「七人の侍」の三船敏郎氏、木村功氏を併せ持った役の「荒野の七人」のチコ

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近年は株の世界でも、時価総額の大きいテクノロジー企業7社を『Magnificent Seven』と称するように、映画『The Magnificent Seven』=邦題「荒野の七人」は、世界の共通語です。

で、「荒野の七人」の大元は1954年、日本の「七人の侍」なのは、あまりに有名。

まぁ〜上映時間は「荒野の七人」も娯楽映画としては長い方の2時間8分ですが、「七人の侍」は当時は前代未聞だったでしょう!3時間27分の超大作。

日本人の身贔屓でしょうが「七人の侍」は、古の日本の戦国時代、将軍になるも野武士、素浪人、落武者で百姓に殺害されるも紙一重の武士の世界、そして身分制度等々、「荒野の七人」より脚本が濃厚です。



例えば半人前の若武者浪人、勝四郎(木村功氏)と百姓の娘=志乃(津島恵子さん)の恋物語は、「荒野の七人」でも描かれてますが、こちらは「ならず者」のガンマンと百姓の娘。

なので、ラストでガンマンは百姓の娘と一緒になり村に残る選択をしますが(これが次作『続・荒野の七人』に話が繋がる)、「七人の侍」は身分が違うのでそういうハッピーエンドにはなってません。

半人前の若武者浪人といえど、百姓の娘と一緒になることはない武士と、惚れちゃったから一発やっちゃった志野を百姓親父はものすごく!怒るわけですが、こんな描写は「荒野の七人」にはない。

百姓出身の菊千代が百姓は狡くて小賢しいんだと、実は落武者狩りをした鎧兜等の戦利品を隠し持ってたことを他の侍達に暴露すると、侍達は複雑な表情になり百姓達への殺意を口にする。

落武者狩りから逃げた経験のある侍にしたら悪夢が蘇ったのだろうし、百姓村を襲う野武士達も群れをなしてないと百姓に襲われちゃう。

まさに負け戦の敗残兵、百姓達を守ろうと飯と宿だけで雇われた浪人達も、その百姓を襲う野武士達も、百姓による落武者狩りで命を落とす者も、皆、五十歩百歩。誰が変わってもおかしくない。

だから、そういう面倒臭いことを考えたくない、感じたくない方には、小難しいことは何もないコンパクトに「七人の侍」をまとめた「荒野の七人」の方が断然おすすめです。

侍とガンマンは違うと、黒澤明監督も言ってますね、、、



で、両方観た方ならお分かりの通り、ほぼ主演の活躍・存在感の三船敏郎演じた菊千代と、木村功氏演じる勝四郎を合わせた役所を、「荒野の七人」ではホルスト・ブッフホルツが演じています。

主演、中心人物の勘兵衛を演じた志村喬氏と並ぶ!三船敏郎氏が演じた菊千代と、上記の通り物語唯一の恋物語のこちらも重要な役所、木村功氏演じた勝四郎を併せ持ったキャラクターのチコ!

結果!「荒野の七人」は、「七人の侍」で稲葉義男氏が演じた五郎兵衛と加藤大介氏演じた七郎次を合わせたようなキャラのヴィンを演じたスティーヴ・マックイーンの大出世作になったわけですが〜、、、

脚本の段階ではチコとヴィン、そして「七人の侍」の勘兵衛に当たるクリスの3人が、ほぼ主演と言えたでしょうから、スティーヴ・マックイーン同様、ホルスト・ブッフホルツは大抜擢だったと言えます。



いや、日本人からしたら『世界の三船』、三船敏郎氏の菊千代に当たる役、チコを演じるわけですから、本来、ホルスト・ブッフホルツは相当!印象に残ってなければならない筈なのですが〜、、、

「荒野の七人」を語る時、ホルスト・ブッフホルツのチコを語る奴に会ったことがないし、私も語らない(笑)。

まぁ〜ホルスト・ブッフホルツは、1933年生まれのドイツの俳優さんで、「荒野の七人」の大抜擢によって、ハリウッド、そして世界の大スターに羽ばたく予定だったわけですが、そうは行かなかった。

実際にそうなったのは、1930年生まれでホルスト・ブッフホルツより3歳年上のスティーブ・マックイーンでした。

まぁ〜「七人の侍」の黒澤明監督も述懐されてますが、「荒野の七人」のユル・ブリンナー演じたクリスが南北戦争の敗残兵、南軍の元将校だったら、「荒野の七人」は相当キャラクターは変わったでしょう。



七人の侍」は、菊千代以外の6人は浪人とは言え武士で、リーダーの勘兵衛は武芸の腕も確かだけど、どこかの将軍様に仕えていたであろう切れ者の軍師ですが、クリスはただの流れ者のガンマン。

もし、クリスが南軍の元将校だったら、スティーヴ・マックイーン演じたヴィンもそれに準ずる立派な軍人になる筈で、この元将校の片腕軍人役は彼には似合わなかったでしょう。

とはいえ、ヴィンのキャラクター云々より、「荒野の七人」のスティーヴ・マックイーンの馬の乗り方、馬上からのライフルの撃ち方、ピストルの撃ち方と身のこなしは、本当に!観客を魅了するそれ!

大脱走」のヒルツしかり、スティーヴ・マックイーンこれにありでしたからね〜。ちょいとホルスト・ブッフホルツは勝てなかったですね〜。全て!スティーヴ・マックイーンに、持ってかれちゃいました。




 









敬遠45、四球158、出塁率.532。読売ジャイアンツV10逸時の王貞治氏!




