行ってると思われましたが、やっぱり!イアン・ギランとリッチー・ブラックモアの不仲は再び根深くなっていたよう。

まぁ〜爺になって思いますが、馬が合う合わない、虫がすかない気が合う合わないって理屈抜きの感覚、感情にありますね。女性にありがちですが「生理的に嫌い」って、人間にはあるんですよ。

結果、以前もそうでしたが、ディープ・パープルの圧倒的人気者のリッチー・ブラックモアを、やっぱり他のメンバーは商売上とるわけで、1989年、イアン・ギランはディープ・パープルを解雇。

で、後任にリッチー・ブラックモアが率いたレインボーのジョー・リン・ターナーを入れますが、今度は彼が他のメンバーとうまくやれずに脱退してしまい、再びイアン・ギランを戻しています。


当然、リッチー・ブラックモアは大反対でしたが、ディープ・パープル結成25周年の興行的にも他メンバーも関係各位も賛成しため、流石のリッチー・ブラックモアも仕事ですから!押し切られた。

とはいえ、そこは!リッチー・ブラックモア、25周年ツアーの途中でやっぱり脱退。

これにて、リッチー・ブラックモアのディープ・パープルでの活動は終了。残った『第二期』メンバーは亡くなったジョン・ロード含め、安定して平和にディープ・パープルという仕事をやり続けてます。

まぁ〜最後になりますが、今やディープ・パープルの代表曲として「ブラックナイト」を語る人は少ないと思いますが、1973~1974年の歌舞伎町『ゴーゴートレビ』に出演してたバンド、よくやってました。

だからハードロックに全く興味のなかった、当時の踊り場好きな人たちにとって、ディープ・パープルと言えば「ブラックナイト」の爺婆、一定数いると思っております。




 

ドゥービー・ブラザーズと矢沢永吉氏の1980~1982年


 



ドゥービー・ブラザーズが1978年12月に発表し、全米ビルボードチャート1位を獲得したアルバム「ミニット・バイ・ミニット」。

更に、シングルカットされた「ホワット・ア・フール・ビリーブス」は、第22回グラミー賞で最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞の2部門を受賞しました。

ところが、このアルバムを最後にオリジナルメンバーのジョン・ハートマンと、スティーリー・ダンから途中加入するも既にバンドの顔になっていたジェフ・バクスターが脱退。

まぁ〜ドゥービー・ブラザーズはメンバーチェンジ激しいバンドでしたが、これにて1970年レコードデビュー時のオリジナルメンバーは、パトリック・シモンズだけになってしまいました。


ドゥービー・ブラザーズはこのまま解散してしまうのではないか?と、蒼き私なんかは心配したものでしたが、1980年10月にはニューアルバム「ワン・ステップ・クローサー」を発表。

で、「ミニット・バイ・ミニット」に続いて「ワン・ステップ・クローサー」のアルバムジャケットもメンバー7人全員が写っているものが使われておりました。

が、ジョン・マクフィー、コーネリアス・バンパス、チェット・マクラッケンの3人も新加入メンバーが写っていたので、正直、当時は違うバンドのような強い違和感を感じましたね〜。






で、アルバムも今聴くと、あの当時の!所謂AORそのものって感じで懐かしく聴けるのですが、リアルタイムは、もっと!ハードでファンキーな曲が欲しいな〜と物足りなさを感じたものでした。


まぁ〜この辺は私の場合、ドゥービー・ブラザーズ=トム・ジョンストンのギターファンゆえ、「ワン・ステップ・クローサー」に限ったことではなかったので、ご了承くださいませ(笑)。

そしてそんな後、日本にドゥービー・ブラザーズに関する2つのニュースが入ってきました。

1つは「ワン・ステップ・クローサー」を最後に、今度はタイラン・ポーター脱退。これにて「ミニット・バイ・ミニット」からでも6人のうち半分のメンバーが脱退。

代わりにセッションマンのウィリー・ウィークスが加入したそうですが、(このバンドを、本当にドゥービー・ブラザーズと呼んで良いのか?)なんて思ったものでした。


で、もう1つのニュースが、日本の矢沢永吉氏のニューアルバムに、ドゥービー・ブラザーズのメンバーが参加するというもので、こちらはかなり日本人には明るいニュース!

