
1995年に野茂英雄氏が近鉄球団と日本の野球界とすったもんだの末、MLBに挑んだ時、マスメディアのその扱いは惨憺たるもの。
思い上がってるだの、通用するわけがないだの、野茂英雄氏の誹謗中傷ばかりだったのを、当時を知る方なら覚えていると思います。
正直私も、あそこまでやるとは思いませんでしたが、素人考えながら「そうでもないんじゃない?野茂だったら、アメリカでも一軍には定着できるんじゃないかな?」と、知人に言っていました。
私のその知人は熱烈な「野茂ファン」だった事もあり、「野茂なら10勝できる。今のアメリカはたいしたことない」と豪語。
流石に私も「それはないだろう〜」と苦笑いしましたが、彼は真顔で自分の説を曲げなかったし、実際、本当に彼の言う通りになりました。
彼と違い、私は予想を大きく外しましたが、結果論ではなく私がそれでも「野茂ならそこそこやれる」と当時思った理由を、並べてみます。
日米親善野球でMLBチームに、日本は善戦していた!
私が素人ながら、野茂英雄氏ならMLBの一軍で投げれるレベルにあると思ったのは、日米親善野球でMLBの選手が、案外、日本のエース級のピッチャーにてこずってるのを見ていたからです。
まぁ〜昔からMLBの選手は家族連れで、日本の観光がてら野球をやりにきてるから、あれは実力ではないと言われていましたし、実際にそうだったと思います。
でも、しかし、、、
日本の選手だって、シーズンも終わり日本シリーズも終わってから日米親善野球は開始されるし、そこで活躍しようがしまいが、年棒に響くわけではないから「条件は同じじゃん」と、私は思っていました。
で、そんな私がまず最初に「あれれ?アメリカ、弱くなったんじゃねえの?」と感じたのが、1974年のニューヨーク・メッツで、日本相手に9勝7敗2分。
1955年、ミッキー・マントル、ヨギ・ベラのニューヨーク・ヤンキース来日時の日本チームは0勝15敗1分。
それから19年、ヤンキースもメッツもあちらは同じ観光目的の親善野球でも、これだけ日本のチームはMLBのチームに勝てるようになっていたんです。
誇り高き大リーガーが、親善野球とはいえ日本の投手に抑えられるのが、気持ちいいわけがない!
更に、1981年の日米親善野球のカンザスシティ・ロイヤルズも9勝7敗1分で、ロッテオリオンズの村田兆治投手、読売ジャイアンの江川卓投手に、てこずってるのはありありでした。
誇り高きメジャーリーガーが、極東アジアの日本で観光がてらの試合にしても、バッターは抑えられるのは嫌でしょうし、ピッチャーだって打たれるのは嫌に決まってる。
そして、1984年のボルチモア・オリオールズも8勝5敗1分で、日本はいい勝負をしていた。1971年、同じボルチモア・オリオールズ来日時は、12勝2敗4分と日本は全く歯がたたない感がありましたから。
ですから、私的にはこの10年でアメリカのレベルが下がったのか?、それとも日本のレベルが上がったのか?、いったいどっちだろう?と、当時は真剣に考えていました。
そして1987年、、、
ヤクルトに入団した現役大リーガー(当時はそう呼んでいた)のボブ・ホーナーを見て、私は「日本の野球が進化したんだ」と確信に変わりました。
流石!大リーガーと思ったホーナーを、次第に日本人投手はを抑え出した!
ホーナーはシーズン途中来日で、最初の2試合は6打数5安打、打率.833、本塁打4、打点5、四球2の日本球界デビュー。
更に4試合で11打数7安打、本塁打6と、日本中が本物の大リーガーの実力に度肝を抜かれ、ホーナーはいったいシーズン終了までに何本ホームランを打つんだろうか?
流石は現役大リーガーだと、それはそれは話題になりましたから。
が、しかし、その後はホーナーはそんなに打てなくなりました。
打てなくなった原因を、ストライクゾーンの違いとか、誇り高き大リーガーのホーナーが文句をつけるようになった時、私は日本のエース級、それも超一流投手なら、アメリカでも投げられると確信しました。
ホーナーが打てなくなったのは、日本の投手が臭いところをついてくるようになり、スコアラーがホーナーを研究したから。そうされたら、大リーガーだって打てない。
結局、怪我もありホーナーは93試合の出場でしたが、本塁打31本、打率.327と大リーガーらしい立派な成績。でも、けっして本塁打70本、打率4割ような前人未到の成績ではなかったです。
阪神タイガースのフィルダーと、読売ジャイアンツのガリクソンが、アメリカに戻って本塁打王・打点王、最多勝を獲得!

そしてもう1つ、「日米の差は縮まってる!」と更に確信を持ったのは、こちらもトロント・ブルージェイズの現役大リーガー、セシル・フィルダーが阪神タイガースに入団した時です。
1989年のフィルダーの成績は、打率.302、本塁打38本。
9月に読売ジャイアンツ の水野雄仁投手から三振を喫した際、腹いせに地面に叩きつけたバットが手に当たり骨折。
フィルダーはそのままシーズンを棒に振りましたが、この年の本塁打王はヤクルト・スワローズのパリッシュの42本でした。
中日ドラゴンズの落合博満氏が40本でしたから、フィルダーはフルシーズン登場していたら、本塁打王になっていた可能性は高かったと思われます。
しかし、そのフィルダーがシーズンオフ、阪神との再契約がうまく行かず再びMLBに戻り、1990年と1991年にデトロイト・タイガースで二年連続、本塁打王と打点王を獲得。
当時、日本で活躍した外国人選手が、アメリカに戻って同じかそれ以上に活躍するなんて、それまで聞いた事もなかったので、フィルダーのアメリカでの活躍はちょいと衝撃でしたね。
読売ジャイアンツで1988~1989年の2年間、活躍したこちらも大リーガーのビル・ガリクソンも、MLBに戻り、フィルダーと同じデトロイト・タイガース在籍時の1991年、最多勝を獲得。
繰り返しますが、それまで、フィルダーとガリクソンのような「米→日→米」で大活躍する外人選手はいなかったので、この二人がアメリカに戻ってからのタイトル獲得を見て、私は素人ながら思いました。
(日本とアメリカの野球の実力差は、完全に縮ってる)とね。
だから、、、
1994年は鈴木啓示監督との確執もあって不調でしたが、それまでは入団以来4年連続最多勝で、4年連続奪三振王。球速は150キロ超え、フォークのキレは天下一品。
ガリクソンには失礼ながら、どう見てもMLB復帰後、最多勝を獲得したガリクソン投手より野茂英雄投手の方がピッチングは凄かったですから。
なので(野茂ならアメリカに渡ってもマイナーに落ちる事はない、シーズンで3つや4つは勝てる)と、マスマディアの野茂総攻撃の時、私は素人ながら思ったわけです。
ところが蓋を開けたら、そんなレベルじゃない。野茂英雄投手はシーズン13勝で、いきなりの奪三振王!
ここまで私はやるとは思いませんでしたが、私の知人の野茂ファンの予想通りになり、ここが日本のマスメディアの凄い所で、あれだけバッシングしてたのに、いきなり野茂英雄氏は我が国の英雄扱い(笑)。
なんやかんや言っても、野茂英雄氏の活躍あっての、その後の今に繋がる日本人選手のM LBでの活躍ですからね〜。先駆者!野茂英雄氏は永遠に讃え続けたいですね〜。