 



1974年、前人未到の『V10』を目指した読売ジャイアンツでしたが、前年は最終戦での逆転優勝だった事もあり「今年は厳しいかも」という見方のプロ野球ファンは少なくなかったです。

その最大の理由は、『ON砲』=王貞治氏と共に打線の主軸!長嶋茂雄氏が年齢的な限界を、そろそろ感じさせていたからで、1971年の6度目の首位打者を最後に、1972~1973年は2年連続で無冠。

1973年の長嶋茂雄氏は本塁打は27本から20本、打点も92から76と成績を下げ、打率も.269と3割をかなり割っており、併殺打も1971~1972年は20、23とリーグワースト。1973年も20併殺打でした。

また、森昌彦氏と黒江透修氏も長嶋茂雄氏と同じように年齢的限界を感じさせており、特に黒江透修氏は『V7』~『V9』の1971年から1973年まで、失策数は3年連続リーグワースト。

同じように、守備も衰えを隠せなくなっていた長嶋茂雄氏との三遊間は、か〜なり『穴』を感じさせていました。

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また、森昌彦氏も『V6』~『V7』、『V9』の3年間はシーズン100試合出場超えはしておらず、打率も.210~220台と低迷。失礼ながら全盛時代は過ぎた感は強かったです。

一方、御三方より少し若い王貞治氏は絶好調で!前年の1973年は、打率.355で4度目の首位打者、51本塁打で12年連続12度目の本塁打王、打点114で3年連続8度目の打点王と、見事に初の三冠王

更には38敬遠、124四球(共にリーグトップ)と、相手チームは3番の王貞治氏との勝負を極力避け、4番長嶋茂雄氏と勝負するパターンが多く見受けられました。

以前より、長嶋茂雄氏は外角を泳いで引っ掛け内野ゴロゲッツーというのは、わりと多かったのですが、併殺打は打っても決勝打も打っていたので、1968~1970年まで3年連続打点王

が、そんな長嶋茂雄氏も年齢的な衰えは隠せなくなり、他チームは『王敬遠、長嶋勝負』が増えてきて、当然、川上哲治監督も『3番長嶋、4番王』と打順を入れ替え対策を練っていました。

が、それでも川上哲治監督の『V10』を目指す開幕オーダーは、やっぱり『3番王、4番長嶋』。

結果、1974年の王貞治氏の敬遠は更に増え45、四球は158。これは2024年現在、共に今も日本記録です。

この年の王貞治氏のヒット数は128本で、敬遠含む四球の方が上まっており、結果1974年の王貞治氏の出塁率は.532。バッターボックスに2回立てば一回以上出塁してい事になります。


まぁ〜王貞治氏は入団4年目の1962年から現役引退の1年前まで、18年連続リーグ出塁率最多で、17回4割以上という、それだけでも脅威的でしたが、出塁率が5割を超えているのは1973~1974年の2年だけ。

ひとえにこれは、長嶋茂雄氏の衰えが見えてきたので、他チームが徹底して!『王敬遠、長嶋勝負』の作戦になったからと言えます。

そして『V10』逸になった1974年、長嶋茂雄氏の打率は.244、本塁打15本、打点55と全てプロ入り以来最低の数字。

また、敬遠数も入団以来初の0(1961年は35で最多)で、出塁率もプロ入り以来初めて3割を切って.288。一方、王貞治氏は打率.332、本塁打49、打点107で2年連続三冠王を達成。出塁率は脅威の.532でした。

 

流石に前年の最終戦での逆転優勝のようにはいかず、チームは『V10』ならず、川上哲治監督は勇退長嶋茂雄氏、森昌彦氏、黒江透修氏は同年をもって現役引退。1つの時代が終わりました。



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長嶋茂雄氏が三冠王を逃したV9前、王貞治氏が三冠王を逃したV9半ば



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生涯で首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回の長嶋茂雄氏は、3度!三冠王のチャンスがありました。

1度目は新人の1958年で、いきなり本塁打王(29本)、打点王(92)と二冠を獲得するも、打率.305で惜しくも2位。打率.320で、この年の首位打者阪神タイガース田宮謙次郎氏に及びませんでした。

2度目がプロ入り4年目の1961年で、打率.353で首位打者、28本で本塁打王の二冠でしたが、今度は打点86で2位。大洋ホエールズ桑田武氏の94に及ばず打点王三冠王を逃しています。

翌1962年から王貞治氏が、長嶋茂雄氏引退の1974年まで13年連続で本塁打王を獲得しているので、長嶋茂雄氏の本塁打王はこの二回だけでしたが、惜しかったのが3度目の三冠王のチャンスを逃した1963年。

首位打者打点王長嶋茂雄氏は本塁打も37本でしたが、40本で2年連続本塁打王王貞治氏に3本及ばず三冠王を逃しています。

 

 

で、逆に長嶋茂雄氏はこの後、王貞治氏の三冠王を3度阻止しているのですから、このお二人は誠に面白いし素晴らしい!

まず1968年。読売ジャイアンツ不滅の『V9』の『V4』の年で、首位打者本塁打王を獲得した王貞治氏に対し(打率2位も長嶋茂雄氏)、長嶋茂雄氏は打点125で119で2位の王貞治氏を抑えて打点王

更に翌1969年。『V5』の年も首位打者本塁打王を獲得した王貞治氏に対し、長嶋茂雄氏は打点115で103で2位の王貞治氏を抑え2年連続4度目の打点王

そして翌1970年。『V6』の年も首位打者本塁打王を獲得した王貞治氏は、打点も93で2位でしたが、長嶋茂雄氏は打点105で、3年連続5度目の打点王を獲得。三度!王貞治氏の三冠王を阻止しています。

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1968年
セリーグ首位打者王貞治 本塁打王王貞治 打点王長嶋茂雄

1969年
セリーグ首位打者王貞治 本塁打王王貞治 打点王長嶋茂雄

1970年
セリーグ首位打者王貞治 本塁打王王貞治 打点王長嶋茂雄

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ちなみに1968~1969年の2年間は、王貞治氏と長嶋茂雄氏の熾烈な打撃三冠争いに、サンケイアトムズアトムズのデーブ・ロバーツが加わっており、三つ巴の争いでした。