結果、この矢沢永吉氏のニューアルバム「YAZAWA」のプロデュースは「ワン・ステップ・クローサー」のゲスト参加後、正式メンバーになるボビー・ラカインドとリトル・フィートのポール・バレア。

が、セッションマンの集合体のようになっていたドゥービー・ブラザーズは、個々の活動も当然あり(矢沢永吉氏との仕事しかり)、唯一のオリジナルメンバー、パトリック・シモンズが活動休止を提案。

というわけで、矢沢永吉氏のアルバム「YAZAWA」発表の翌1982年、初期のオリジナルメンバーを含むフェアウェル・ツアーを行い、ドゥービー・ブラザーズは解散してしまいました(後に再結成)。

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1976年夏大ヒットした!あおい輝彦氏の「あなただけを」の作詞作曲者は注目!





1976年6月発表、同年夏オリコン最高位1位を獲得した大ヒットナンバーの、あおい輝彦氏の「あなただけを」。

あおい輝彦氏は、自身も俳優として出演したテレビドラマ「二人の世界」の主題歌を、1971年にオリコン最高位3位のヒットをさせてますが、その後はヒットはなく「あなただけを」は久々の大ヒットでした。

まぁ〜おおい輝彦氏はティーンエイジャーの頃、元祖ジャニーズのメンバーだったわけですが、これ結構なおっさん、おばちゃん、爺さん婆さんに言っても知らない人が多い。

ジャニーズ事務所所属タレントで、初めてNHK紅白歌合戦に出場したのは、1965年 あおい輝彦氏が所属していた元祖ジャニーズでしたが、この時歌ったのはジャズスタンダードの「ジャック・ザ・ナイフ」。

はっきり!ヒット曲がないのに、元祖ジャニーズは紅白歌合戦に出場しており(笑)、1967年、グループサウンズ真っ盛りに小ヒットした、同名テレビドラマ主題歌「太陽のあいつ」の時は出場してません。



で、「太陽のあいつ」のバックダンサーだったのが、後のフォーリーブス、当時のジャニーズJr.でした。

まぁ〜当時のエレキバンドのグループサウンズブームの最中、楽器も持たないダンスグループのジャニーズは、人気のグループサウンズに比べ、かなり人気は見劣りしていた記憶があります。

当時のジュリー=沢田研二氏他、ザ・タイガースのメンバーが、女性人気の横綱だとしたらジャニーズは前頭ぐらいでしょうかね〜(だから年配でも、少年少女時代の印象がなかったのでしょう)。

てなわけで、1967年12月一杯でジャニーズは解散しましたが、それほど人気もなかったので、人気爆発のグループサウンズブームの最中、話題になることはなかったです。

あおい輝彦氏は解散後の1968年、進藤英太郎氏主演のテレビドラマの「おやじ太鼓」に出演、主題歌も歌っており、ソロになってからこの俳優ドラマ出演、その主題歌を歌うという仕事が主になっています。



その経由で、上記の「二人の世界」主題歌の、ソロになってからの初ヒットがあったわけです。

が!しかし!あおい輝彦氏の存在感を決定駅にした当時の最大の仕事は、1970年放映開始のテレビアニメ「あしたのジョー」での矢吹丈の声、声優をやった事でしょう。

まぁ〜矢吹丈の声は、あおい輝彦氏以外、あり得ないでしょう!誰もが矢吹丈の声と言えば、あおい輝彦氏の声が頭に普通に浮かぶ筈ですから。それほどこの仕事はハマりましたね。

当時は声優という仕事はなかったと、よく後に声優と言われる方々がインタビューで述懐されてますが、あおい輝彦氏もそうだったようで、当初はこのオファーを断ったとか。

が、番組プロデューサーの熱意に応じ、仕事を受けたそうですが、結果!矢吹丈の声は、あおい輝彦氏の声優デビュー。

複数名確認できる「あしたのジョー」プロデューサー関係各位の、誰がそこまで推したんだか知らないですが、あおい輝彦氏の矢吹丈の声は、抜群の選択だったと「あしたのジョー」ファンの私は思ってます。


更にそんな最中の1972年、あおい輝彦氏は24才でファッションモデルの秦紀子さんと結婚。ホノルルの教会で挙式しました。

そんなこんなでソロになってからの あおい輝彦氏は仕事もプライベートも順風満帆で、ソロアルバムも「二人の世界」ヒット後発表されており、シングル・アルバム発表の音楽活動も地道に継続。

