野茂英雄氏が、マスメディアの大バッシングの中MLBに挑んだ頃!

 

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1995年に野茂英雄氏が近鉄球団と日本の野球界とすったもんだの末、MLBに挑んだ時、マスメディアのその扱いは惨憺たるもの。

思い上がってるだの、通用するわけがないだの、野茂英雄氏の誹謗中傷ばかりだったのを、当時を知る方なら覚えていると思います。

正直私も、あそこまでやるとは思いませんでしたが、素人考えながら「そうでもないんじゃない?野茂だったら、アメリカでも一軍には定着できるんじゃないかな?」と、知人に言っていました。

私のその知人は熱烈な「野茂ファン」だった事もあり、「野茂なら10勝できる。今のアメリカはたいしたことない」と豪語。

流石に私も「それはないだろう〜」と苦笑いしましたが、彼は真顔で自分の説を曲げなかったし、実際、本当に彼の言う通りになりました。

彼と違い、私は予想を大きく外しましたが、結果論ではなく私がそれでも「野茂ならそこそこやれる」と当時思った理由を、並べてみます。

日米親善野球でMLBチームに、日本は善戦していた!


私が素人ながら、野茂英雄氏ならMLBの一軍で投げれるレベルにあると思ったのは、日米親善野球でMLBの選手が、案外、日本のエース級のピッチャーにてこずってるのを見ていたからです。

まぁ〜昔からMLBの選手は家族連れで、日本の観光がてら野球をやりにきてるから、あれは実力ではないと言われていましたし、実際にそうだったと思います。

でも、しかし、、、

日本の選手だって、シーズンも終わり日本シリーズも終わってから日米親善野球は開始されるし、そこで活躍しようがしまいが、年棒に響くわけではないから「条件は同じじゃん」と、私は思っていました。

で、そんな私がまず最初に「あれれ?アメリカ、弱くなったんじゃねえの?」と感じたのが、1974年のニューヨーク・メッツで、日本相手に9勝7敗2分。

1955年、ミッキー・マントルヨギ・ベラニューヨーク・ヤンキース来日時の日本チームは0勝15敗1分。

それから19年、ヤンキースもメッツもあちらは同じ観光目的の親善野球でも、これだけ日本のチームはMLBのチームに勝てるようになっていたんです。

誇り高き大リーガーが、親善野球とはいえ日本の投手に抑えられるのが、気持ちいいわけがない!

更に、1981年の日米親善野球のカンザスシティ・ロイヤルズも9勝7敗1分で、ロッテオリオンズ村田兆治投手、読売ジャイアン江川卓投手に、てこずってるのはありありでした。

誇り高きメジャーリーガーが、極東アジアの日本で観光がてらの試合にしても、バッターは抑えられるのは嫌でしょうし、ピッチャーだって打たれるのは嫌に決まってる。

そして、1984年のボルチモア・オリオールズも8勝5敗1分で、日本はいい勝負をしていた。1971年、同じボルチモア・オリオールズ来日時は、12勝2敗4分と日本は全く歯がたたない感がありましたから。

ですから、私的にはこの10年でアメリカのレベルが下がったのか?、それとも日本のレベルが上がったのか?、いったいどっちだろう?と、当時は真剣に考えていました。

そして1987年、、、

ヤクルトに入団した現役大リーガー(当時はそう呼んでいた)のボブ・ホーナーを見て、私は「日本の野球が進化したんだ」と確信に変わりました。

流石!大リーガーと思ったホーナーを、次第に日本人投手はを抑え出した! 

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ホーナーはシーズン途中来日で、最初の2試合は6打数5安打、打率.833、本塁打4、打点5、四球2の日本球界デビュー。

更に4試合で11打数7安打、本塁打6と、日本中が本物の大リーガーの実力に度肝を抜かれ、ホーナーはいったいシーズン終了までに何本ホームランを打つんだろうか?