まぁ〜長嶋茂雄氏が三冠タイトルを獲得するのは1971年の6度目の首位打者が最後で、王貞治氏が最初の三冠王を獲得したのは、2年連続無冠の長嶋茂雄氏引退1年前の1973年。『V9』最後の年。

そして『V10』逸、長嶋茂雄氏現役最後、引退となった1974年に、王貞治氏は2年連続三冠王に輝いています。

王貞治氏は長嶋茂雄氏引退後も、1976~1977年も本塁打王打点王の二冠を獲得。長嶋茂雄監督のリーグ2連覇に貢献しましたが、首位打者を争うほどの打率は残せなくなっていました(3割は打ってますが)。

なので、長嶋茂雄氏より学年で5年、年齢で4歳若い王貞治氏の脅威の全盛期の中でもピークは、長嶋茂雄氏に三冠王を3年連続で阻まれた最初の1968年から、2年連続三冠王に輝いた1974年までの6年でしょう。

一方、長嶋茂雄氏が三冠王を狙っていた脅威の全盛期の中でもピークは、1958年、1960年、1963年ですから、年齢差もあって若干お二人のピークは時期がズレてるんです(脅威の全盛期は被っても)。



なので、王貞治氏が二冠王8回、三冠王1回の『V9』時代に少年時代だった2025年現在、60代の爺さんは、長嶋茂雄氏より王貞治氏の方が当然のように印象は強く評価も高いわけです。

でも、2025年現在、70〜80代の爺さんたちは東京六大学、立教大の人気者の長嶋茂雄氏がプロ入りすぐに三冠王を3度も狙えた、その頃の活躍の印象が強く、評価もとても高い。

だから、徳光和夫氏がよく「長嶋は記録ではなく記憶に残る選手」と力説しますが、これは同じ時期に活躍した王貞治氏や野村克也氏に比べ、長嶋茂雄氏の本塁打や打点の記録が劣っている、それの弁明です。

が!しかし!繰り返しますが長嶋茂雄氏は、読売ジャイアンツに入団してから1963年までの6年間は6年連続最多安打で、3年連続含む4回の首位打者!そして二冠王が3回。

無茶苦茶!記憶だけではなく、長嶋茂雄氏が何故?人気者になったか?十分にわかる記録も、ちゃんと残しているのですが、これは『V9』以前の話なんです。

なので、その若き記憶と記録の残る長嶋茂雄氏の活躍を、今の60代の爺さんは当時は幼すぎて知らない。知ってるのは70~80代の爺さん。「その違いだけなのですよ徳光さん」と伝えたいですね〜。

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1958年
セリーグ首位打者田宮謙次郎 本塁打王長嶋茂雄 打点王長嶋茂雄

1961年
セリーグ首位打者長嶋茂雄 本塁打王長嶋茂雄 打点王桑田武

1963年
セリーグ首位打者長嶋茂雄 本塁打王王貞治 打点王長嶋茂雄

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江川卓氏、原辰徳氏が揃っていたのに、日本一は一度だった当時の読売ジャイアンツ




春夏甲子園には届かなかったものの、既に高校1年時からその人ありで、3年時には春夏甲子園出場を果たした作新学院江川卓氏。

そして、江川卓氏より3歳年下で高校一年夏の大会から4回の春夏甲子園に出場し、3年春には選抜準優勝の東海大相模原辰徳氏。この二人は高校時代から日本中を騒がせた大スターでした。

その後、江川卓氏は東京六大学リーグの法政大、原辰徳氏は首都大学リーグの東海大でも大活躍後、江川卓氏は紆余曲折ありましたが、お二人は読売ジャイアンツに入団しました。

そんな江川卓氏のプロ現役時代は1979~1987年と短かったので、1981~1995年のプロ現役生活の原辰徳氏と読売ジャイアンツで一緒にプレイしたのは1981~1987年の7年と、思いの外短かったです。

そして、この僅か7年で読売ジャイアンツのシーズン優勝は3回でしたが、日本一は僅かに1981年の一度だけ。



高校野球大学野球のスーパースターがエースと4番で、何故?読売ジャイアンツは、かつての『V9』のような無敵のチームになれなかったのか?当時のセリーグパリーグには誰がいたのか?

ちょっと振り返ってみたいと思います。

まず1981年、原辰徳氏1年目のシーズン。読売ジャイアンツは4年ぶりのリーグ優勝を決め、日本シリーズでも日本ハムファイターズをやぶり、8年ぶり日本一に輝きました。

プロ入り3年目にして初めてリーグ優勝と日本一を経験した江川卓氏は、シーズン最多勝利、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振の投手4冠で最優秀選手。ルーキーの原辰徳氏も新人王。

日本シリーズの最高殊勲選手は2勝、防御率0.50の西本聖氏。同じく2勝、防御率2.63で江川卓氏は優秀選手賞。6番を打った新人の原辰徳氏も2本本塁打を放ち、日本一に貢献しました。

読売ジャイアンツファンでなくても、当時の投手陣、打線を眺めていると、これから『V9』に匹敵する最強時代に読売ジャイアンツはなるだろうと思ったものでしたが、そうはならなかった。

江川卓氏、原辰徳氏の揃った時代なのに、読売ジャイアンツは日本一は一回しかなかった!