とは言え「二人の世界」から「あなただけを」まで、8曲シングルを発表しますが大ヒット曲はなく、「あなただけを」の前は、約1年7ヶ月シングル発表はありませんでした。

だから!レコード会社も事務所もご本人も、久々のシングル「あなただけを」は、ある種音楽活動の命運をかけた1枚だったかもしれないですね。

「あなただけを」のヒット以降、この手のサマーソングは化粧品会社とCMタイアップでヒットするのが定石になりましたが、「あなただけを」はそうではなく、更にはテレビ主題曲でもなかった。

何のタイアップもなく、また、あおい輝彦氏は歌手として歌番組やワイドショー等で営業もやってなかったので、「あなただけを」は、本当に自然発生的に大ヒットしたナンバーだったと記憶しております。



で、「あなただけを」の作詞は元GAROの大野真澄氏で、作曲は元ザ・リガニーズ、猫の常富喜雄氏で、なんとなく名前だけでヒットメーカーっぽいですが、共に自作としては初の大ヒット曲。

だから、大野真澄氏と常富喜雄氏が、ヒットメーカーだから作品を依頼したわけではなく、どういう経緯でこのお二人にレコード会社、事務所が作品を依頼したのか?どうもよくわからない。

大野真澄氏は、それはそれは1960年代後半のグループサウンズブーム並みの人気だったGAROも、グループサウンズと同じように人気は突然終わりを告げ、1976年3月に解散。

時期的に「あなただけを」の作詞をする少し前ですが、大野真澄氏もGAROで作詞もやっておりましたが、有名な一連のヒット曲に関与はしておりません。

まぁ〜「あなただけを」は曲先だったそうなので、常富喜雄氏が先にあの!メロハモを創作したわけですが、当時は猫も1975年に解散しており、失礼ながらお二人とも人気絶頂から滑り落ちた頃です。

また、猫のヒット曲「雪」「地下鉄にのって」は吉田拓郎氏作曲で、「各駅停車」は石山恵三氏の作曲。常富喜雄氏作曲のシングルナンバーもありましたが、残念ながらヒットはしておりません。



というわけでタイアップの企画ものでもなく、作詞作曲もヒットメーカーではなかったお二人の「あなただけを」。

繰り返しますが「あなただけを」は曲先で、おそらく「おっ!良い曲だな〜」と、あおい輝彦氏の事務所かレコード会社の人がどこかで耳にしたのでしょう(或いは、あおい輝彦氏本人か?)。

そして、大野真澄氏が作詞の依頼を受けた時「湘南サウンド」と注文がついたそう。

出来上がった、その湘南サウンドの「あなただけを」は、「二人の世界」以来ヒットから遠ざかっていた あおい輝彦氏約1年7ヶ月ぶりのシングルとしてレコーディングされ発表。

まぁ〜今聴いても素晴らしいアレンジ、アンサンブル。正に!夏っぽいサウンドの、この編曲を担当したのは惣領泰則氏で、この方も音楽活動は長いですが、当時の所謂ヒットメーカーではありませんでした。

作詞・作曲・編曲、お三方とも「あなただけを」が初の大ヒット作品です。



で、「あなただけを」の大ヒット後、レコード会社も事務所も勢いのあるうちに連続ヒットを狙ったと思いますが、次の「君が優しすぎるから」は作詞が岩谷時子さん、作曲が井上忠夫氏のヒットメーカー。

これが全くヒットしなかったのですから、本当にシングルヒットは水もの。ヒットメーカーだからと言って必ずしもヒットするわけではないので、関係各位も悩むところですね〜。

ちなみに「君が優しすぎるから」の編曲は、ゴダイゴでブレイク前の浅野孝巳氏で、「あなただけを」の前の、ヒットしなかった「旅の終わり」の編曲も、ブレイク前のチャー=竹中尚人氏と佐藤準氏。

あおい輝彦氏もレコード会社も事務所も、何か今までとは違う新しいサウンドを欲しがっていたのでしょう。

結果、その後のシングル「Hi-Hi-Hi」がオリコン最高位7位、その次の「センチメンタル・カーニバル」もオリコン最高位8位と連続ヒット。

というわけで、役者イメージの強い あおい輝彦氏ですが、1970年代に4曲もオリコントップ10入りするヒットシングルを実は出しています。

まぁ〜作曲もできる加山雄三氏は別格にして、役者と歌手を兼業し、ソロとして4曲のビッグヒットを持ってる人は珍しいんじゃないですかね〜?