流石は現役大リーガーだと、それはそれは話題になりましたから。

が、しかし、その後はホーナーはそんなに打てなくなりました。

打てなくなった原因を、ストライクゾーンの違いとか、誇り高き大リーガーのホーナーが文句をつけるようになった時、私は日本のエース級、それも超一流投手なら、アメリカでも投げられると確信しました。

ホーナーが打てなくなったのは、日本の投手が臭いところをついてくるようになり、スコアラーがホーナーを研究したから。そうされたら、大リーガーだって打てない。

結局、怪我もありホーナーは93試合の出場でしたが、本塁打31本、打率.327と大リーガーらしい立派な成績。でも、けっして本塁打70本、打率4割ような前人未到の成績ではなかったです。

阪神タイガースフィルダーと、読売ジャイアンツガリクソンが、アメリカに戻って本塁打王打点王最多勝を獲得! 

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そしてもう1つ、「日米の差は縮まってる!」と更に確信を持ったのは、こちらもトロント・ブルージェイズの現役大リーガー、セシル・フィルダー阪神タイガースに入団した時です。

1989年のフィルダーの成績は、打率.302、本塁打38本。

9月に読売ジャイアンツ水野雄仁投手から三振を喫した際、腹いせに地面に叩きつけたバットが手に当たり骨折。

フィルダーはそのままシーズンを棒に振りましたが、この年の本塁打王はヤクルト・スワローズのパリッシュの42本でした。

中日ドラゴンズ落合博満氏が40本でしたから、フィルダーはフルシーズン登場していたら、本塁打王になっていた可能性は高かったと思われます。

しかし、そのフィルダーがシーズンオフ、阪神との再契約がうまく行かず再びMLBに戻り、1990年と1991年にデトロイト・タイガースで二年連続、本塁打王打点王を獲得。

当時、日本で活躍した外国人選手が、アメリカに戻って同じかそれ以上に活躍するなんて、それまで聞いた事もなかったので、フィルダーアメリカでの活躍はちょいと衝撃でしたね。

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読売ジャイアンツで1988~1989年の2年間、活躍したこちらも大リーガーのビル・ガリクソンも、MLBに戻り、フィルダーと同じデトロイト・タイガース在籍時の1991年、最多勝を獲得。

繰り返しますが、それまで、フィルダーガリクソンのような「米→日→米」で大活躍する外人選手はいなかったので、この二人がアメリカに戻ってからのタイトル獲得を見て、私は素人ながら思いました。

(日本とアメリカの野球の実力差は、完全に縮ってる)とね。

だから、、、 

1994年は鈴木啓示監督との確執もあって不調でしたが、それまでは入団以来4年連続最多勝で、4年連続奪三振王。球速は150キロ超え、フォークのキレは天下一品。

ガリクソンには失礼ながら、どう見てもMLB復帰後、最多勝を獲得したガリクソン投手より野茂英雄投手の方がピッチングは凄かったですから。

なので(野茂ならアメリカに渡ってもマイナーに落ちる事はない、シーズンで3つや4つは勝てる)と、マスマディアの野茂総攻撃の時、私は素人ながら思ったわけです。 

ところが蓋を開けたら、そんなレベルじゃない。野茂英雄投手はシーズン13勝で、いきなりの奪三振王!

ここまで私はやるとは思いませんでしたが、私の知人の野茂ファンの予想通りになり、ここが日本のマスメディアの凄い所で、あれだけバッシングしてたのに、いきなり野茂英雄氏は我が国の英雄扱い(笑)。 

なんやかんや言っても、野茂英雄氏の活躍あっての、その後の今に繋がる日本人選手のM LBでの活躍ですからね〜。先駆者!野茂英雄氏は永遠に讃え続けたいですね〜。

長嶋一茂氏も野村克則氏も、学生時代は一流選手だった

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プロ野球選手としては、残念ながらパパのような大活躍は出来なかったとはいえ、そこは「日本中の野球の天才」が集まるプロ野球界、、、