二連覇を目指した1982年の読売ジャイアンツの開幕オーダーは以下↓

1 中 松本匡史
2 遊 河埜和正
3 二 篠塚利夫
4 一 中畑清
5 三 原辰徳
6 左 淡口憲治
7 右 トマソン
8 捕 山倉和博
9 投 江川卓

外人のゲーリー・トマソンと、その時はまだ東海大の学生だった原辰徳氏以外、全員が長嶋茂雄前監督時代に行われた所謂『地獄の伊東キャンプ』参加者。

8月終了まで大方の予想通り、読売ジャイアンツが開幕からずーっと首位を独走!2位の中日ドラゴンズに4ゲーム差をつけており、二連覇確実と思われていました。

が、絶対のエース!江川卓氏が、今にして思えばこの時期に肩を痛めたと思われるわけですが、快刀乱麻のピッチングが突然!影を潜めてしまったんですね〜。

9月4日の阪神タイガース戦でリーグトップの18勝目を挙げましたが、その後は僅差の2連敗とこの辺は打線の問題だったと思われますが、9月29日の2位中日ドラゴンズとの直接対決で事件が起きています。



読売ジャイアンツ4点リードの9回に、江川卓氏が中日打線につかまり同点に追いつかれ、延長10回リリーフの角盈男氏も打たれサヨナラ負け。

それでも江川卓氏、10月3日の横浜大洋ホエールズ相手に19勝目をあげますが、同カードの10月9日の最終戦江川卓氏は3本塁打を打たれ1対3で読売ジャイアンツは敗退。江川卓氏2年連続20勝ならずでした。

結果、10月18日の横浜大洋ホエールズ戦で中日ドラゴンズが優勝を決め、読売ジャイアンツは0,5ゲーム差で連覇を逃しています。

1982年の中日ドラゴンズの開幕先発オーダーは以下↓

1 右 田尾安志
2 中 平野謙
3 三 モッカ
4 一 谷沢健一
5 左 大島康徳
6 遊 宇野勝
7 捕 中尾孝義
8 二 田野倉正樹
9 投 小松辰雄 


結果論ですが、勝つべくして勝ったなかなかの強力打線です。

まぁ〜この年は江川卓氏が2年連続20勝と3年連続最多勝を逃してますが、それでも19勝。西本聖氏も15勝、定岡正二氏もキャリアハイの15勝と正に!『三本柱』でしたが、後に続く投手が弱かったですね〜。

翌1983年は開幕から5月まで読売ジャイアンツは快調に飛ばし、4月は13勝4敗、5月も17勝4敗1分と、ぶっちぎりの首位独走でしたが、6、7月と負けこし7月終了時点で広島カープに首位を奪われました。

その後、読売ジャイアンツはひっくり返しリーグ優勝を決めましたが、日本シリーズ西武ライオンズに3勝2敗と王手をかけてから2連敗で日本一ならず。藤田元司監督はこの年で辞任、後任は王貞治助監督。

が、しかし、1984年は開幕から読売ジャイアイツは波に乗れず5月を終わって5位と苦しい戦い。

結局、読売ジャイアンツは3位浮上がやっとで広島カープが4年ぶり4度目のリーグ優勝を決め、日本リーズでは阪急ブレーブスを4勝3敗でくだし4年ぶり3度目の日本一に輝いています。

当時のセリーグは、他5球団もどこも強かった!



1 中 長嶋清幸
2 右 山崎隆造
3 遊 高橋慶彦
4 左 山本浩二
5 一 長内孝
6 三 衣笠祥雄
7 二 アイルランド
8 捕 達川光男
9 投 北別府学 


上記が1984年の広島カープの開幕先発オーダーですが、こちらもやはりかなりの強力打線で、中日ドラゴンズもしかりですが、投手陣も安定していました。

そして1985年は有名な阪神タイガースの快進撃の年で、読売ジャイアンツは夏場を過ぎてから首位争いから脱落。結局シーズン3位で終了。

王貞治監督3年目の1986年も広島カープとの優勝争いに敗れ、ゲーム差なしの2位。

そして江川卓氏、原辰徳氏の高校時代からのスーパースター2人が揃った最後の1987年、読売ジャイアンツはリーグ優勝を果たしますが、江川卓氏が引退を表明。

日本シリーズでは再び西武ライオンズに2勝4敗で敗れ、日本一ならずと、結局、江川卓氏と原辰徳氏が揃っていた時代の読売ジャイアンツは、日本一は一度しかありませんでした。

まぁ〜『V9』時代の他のセリーグ5球団、パリーグ優勝チームが弱かったとは思いませんが、江川卓氏と原辰徳氏が揃っていた頃のセリーグ5球団は、どこも本当に強かった!

またパリーグも1981~1987年は、西武ライオンズ黄金時代・最強時代の初期の頃で、7年で5度!リーグ優勝を決め、1985年に阪神タイガースに敗れた以外の4度は日本一。

読売ジャイアンツの『V9』に及ばずとも、それに次ぐぐらいのチームは、読売ジャイアンツではなく、この時代から後の西武ライオンズでしたね〜。


 

上宮高校時代の元木大介氏は、甲子園の大スター&アイドルだった🎵





元木大介氏は2005年に33歳の逆さで現役引退しましたし、その後はタレント業もやっていた事もあり、高校時代のあの!スーパースター&アイドル的な女性人気ぶりを、若い人は知らなくなっていますね〜。

元木大介氏が大阪の上宮高校で2年生になる1988年の選抜、そして3年生になった1989年の春と3回甲子園に出場しており、当時、浪商の香川伸行氏の持っていた甲子園通算5本塁打の記録を塗り替えました。

まぁ〜甲子園通算6本塁打は、後にPL学園清原和博氏に13本と大幅に更新されましたが、2025年春現在、今だにP L学園の桑田真澄氏、広陵の中村奨成氏と並んで歴代2位です!

そんな元木大介氏は1年夏からレギュラーを獲得しますが、上宮は大阪大会3回戦で敗戦。1987年夏の選手権は、春の選抜優勝校のPL学園春夏連覇を決めた年ですから、大阪代表はその最強!PL学園

が、秋の新チームになりPL学園には2年生の宮本慎也氏が残りましたがチーム力は落ち、秋季大会では夏の大会では0対1でその最強!PL学園に負け準優勝だった近代付が優勝。上宮が準優勝でした。

近畿大会では大阪3位の北陽含め、近大付、上宮の三校が準決勝進出と、相変わらず大阪代表はPL学園がいなくても強い!