 

若き若尾文子さん、京マチ子さん等出演映画「赤線地帯」、今風で面白かった〜🎵

 

 



若い頃から気になって観たいと思っていた、1956年の大映映画「赤線地帯」をやっと観た!

私的に、売春の民営化と思ってる『売春防止法案』が国会で審議されていた頃の、吉原の「夢の里」で働く女性たちの物語で、出演者がなかなかの方々なのが、若い頃から気になっていた要因。

結果、溝口健二監督の遺作だそうですが、いや〜思った以上に面白い映画。「赤線地帯」は名作ですね〜!今の人気女優でリメイクしてほしいぐらいです🎵

タイトル名含め昔のモノクロ映画なので、なんとなーく先入観で湿っぽい邦画と思う方もいると思いますが、そういう部分もないことはないですが、全体的にとても!今風でコミカルな作品です。

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この合法の赤線地帯で商売してた店主役が進藤栄太郎氏で↑、その奥様が沢村貞子さん。このお二人は役が似合っていて!とても良いです。

で、出演者ですが娼婦役の皆さんが素晴らしく、まず「ミッキー」役の京マチコさん。既に1950年の黒澤明監督の「羅生門」、谷崎潤一郎氏の「痴人の愛」のナオミと、当時からその人ありの大女優!

なので、今更感もないこともない32才を迎える年での、このアバズレ・ズベ公の娼婦「ミッキー」役を、よく受けたな〜と思ったりしますが、この京マチコさんが肉感的な色気満載でとても良い。

と言っても、娼館の話でもおっぱい(乳首)とか全く!出ませんので、その辺だけ期待してる男衆は観ない方が良いでしょう。かつてのロマンポルノ、昨今のAV的なシーンは全くないですから。

思うに古典落語の「品川心中」や「お見立て」の江戸噺と同じで、女心と男の助平心は不変(笑)。あんまりこの辺の諸々の男女の台詞のやりとりに違和感はなく、当時も今も変わらないな〜と思わされます。

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で、↑京マチ子さんはサブリナパンツ履いてますが、このパンツがが有名になった、オードリー・ヘップバーンの映画「麗しのサブリナ」公開は1954年と「赤線地帯」の2年前。

きっと当時は、サブリナパンツは洒落てるけど、とっぽい女性の定番だったのかもしれないですね。爺が若者だった1970年代でも、サブリナパンツ履いてる女性は、ほぼイケイケ系だったし(笑)。

まぁ〜娼婦という仕事を楽しんでるようで、稼ぐけど金使いも荒いので借金も多い、その日暮らしの自転車操業人生の「ミッキー」が、何故?そんな人間になったか?

父親が貿易商を営む金持ちだけど道楽者で、母親が苦労していた姿を見ていたので、そんな父親に反抗して家を出て娼婦になっており、父親が訪ねてきても頑なに父親に反抗しひと悶着。

一方、「やすみ」役の若尾文子さんは同年で23才なれど、既に京マチ子さんや山本富士子さんと並ぶ美人女優としてこちらも売れっ子で、若尾文子さんも美しいし光ってます。

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若尾文子さん演じる「やすみ」は、父親が疑獄事件で逮捕され、その保釈金のために体を売ったようで、だから貧乏が大嫌いと豪語し、ある種の守銭奴に徹してる娼婦。

「やすみ」は古典落語「お見立て」の花魁に近いですが、昨今事件になり逮捕、懲役刑になった「いただき女子りりこちゃん」にも通じるものがあります。

が、ホストに金を使った「いただき女子りりこちゃん」と違い、「やすみ」は潜在的に男にも敵意を持っているのでしょう、全て!自分のためだけに男を騙して貯蓄をしてる娼婦。

「やすみ」は「赤線地帯」の娼婦たちの中で、ラストは勝ち組に描かれてますが、娼婦時代に騙された男に暴行を受け大騒ぎになっています。

リアルの「いただき女子りりこちゃん」は詐欺罪で執行猶予なしの懲役刑ですから、こちらは映画ですし時代が違うとは言え、ちょっと「やすみ」の描き方が甘いかな?

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もう一人、会社をクビになった病弱な亭主持ちの「ハナエ」役の木暮実千代さんも上映当時38才。トウのたった幸薄い娼婦役がとても似合ってます。

木暮実千代さんは、色っぽいですが元々が品の良い雰囲気の方なので、ついこないだまで普通の主婦をやってました。今も普段は普通の主婦ですの、訳ありの『通いの娼婦』役がとても説得力がある。

そして、町田博子さん演じた「よりえ」は、ただ結婚に憧れる女性で、逃げるように彼の元に行きますが、嫁として労働力としてこき使われ、嫁ぎ先は実は貧乏で嫌になって娼婦に戻っちゃう。

まぁ〜「よりえ」も、現代でも通じるんじゃないかしらね〜?