結果、秋季大阪大会決勝と同じ近大付と上宮の決勝戦になった近畿大会を、今度は上宮がリベンジ。8対3で優勝を飾り、1988年選抜の近畿代表7校のうち3校が上宮、近大付、北陽の大阪の高校でした

が、選抜で北陽は結果!準優勝に輝いた愛知の東邦相手に初戦敗退。近代付も愛媛の初出場初優勝を決めた宇和島東に3回戦敗退。上宮だけは準々決勝進出しました。

上宮は準々決勝で栃木の宇都宮学園に7対8で敗退しましたが、この準々決勝で元木大介氏は甲子園初ホームランを放ったので、ちょっとだけ注目されるようになってます。

1989年 上宮対東邦の選抜決勝戦は今も語り草の一戦!



そして1988年の夏の大阪大会も、この上宮と近代付、そして北陽PL学園の優勝争いになると思いきや、なんと選抜ベスト8の上宮は浪速に1対2で敗退。北陽も三回戦で池田に4対5で敗退。

PL学園も5回戦で布施に4対8で敗退し、近大付だけが!順当に勝ち上がり、なんと夏はこの年が近大付は初優勝、夏の甲子園も初めての出場になりました(選抜は既に4回出場)。

が、しかし!近大付は選抜準々決勝で上宮が負けた宇都宮学園に1対2で一回戦敗退。

当時の春夏甲子園の、後のヤクルトスワローズ真中満氏のいた宇都宮学園は、優勝、準優勝はなりませんでしたが、強かったですね〜。

そして新チームになって来春の選抜を目指す1988年秋季大阪大会は、それでも!まだまだ強い近大付が、決勝で元木大介氏の上宮を8対3でやぶり優勝。

が、近大付は近畿大会準決勝で兵庫の尼崎北に2対3で敗退。上宮もその尼崎北に準々決勝で6対8で敗れるも、近大付も上宮も昨春に続いて二年連続で選抜出場しています。

流石に3季連続出場となった近大付ですので、準々決勝まで今回は勝ち上がり、上宮も同じく準決勝まで勝ち上がり、上宮の相手は2回戦で近畿No.1の尼崎北をやぶった宮城の仙台育英

上宮はその仙台育英を2対5でやぶり準決勝進出。元木大介氏は一回戦で2本、準々決勝で2本の本塁打を放っています。

これにて甲子園通算4本塁打元木大介氏は、超高校級選手として注目の的になり、その端正なマスクで女性人気もかなりのものになりました。

準決勝も神奈川の『Y校』=横浜商を9対0の圧勝で下し、上宮は春6回目の出場にして初めての!決勝進出(夏の甲子園出場はまだなしだった)。

相手は、準々決勝で近大付を延長10回、2対3でサヨナラ勝ちした昨春の準優勝校の東邦でした。

上宮 0 0 0 0 1 0 0 0 0  1   2 
東邦 0 0 0 0 1 0 0 0 0  2☓ 3 


試合は昨春の準優勝投手、3年生になる東邦の山田喜久夫氏と2年生になる上宮の宮田正直氏の投げ合いで9回を終わって1対1の同点。10回表に1点をあげ逃げ切りに入った上宮、9回裏の東邦の攻撃も2アウト。

あとアウト一つで上宮は優勝でしたが、プレッシャーからか宮田正直氏が四球のランナーを出し、次のバッターにも内野安打を打たれ、ツーアウト1,2塁、一打同点、長打で逆転サヨナラのピンチになります。

まぁ〜次のバッターの詰まった打球はサンター前ヒットになり、センター懸命のバックホームも及ばずセカンドランナーホームインで同点。

セカンドランナーがオーバーランしてるのを見たキャッチャー、見事なセカンド送球。セカンドはサードに送球し、ランナーは二塁、三塁間で挟まれタッチアウト。延長戦は続くと思いきや、、、

サードからのセカンド送球がイレギュラーでそれ、バックアップに入ったセンターがこのボールを後逸!なんとセカンドランナーがホームまで駆け抜け、東邦逆転サヨナラ勝ちで優勝!

東邦は歓喜の渦でしたが、元木大介氏はじめ上宮ナイン、あとワンアウトで優勝だっただけに皆立ち上がれないですね。凄い試合でした。

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とはいえ何にしても選抜準優勝校の上宮ですから、元木大介氏3年最後の夏の甲子園のチャンスになった1989年の夏の大阪大会の優勝候補は当然!上宮。

そして決勝戦の相手は、大方の予想通り選抜ベスト8の近大付で、3対0でリードしていた上宮でしたが八回裏に近大付に3点を奪われ同点に追いつかれています。

しかし、春の選抜決勝戦と違い、夏の上宮は9回表に3点を奪い、そのまま逃げ切り6対3で初優勝。

元木大介氏、3度目にして夏は初めての甲子園になりましたが、当然!優勝候補は春の選抜優勝校の東邦、そして準優勝の上宮、あとは選抜ベスト4の京都西だったでしょうか?

東では、共に春夏連続出場を決めた吉岡雄二氏擁する東京の帝京、選抜は準々決勝で上宮に敗れたとはいえ、こちらも好投手!大越基氏擁する宮城の仙台育英でした。

そんな注目の上宮、女性人気抜群の元木大介氏は、一回戦の長野代表の丸子実戦で2本の本塁打を放ち、これにて甲子園通算6本塁打で、それまでの記録、浪商の香川伸行氏の5本を抜きました。

試合も上宮が10対3と圧勝。流石は春の準優勝校、今夏の優勝候補と誰もが思ったものですが、もう一校の優勝候補!春の選抜優勝校の東邦は、一回戦で岡山の倉敷商に1対2で敗退。春夏連覇ならず。

一方、二回戦も上宮は西東京代表の東亜学園相手に1対0の投手戦を制し、三回戦も滋賀の八幡商相手に15対1の圧勝!

準々決勝には上宮の他、東の優勝候補、春のベスト4京都西を二回戦でやぶった仙台育英と帝京も勝ち上がり、上宮の相手は選抜準々決勝で勝ってるその仙台育英でした。

が、今度は2対10と完膚なきまでにリベンジを喰らって上宮は敗退。結局、決勝戦はその仙台育英を延長10回、2対0でやぶった東東京代表の帝京が春夏通じて初優勝。

1989年のドラフト会議は、相当な有望選手揃いでした!

 


そして同年ドラフト会議は、社会人の野茂英雄氏が大人気。8球団が1位指名し、抽選で外した福岡ダイエーホークスが外れ1位で元木大介氏を指名しました。

が、元木大介氏の意中は読売ジャイアンツで、近年YouTube読売ジャイアンツ側から事前に1位指名すると連絡があったそうですが、実際に読売ジャイアンツ慶應大の大森剛氏を1位、単独指名。

元木大介氏はガックリしたそうですが、2位指名でも読売ジャイアンツなら入団していたと述懐してますが、そこは甲子園の大スター!人気者ですから、他球団が放っておくわけもなくそれは無理でした。

結果、元木大介氏は『ドラフト浪人』を選び、翌年のドラフトで読売ジャイアンツに入団しますが、前年のドラフトは、近鉄バファローズが交渉権を得た野茂英雄氏に限らず、強力な選手が揃ってました。

野茂英雄氏を指名しなかった西武ライオンズは社会人の潮崎哲也氏、中日ドラゴンズも社会人の与田剛氏、広島カープも社会人の佐々岡真司氏と、後にチームのエースになる好投手ばかり!

野茂英雄氏の外れ1位組が、まずロッテオリオンズが2025年現在、早稲田大学野球部監督の早稲田大の小宮山悟氏、横浜大洋ホエールズ東北福祉大佐々木主浩氏。

日本ハムファイターズ近畿大の酒井光次郎氏、阪神タイガースが法政大の葛西稔氏、ヤクルトスワローズが社会人の西村龍次氏、オリックスブレーブスも社会人の佐藤和弘氏となかなかの選手たちでした。

また、ヤクルトスワローズの二位指名が社会人の古田敦也氏。

読売ジャイアンツの三位指名が帝京の吉岡雄二氏、近鉄バファローズの三位指名が社会人の石井浩郎氏、阪神タイガースの5位氏名が新庄剛氏と、その後のプロでその人ありの凄いドラフトだったと言えます。


元木大介氏、高校野球・春夏甲子園本塁打

1988年 第60回選抜
第一号 準々決勝:宇都宮学園

1989年 第61回選抜
第二号 一回戦:市立柏戦

第三号 一回戦:市立柏戦
第四号 準々決勝:仙台育英

1989年 第71回選手権
第五号 一回戦:丸子実戦 
第六号 一回戦:丸子実戦 




  

夏までに早実は中村心大投手、小俣颯汰投手の二枚看板が確立できるかな?


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2024年 夏の西東京大会決勝は8対9で日大三に負けていた早実が8回裏に同点に追いつき、9回裏に1点を取りサヨナラ勝ちで、9年ぶり30回目の夏の甲子園出場。

が、早実は準々決勝の国学院久我山戦も、3回を終わって12対3で勝っていた試合を7回で13対13に追いつかれ、8回裏に早実が1点を取って14対13で勝った、失礼ながら誠に投手力が不安のチームでした。

というわけで、誰がエースかわからない早実投手陣の中で、西東京大会も四苦八苦していた2年生の中村心大投手は、甲子園=全国大会一回戦も徳島の鳴門渦潮に1回から2点を先制される不安な立ち上がり。

が、しかし、打線の強力な早実は8点を奪い、結果は8対4で初戦突破。

二回戦の山形の鶴岡東戦は、不安定な中村心大投手は今度は4安打完封で抑え、更に!延長10回タイブレイクで、その中村心大氏が右越えサヨナラ打で1対0と連勝しました。

三回戦の島根の大社戦も中村心大投手は好投しますが、2対1の9回裏、大社はスクイズで同点に追いつき、今度は延長タイブレイクの末11回裏に1点をとられ、早実は2対3で敗退。

まぁ〜『打撃はみずもの』と今も昔も言われますが、西東京と大会では強打で鳴らした早実も、全国レベルの投手相手ではそうは毎試合打てるものではない。野球はやはりピッチャー!と痛感させられました。



それでも西東京大会のドタバタを思うと、甲子園に行ってからの2年生の中村心大投手は素晴らしかった。これで来年は大エースに成長し、早実は春夏、全国大会の優勝候補になると思えた大健闘でした。

そして新チームになってからの、来春の選抜を目指す秋季東京大会の優勝候補は、勿論!夏の甲子園で活躍した中村心大投手が残っている早実

順当に勝ち上がってきた早実でしたが、準々決勝の都立小山台に大苦戦。2点を先制され、それをひっくり返しての3対2の辛勝でした。

決勝の二松学舎戦も7回表を終わって先行の早実は5対3でリードしていましたが、その裏に一点返され、8回裏には同点に追いつかれ、延長12回タイブレイクの末、5対6で敗れ早実優勝ならず。

そして、優勝した二松学舎明治神宮大会一回戦で、兵庫の東洋大姫路に1対6で負けたため、非常に!早実の来春選抜は厳しくなりました。

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が!しかし!、明治神宮大会で神奈川の横浜が優勝したおかげで↑選抜の『関東枠』が一校増え、通常『関東・東京枠6校』が7校になり、関東6校・東京1校になるわけもなく関東5校・東京2校の選抜。

なので、もし『関東枠』が1校増えてなかったら、明治神宮大会で東京優勝の二松学舎が初戦敗退していたので、関東5校・東京1校の可能性は高かったです。

なので東京大会準優勝の早実は、横浜が明治神宮大会で優勝してくれたおかげで、ギリでで8年ぶり22回目の選抜出場が決定したと言えます。

結果、夏春連続出場となった早実は、昨夏3回戦まで進出した立役者!中村心大投手が新3年生として2度目の甲子園なので、優勝候補とは言えないまでもダークホース的な高い評価をうけていました。

そんな早実の一回戦の相手は香川の古豪!高松商でしたが、早実は8対2と圧勝。やはり昨夏のメンバーが残っているだけあって、今春の早実は強い!と誰もが感じたと思います。

二回戦の福島の聖光学院戦も3回を終わって3対0と早実リードと快調でしたが、中村心大投手がつかまり同点に追いつかれると後続投手も聖光学院打線を全く抑えられず、よもやの4対7の逆転負け。

ベンチの和泉実監督も困惑した顔でしたね〜。

2025年夏の西東京大会までに、早実はもう一人の投手が間に合うか?