風俗やお水で働きつつ結婚というものに憧れ続け、いざ結婚したら現実は厳しく、また元の職場に戻ってしまうとかありそうですし、古典落語の「子別れ」の花魁もこのタイプかな〜?


というわけで、繰り返しになりますが「赤線地帯」の人間模様、各々のキャクターや諸事情、良い設定なのですが、私的にはちょっとな〜と感じたのが三益愛子さん演じる、こちらも幸薄い娼婦「ゆめ子」。

当時は、あの!良きお母さん役が定番だった、しかも46才になる三益愛子さんの娼婦役は話題だったようですが、この設定の湿っぽさは昔の邦画、ドラマにありがち過ぎて、私的にあまり好みではないな〜。

なので「ゆめ子」に関してはノーコメント。

ちなみに三益愛子さんて、2026年現在古希前後の爺婆には、直木賞作家の川口松太郎氏の奥様、かつて一時代を築いた芸能一家『川口浩・恒・厚・晶』のママでお馴染みですね。

最後になりますが、ラストの下働きの「しづ子」(川上康子さん)が、いよいよ化粧して着飾って店の前で初めて客を呼び寄せるシーン!

流石に男、爺が観てもせつない、とても良いエンディング。というわけで「赤線地帯」名作です。

 


 

無名のドラフト6位入団、河埜和正氏がレギュラーを獲得するまで!

 



不滅のV9達成時、読売ジャイアンツの遊撃手と言えば黒江透修氏でしたが、結果V10逸になった翌1974年を最後に黒江透修氏は現役引退。同年、河埜和正氏が遊撃手のレギュラーを獲得しています。

が、その河埜和正氏ですが、彼は母校の愛媛県立八幡浜工も野球強豪校でもなく、当然、本人も春夏甲子園出場もない全くの無名選手で、その彼を読売ジャイアンツは1969年のドラフト会議で6位指名。

当然、指名順も低いですし、繰り返しますが河埜和正氏は全くの無名選手だったので、当時はマスメディアが取り上げた事はなかったと記憶しております。

なんたってこの年のドラフト会議は、東京六大学は早稲田大のON砲と謳われた谷沢健一氏、荒川尭氏。そして初代!甲子園のアイドル、国民的人気者だった青森県立三沢高校の太田幸司氏が注目された年。

 


他にも東海大の上田二朗氏、日本大の佐藤道郎氏等、注目の即戦力候補がおり、読売ジャイアンツも1位、2位は早稲田大の小坂敏彦氏、阿野鉱二氏。3位も中央大の萩原康弘氏の大卒即戦力候補ばかり。

結果、プロでは大活躍できませんでしたが小坂敏彦氏は高松商時代は甲子園大会春夏連続出場、春は選抜ベスト4。更に早稲田大ではリーグ通算36試合登板、22勝6敗、防御率1.68、218奪三振の好成績。

前年の中日ドラゴンズの1位指名の星野仙一氏は、明治大時代リーグ通算63試合登板、23勝24敗、防御率1.91、199奪三振。勝ち星は1と負けましたが、防御率も奪三振も小坂敏彦氏の方が上で負け数も少ない。

というわけで、当時の読売ジャイアンツドラフト1位指名の小坂敏彦氏は、上田二朗氏、佐藤道郎氏と並ぶ!注目の大卒即戦力候補でした。

更に!2位指名の阿野鉱二氏も、明星の高校時代は1年夏から控え捕手として甲子園に出場し、チームはなんと優勝!(準優勝は池永正明氏の下関商)。2年夏も甲子園に連続出場しています。

そして早稲田大でもリーグ通算57試合出場、184打数52安打、打率.283。8本塁打、24打点。

前年の『法政三羽烏』の一人、法政大の山本浩二氏がリーグ通算65試合出場、229打数67安打、打率.293。8本塁打、30打点でしたから、阿野鉱二氏の成績は立派なものだったのがわかります。

そして3位指名の萩原康弘氏も、東京は荏原高校時代に春の選抜に出場しており、中央大で全日本大学野球選手権で優勝を飾っている、こちらも大卒即戦力候補の鳴り物入り入団でした。

なので甲子園出場もない、全くの無名高校生だったドラフト6位指名の河埜和正氏を、当時のマスメディアが取り上げるわけもなかったわけです。

河埜和正氏ドラフト指名の年の読売ジャイアンツは、不滅のV9時代のV5の年!