選抜敗退直後の春季東京大会。早実の初戦になった二回戦の順天戦の先発は中村心大投手ではなく、選抜にもリリーフ登板した2年生の小俣颯汰投手でした。

なんとこの大会でエースナンバー!背番号1は中村心大投手ではなく、この小俣颯汰投手がつけましたが、これは中村心大投手一人では全国大会は戦えないという和泉実監督の決断だったようです。

そして小俣颯汰投手は期待にこたえ1安打シャットアウト、10対0の5回コールドで早実は快勝。

三回戦の立教池袋戦の先発も中村心大投手ではなく、同じ3年生の浅木遥斗投手で、彼も選抜で甲子園でリリーフ登板しており、中村心大投手とのリレーで、こちらも11対1と6回コールドで快勝しました。

更に4回戦の大東大一戦も中村八大投手は先発せず、再びエースナンバー!2年生の小俣颯汰投手が先発し、2年生の田中孝太郎投手とのリレーで1安打シャットアウトで、三度12対0の7回コールド勝ち。

ここまでは和泉実監督の思惑通りの結果になりましたが、準々決勝は昨夏の決勝戦で辛勝した日大三で、ここで!早実の先発は中村八大投手。

早 実 0 0 0 0 0 0 1 0 0  1
日大三 0 1 0 1 0 0 0 4 X  6


が!『打線は水もの』、2~4回戦で爆発した早実打線が日大三の近藤優樹投手に3安打、ソロ本塁打の1点に抑えられ、2失点好投だった中村八大投手も8回裏に日大三の二番、三番に連続本塁打を打たれKO。

続く3年生の浅木遥斗投手も4番、5番に長打を浴び打者二人で降板。3番手の2年生の田中孝太郎投手も打たれ3投手の継投も4点を奪われ、1対6で早実は敗退してしまいました。

まさに!この日大三戦の負け方は、選抜の聖光学院戦の負け方と同じで、中村心大投手が打たれると止められる投手がいないという、和泉実監督が嫌だったそれの再現。

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リードされていたからでしょう。打線も抑えられていたので、この試合は負けると和泉実監督は思ったのか?中村心大投手の救援に小俣颯汰投手を出しませんでした。

もし、小俣颯汰投手を抑えに登板させ打たられていたら、早実のダメージは相当だっただろうと思えます。

というわけで、早実は今夏の西東京大会は中村心大投手と小俣颯汰投手の二人の継投で戦うでしょう。

夏春甲子園で活躍した中村心大投手が、夏までにどのぐらい成長するか?2年生の小俣颯汰投手が二枚看板として間に合うのか?が、早実の夏春夏の3季連続甲子園出場なるか?のポイントでしょうね〜。





 




山本昌広氏は無名のドラフト5位、鳴かず飛ばずの入団5年目に覚醒した!





1983年中日ドラゴンズ ドラフト指名選手

1位 藤王康晴 享栄高 
2位 仁村 徹 東洋大 
3位 三浦将明 横浜商
4位 山田和利 東邦高 
5位 山本昌広 日大藤沢
6位 清水治美 日本通運 

上記は、1983年ドラフト会議の中日ドラゴンズ指名選手ですが、結果!最も誰もが知る名選手は5位指名の山本昌広氏でしょう(後に山本昌に改名)。

でも、当時の山本昌広氏は春夏甲子園大会出場経験もないので、地元神奈川以外ではほぼ無名でした。

まず1位指名の藤王康晴氏は、同年春の選抜大会準々決勝敗退迄、3試合で打率.900、出塁率.923と驚異的な記録を残した超高校級選手で、中日ドラゴンズのお膝元、愛知県の享栄高ですから1位指名は当然。

同じ愛知県の、こちらも超高校級投手と謳われた中京の野中徹博氏がいたので、藤王康晴氏は夏の甲子園には無縁でしたが、その野中徹博氏は阪急ブレーブスに1位指名され入団しています。

この年はもう一人、夏春連続優勝を決めた徳島の池田高の水野雄仁氏が話題の!超高校級選手で、こちらも読売ジャイアンツに1位指名入団。


更には群馬の前橋工渡辺久信氏が西武ライオンズ、東京は創価高の小野和義氏が近鉄バファローズ、鳥取は倉吉北高の加藤伸一氏が南海ホークス、沖縄は沖縄水産高の 比嘉良智氏がロッテオリオンズと、、、

なんと!高校生7人がドラフト1位指名されているので、ドラフト5位の山本昌広氏が話題になった記憶は、私的には全くありません。

そして2位指名の東洋大仁村徹氏も、埼玉の上尾高3年時の4年前、夏の甲子園大会で浪商の牛島和彦氏に9回ツーアウトから同点ホームランを打たれ、延長で負けたとはいえ話題の!超高校級選手。

そんな仁村徹氏はプロ入り後、打撃を生かし野手に転向しますが、東洋大時代は投手としてリーグ通算75試合登板、29勝19敗、防御率2.12、155奪三振と、上尾高校時代同様なかなかの好投手でした。

春夏準優勝、甲子園の人気者!横浜商の三浦将明氏



更には3位指名の横浜商、三浦将明氏は同年の春夏甲子園大会の準優勝投手であり、前年の春の選抜準々決勝では1学年上の早実荒木大輔氏に投げ勝った、この方も超高校級!甲子園の人気者でした。

山本昌広氏が日大藤沢在学時の神奈川は、横浜商、法政二、日大高、横浜、桐蔭学園が強く、来春の選抜出場をかけた神奈川大会準決勝はその横浜商と法政二の対戦で、横浜商が6対5の僅差で勝利。

決勝も日大高に8対7の1点差で優勝。横浜商関東大会に進み準優勝し翌春の選抜甲子園大会に選ばれ、準決勝で優勝した大阪のPL学園に敗れますが、新2年生の三浦将明氏は颯爽とした!全国デビューでした。

春夏連続出場を目指す同年夏の神奈川大会は、注目の!三浦将明氏擁する横浜商と山本昌広氏の日大藤沢は準々決勝で対戦!