まぁ〜1969年と言えば、読売ジャイアンツ不滅のV9時代のV5の年で、河埜和正氏のポジション、遊撃手には不動のレギュラー黒江透修氏がおり、控えの上田武司氏も12試合出場し、本塁打を3本放ってます。

ですから、甲子園出場経験もない全くの無名選手だった河埜和正氏、いきなり高卒後に日本一強い、日本一の人気球団の一員になり、更に同期には学生野球で華々しい成績を残してる即戦力候補たちがいる。

どんな気持ちだったでしょうね〜?嬉しい反面、不安百倍ってところだったのではないかしら?

当然1年目の1970年は河埜和正氏は二軍。が、すぐに守備の上手さ、肩の強さが須藤豊二軍守備コーチの目に止まったそうですから、非凡な才能があったのでしょう(スカウトの目は確かだった)。



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そして、強い!読売ジャイアンツは1971年、V7を達成。

高卒プロ入り2年目の全くの無名の河埜和正氏、この状況では全く出番がないと思いきや!二軍イースタンリーグで打点王を獲得していたせいか、なんと2試合だけですが一軍に呼ばれています。

そして1973年、結果的にV9最後の年になったこの年、高卒4年目の河埜和正氏は、前年の7試合に続いて24試合一軍で出場。初ヒットも初本塁打も記録(25打数2安打、打率.087ですが)。

とは言え、当時の読売ジャイアンツには上田武司氏の他、1966年のドラフト1位、河埜和正氏より3才年上の山下司氏という二塁手、遊撃手がおり、なかなか熾烈なポジション争いです。


が、山下司氏も1971年に42試合に出場しましたが打率は.091で本塁打は0。

 

山下司氏はこの後、主に守備要員と代走で1972~1973年は共に19試合出場していますが、黒江透修氏の後継者&正遊撃手争いは、上田武司氏と河埜和正氏の二人に絞られたと言えます。

 

また、上田武司氏も1973年は93試合に出場。これはプロ入り最多試合出場でしたから、川上哲治監督の期待のほどが分かりますが、2本塁打放つも打率は.228。


結果、V10逸になった1974年、この年で現役引退する黒江透修氏は84試合出場に対し、プロ入り5年目の河埜和正氏は119試合に出場。

入団以来、初めて93試合出場の上田武司氏を上回り、本塁打も10本放ちますが、打率は.195と低迷。一方、上田武司氏は本塁打は6本でしたが、打率.266とまずまずの成績でした。

1975年、前年引退し監督に就任した長嶋茂雄氏は、開幕戦でそんな上田武司氏を6番二塁手、河埜和正氏を8番遊撃手で起用しますが、有名な話ですがこの年の読売ジャイアンツは球団史上初の最下位。


長嶋茂雄新監督期待の!上田武司氏はこの年、もし前年と同じぐらいの成績を残していたら、土井正三氏に代わって二塁手か、或いは遊撃手のレギュラーを獲得していたでしょう。

ところが上田武司氏は72試合出場するも本塁打0、打率.188と完全に期待を裏切ってしまい、レギュラーを獲得することはできませんでした。

一方、河埜和正氏も同年は90試合と出場回数が減り本塁打も6本、打率.227。

上田武司氏同様、バッティングはそれなりに良かった黒江透修氏の後釜レギュラーとしては、河埜和正氏の打撃成績もおぼつかないものでしたが、守備力を買われたのでしょう!

 

黒江透修氏は晩年、ちょっと派手なエラーが目立ったので、逆に打てなくても河埜和正氏の堅守が光ったと言えるわけで、翌年から遊撃手のレギュラーを獲得。

 

結果、1976~1977年の2年連続リーグ優勝に貢献しており、特に1977年は打率.294、本塁打9本、打点55と、守備だけでなく打撃でも優勝に貢献しました。


というわけで、既にレギュラーだった河埜和正氏でしたが、有名な1979年秋の『地獄の伊東キャンプ』には参加しており、メンバーの中では山本功児氏と並び27才で最年長でした。