共に2年生の山本昌広氏は2対3で三浦将明氏に負けましたが、勝った横浜商は準決勝で日大高に0対1で完封負け。春夏連続出場を逸しますが、日大高も決勝で法政二に0対3で敗れ甲子園出場を逃しています。




1983年の選抜を目指した1982年の秋季神奈川大会でも、山本昌広氏の日大藤沢も三浦将明氏の横浜商も順当に準々決勝に進出しますが、日大藤沢は横浜に4対11で敗れ選抜絶望になりました。

一方、三浦将明氏の横浜商は夏の甲子園出場校 法政二に3対0の完封勝ちしましたが、準決勝で後に慶應大の大エースになる1学年下の志村亮氏の桐蔭学園に、0対0の延長10回表に3点を奪われ0対3で敗退。

横浜商も選抜連続出場絶望でしたが、同年の関東大会は神奈川県開催の特典で、3位決定戦で神奈川工に8対4で勝った横浜商は、優勝した桐蔭学園、準優勝の横浜と共に神奈川3位で関東大会出場になりました。

すると関東大会の準決勝進出3校は、なんとこの神奈川3校で、準決勝で横浜に3対1で勝った横浜商は、この時点でほぼ来春の選抜出場確実。

決勝は再び!志村亮氏の桐蔭学園に2対3で敗れますが、関東大会優勝、準優勝の両校は1983年の選抜甲子園大会に選ばれています。



ところが!関東No.1の桐蔭学園は一回戦で兵庫の報徳学園に1対4で敗れますが、選抜は連続出場になった横浜商は、あれよあれよで決勝進出。

勝戦は昨夏優勝、徳島の池田に0対3で敗れますが(水野雄仁氏に2安打シャットアウト負け)、昨春のベスト4、今春は準優勝の三浦将明氏は超高校級投手として、いよいよ全国的に注目されました。

同年夏の神奈川大会で、山本昌広氏の日大藤沢は昨秋の関東大会優勝、選抜出場の桐蔭学園を5回戦で7対2で撃破。見事に準々決勝進出しますが、準々決勝で法政二に0対1で敗退。

その法政二を準決勝で2対1でくだしたのが横浜商で、決勝戦でその横浜商は横浜に3対1で勝利し、見事に春夏連続出場。三浦将明氏、通算3度目の甲子園大会のマウンドも見事に春夏連続準優勝に輝きました。

というわけで、この年の中日ドラゴンズのドラフトは3位までが全国区で有名だった選手。

で、4位が山本昌広氏同様、愛知県の名門!東邦高なれど、同学年の享栄高の藤王康晴氏、中京の野中徹博氏の壁に阻まれ、一度も甲子園出場のなかった山田和利氏でした。

ちなみに山田和利氏のご子息は、俳優の山田裕貴氏です。

山本昌広氏は入団5年目の1988年、アメリカでスクリューボールを覚え覚醒!




が、山田和利氏も中日ドラゴンズのお膝元の愛知県の高校なので、おそらくスカウトが目をつけていたのだろうと想像できますが、5位指名の山本昌広氏は遠く神奈川の、しかも全国的には無名の子、、、。

当時の中日ドラゴンズのスカウトは、よほど山本昌広氏に惚れ込んでいたのでしょうね。

山本昌広氏も大学進学を目指していたうえ、甲子園大会出場もない神奈川県大会で準々決勝ぐらいしかいけなかった自分がプロなんてと、当初はプロに行くつもりはなかったと近年YouTubeで述懐しています。

が、父親が中日ドラゴンズファンだったので「オヤジが喜ぶ」と、一転してプロ入りを表明したそうです。

で、そんな中日ドラゴンズの高卒ルーキー4人の1984年の1年目は、注目の藤王康晴氏が夏場から一軍にあがり34試合出場、36打数13安打で打率.361、本塁打2本とまずまずでしたが、他3選手は一軍出場なし。

他3選手が一軍に上がるのは3年目の1986年でしたが、期待の藤王康晴氏も完全に伸び悩んでいました。

さりとて大卒なれど仁村徹氏も即戦力といかず、高卒3選手と同じで1986年から一軍に上がっており、なかなかプロの壁は厚かったですね。




最後になりますが、結果、1988年プロ入り4年目で初勝利をあげた山本昌広氏はプロ通算219勝165敗5S。最多勝利3回、最優秀防御率最多奪三振・最高勝率・沢村栄治賞各々1回のレジェンドになりました。

一方、1位指名鳴物入り入団の藤王康晴氏はレギュラーを獲得する事なく、通算打率.220、本塁打10本、打点37で1992年に引退。

2位指名の仁村徹氏は打者に転向後は、1997年の引退まで通算打率.273、本塁打67本、打点344と、それなりに知られる中堅選手として活躍しました。

3位の三浦将明氏は、山本昌広氏のように『化ける』ことなくプロ通算0勝0敗、防御率4.94。山本昌広氏がプロ初の二桁勝ちした(10勝)1990年に引退。

4位の山本和利氏もレギュラーを獲得することはできず、通算打率.262、本塁打22本、打点102で1996年の引退後はコーチとして活躍しています。

6位の清水治美氏は一軍に上がることなく1986年に現役を引退しましたが、長い間、中日ドラゴンズでバッティングピッチャーをつとめていました。

まぁ〜人に歴史ありですね〜。