まぁ〜しかし、それだけ既にレギュラーだった河埜和正氏は、更なる精進を長嶋茂雄監督に期待されていたのでしょうね〜。

河埜和正氏本人も、同期入団、大卒即戦力候補だった萩原康弘氏は広島東洋カープに3年前にトレードされており、小坂敏彦氏も阿野鉱二氏も2年前に引退。

かつてのライバル上田武司氏も、前年で現役を引退しコーチ就任。この『地獄の伊東キャンプ』にコーチとして帯同しています。

なので河埜和正氏は、当時は実績のない若手だった篠塚利夫氏や中畑清氏等に混じって『地獄の伊東キャンプ』に選ばれたのは、逆に嬉しかったのかもしれないですね〜。

こうして河埜和正氏は、1985年に岡崎郁氏や川相昌弘氏の台頭でレギュラーを失うまで、そんな篠塚利夫氏、中畑清氏、そして時のドラフト1位の原辰徳氏と、読売ジャイアンツの内野の一時代を築きました。


最後になりますが、結果的に河埜和正氏はプロ通算打率.251と、黒江透修氏の.265より劣りますが、黒江透修氏よりレギュラーも長かった事もあり、通算安打1051は黒江透修氏の923より上です。

通算115本塁打も57の黒江透修氏の約倍、打点も黒江透修氏371に対し河埜和正氏は416。犠打も黒江透修氏60に対し河埜和正氏は157、盗塁も127の黒江透修氏に対し河埜和正氏は153。

というわけで、なんとなーく河埜和正氏は守備の人イメージが強いですが、結構、打って走って犠打も多く、実は打撃でも!かなり活躍していたのが数字でわかります。

そんな河埜和正氏は1986年の現役引退後、1990年より読売ジャイアンツに戻り、三軍コーチ、二軍コーチを2005年まで歴任。

その後は読売ジャイアンツが運営する、青少年向けの野球教室「ジャイアンツベースボールアカデミー」校長も務めました。

 

元プロ野球選手、芝草宇宙監督・麦倉洋一監督の帝京長岡、佐野日大は残念ながら一回戦で負けちゃったね、、、



 



2026年の春の選抜には、元帝京のエース!芝草宇宙氏と、佐野日大のエース!麦倉洋一氏と、二人の元プロ野球選手監督の学校が出場しましたが、共に残念ながら一回戦敗退。

芝草宇宙監督の新潟の帝京長岡は、宮城の東北相手に1対5。麦倉洋一監督の佐野日大は、三重の三重に0対2で敗れています。

芝草宇宙氏は帝京時代、春夏通算3回甲子園に出場しており、3年時の1987年の選抜ではベスト8に進出しするも、野村弘氏、橋本清氏、立浪和義氏、片岡篤史氏らのPL学園高校に延長11回、2-3サヨナラ負け。

同年夏も出場し、2回戦の東北戦で芝草宇宙氏はノーヒットノーランを達成。準決勝進出するまで4試合で1失点の快投ぶりで、それはそれは超高校級投手ともてはやされました。

が、準決勝の相手は春の準々決勝に続いてPL学園でしたが、今度は5対12と打ち込まれ敗退。

そんな芝草宇宙氏は同年秋のドラフト会議で、日本ハムファイターズから6位指名を受け入団。プロ入り3年目から一軍登板しています。


一方、麦倉洋一氏は、芝草宇宙氏3年の2年後になる1989年夏に甲子園に出場。栃木県大会では全試合無失点で甲子園出場を決め、それはそれはこちらも超高級投手と騒がれたものでした。

佐野日大は開会式後の、広島の近代福山との一回戦を0対1と完封シャットアウト。しかも、この1点は麦倉洋一氏の本塁打。

が、2回戦の福井の福井商戦は初回に2点奪われ無失点記録は途切れ、結果は2対3と敗退。ちなみにこの大会の優勝校は帝京で、これが春夏通して帝京の初優勝でした。

同年、秋のドラフト会議で麦倉洋一氏は阪神タイガースから3位指名を受け入団。プロ入り2年目の1991年に一軍登板し2勝4敗でしたが、翌年肩を故障して手術を二度受けますが回復せず1994年には引退。

一方、芝草宇宙氏は2005年に自由契約になるまで日本ハムファイターズで活躍。NPB通算46勝56敗17S、防御率4.24でした。

ちなみに、2004年の日本ハムファイターズのドラフト1位指名、東北のダルビッシュ有氏は、2005年6月に一軍に上がっていますが、それまでは二軍で最後の年になった芝草宇宙氏と一緒になっている筈です

で、麦倉洋一氏は2017年4月より母校、佐野日大の監督に就任。芝草宇宙氏は2020年より、帝京系列の帝京長岡の監督に就任。

元プロ野球選手、元花形高校球児でも、教え子を連れて甲子園に出場するには時間がかかっており、更にこれからは甲子園初勝利を、早く共に飾りたい事でしょう。


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山下達郎氏の「COME ALONG」は当初、カセットテープだけの発売だった!


 



私的に日本のシンガー、バンドの好きなアルバムトップ10をあげたら必ず!入る山下達郎氏の「COME ALONG」(以下「山下達郎氏の「COME ALONG」は当初、カセットテープだけの発売だった!」)。

こちらは1980年3月発表、山下達郎氏初のコンビネーション・アルバムで、当時はカセットテープのみの発売だったというのも如何にも山下達郎氏らしく、当然、私も所有してるのはカセットテープです。

当時、時代的に御多分に洩れず私もへっぽこサーファーのはしくれで、まだ幕張までしか高速が通ってなかった時代、千葉に向かう先輩の車の中で夜中に初めて!聴いたのが「カム・アロング」。

いや〜!A面1曲目の「ボンバー」からB面最後の「潮騒」まで、本当に全てが!カッコ良かったですね〜。衝撃でした。

勿論、ハワイのKIKI-FMを真似た小林克也氏のDJも、ラジオ視聴者役の竹内まりやさんのやりとりも、お二人共に英語も上手いので、本当!映画「アメリカン・グラフィティ」の一場面みたいで最高。



でも、山下達郎氏の名前はシュガー・ベイブの頃から存じてましたが、当時はまだレンタルレコードも発明されてなかったので、高額なレコード=LPを買うのは洋楽中心で、和物までは手が出なかった。

しかもシュガー・ベイブも山下達郎氏も、テレビに出ないし売れていたわけでもないので、ラジオで聴く事もない。唯一!友人が1枚目の「サーカスタウン」を持っていたので、それを聴いたぐらい。

だから「カム・アロング」のファンキーサウンド、山下達郎氏の歌のうまさ、コーラスの素敵さは、本当におったまげましたね。(こんな凄い人が日本にいたのかよ〜!)って感じで嬉しかったな〜。

勿論バックメンバーも衝撃で、繰り返しますが鈴木茂氏のハックルバックのメンバーで名前は知っていても、上記の理由で邦楽までL Pレコードを買えなかったので、田中章弘氏のベースはぶっ飛びましたね〜。



で、そんな「カム・アロング」は、元々はシングル「愛を描いて -LET'S KISS THE SUN-」発売直後の1979年夏作られた販売促進用のアナログLPだったとかで、山下達郎氏は関与してなかったとか。

なので当時の、この選曲とミキシングしたRVCの担当スタッフって、誰だったんですかね〜?凄いセンスの良い仕事したと思います。

結局、この販売促進用のアナログLPが評判を呼び、正式にLP発売しても良いか?山下達郎氏に打診したところ、そこは己の美学を貫く山下達郎氏ですから、正式発売することにか〜なり抵抗を感じていたとか。

だから山下達郎氏の妥協点が、カセットテープのみの発売だったわけです。

後にL P、CD化された時は、鈴木英人氏の素敵なイラスト、正に!あの時代の象徴だったソレに「カム・アロング」のジャケットはなりましたが、カセット・テープ発表時は山下達郎氏の顔のどアップ↓。

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山下達郎氏には失礼ながら、彼の顔のアップじゃ〜おしゃれでも何でもない(笑)。

で、山下達郎氏のアルバムに初めて鈴木英人氏のイラストが使われたのは、1982年1月発表の「FOR YOU」(フォーユー)」からで、鈴木英人氏はこのアルバムで特に!有名になっています。

まぁ〜というわけで、発表当初の「カム・アロング」ははカセットテープのみの発売だったので、このカセットテープたるもの、ストップや早送り巻き戻しするとテープが傷ついたり音が劣化する。

ちなみに当時、カーステレオも技術革新の時代で、弁当箱みたいな8トラからコンパクトなカセットテープ対応に代わっていったわけですが、何に変わろうがテープはテープ。アナログはアナログ。

車は衝撃が激しいですから、カーステレオでカセットテープを流すのはとても!心地良かったですが、本当にテープの劣化や破損が怖かったですね〜。

ソレほど大好きで、繰り返し愛聴しまくりましたから🎵

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