長嶋一茂氏、野村克則氏に限らず、学生野球や社会人野球時代は「その人あり」でも、殆どの選手は大活躍する事なく引退する厳しい世界なので、しょうがないっちゃーしょうがない。

でも長嶋一茂氏も野村克則氏も、高校時代はレギュラーとして甲子園を目指す高校球児でした。

友人知人、同級生に高校球児がいる方ならわかる通り、例え地方大会でもベスト16ぐらいまで残るレベルの高校の野球部で、レギュラー選手になれるという事は、並大抵の事ではないわけです。

ですから、甲子園出場春夏ともに1回ずつの、そこそこ野球の強い立教高校(現:立教新座)のレギュラーだった長嶋一茂氏は、普通のレベルで考えると、野球のうまい高校生だったと言えるわけです。

勿論、立教高校よりも!東京の野球の名門校の1つ、堀越でレギュラーだった野村克則氏しかり。

 


で、

1983年の埼玉県予選、長嶋一茂氏3年最期の夏の立教は、7対0、8対0、11対4、6対1と、かなりの圧勝で準々決勝まで勝ちすすみ、準々決勝の相手は強豪!春日部共栄

試合は、3対2の僅差で春日部共栄を破り立教は準決勝進出。 あと2つ勝てば甲子園でしたが、準決勝で所沢商に延長戦の末0対1で惜しくも敗退。長嶋一茂氏は甲子園出場ならずでした。

ちなみに勝った所沢商は、決勝も大宮東をやぶり5年ぶり3回目の甲子園出場。

甲子園1回戦の相手が、あの!KKコンビ、1年生の桑田氏、清原氏PL学園で、PL学園は所沢商を6対2でくだし、ここから!KKコンビの5季連続出場の甲子園伝説がはじまってます。

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一方、野村克則氏も堀越での3年最期の夏、1991年の西東京都大会で、強豪の日大二日大三を相次いで1点差でやぶり準決勝進出。

野村克則氏もまた、あと2つ勝てば甲子園でしたが、準決勝で世田谷学園に6対8でやぶれ敗退。

この試合、堀越は6対3から8回に同点に追いつかれ、そして延長での逆転負けですから、さぞやスタンドの野村克也氏・野村沙知代さん夫妻、口惜しかったことでしょう。


勝った世田谷学園も、決勝で國學院久我山にやぶれ甲子園出場はなりませんでしたが、この時、國學院久我山の2年生で3番を打っていたのが、後に日米のプロ野球で活躍する井口資仁氏。

で、井口資仁氏の3年時は、堀越が4年ぶりに選抜大会に出場。夏の準決勝でも堀越に國學院久我山は負けているので(勝った堀越は決勝で創価に敗退)、2年生のこの時が唯一の甲子園出場でした。

というわけで、あの!高名な長嶋茂雄氏、野村克也氏のご子息の、長嶋一茂氏も野村克則氏も、パパと同じで甲子園出場はならず。それほど甲子園出場って大変な事なんですね〜。


長嶋一茂氏は立教大、野村克則氏は明治大に進みましたが、長嶋一茂氏が入った頃の立教大は東京大と最下位争いをしていた弱小チームで、1年の春は2季連続で最下位(東京大が5位)。

そんな弱小チームですし、そこはパパ長嶋茂雄氏の子ですから1年から長嶋一茂氏はレギュラーになりますが、立教大学時代にリーグ優勝は一度もありません。

 

長嶋一茂氏が立教大学の4年間8シーズンは、6位→5位→5位→6位→5位→4位→4位→2位。

 

4年時の春季リーグで長嶋一茂氏は打率.340で、満票でベストナイン三塁手)に選出され、同年秋季リーグでは4本塁打、16打点(秋季打点王)で連続ベストナインに選出されました。

一方、野村克則氏の明治大は強く、在学中に4回もリーグ優勝を経験していますし、4年時の1995年の明治神宮野球大会では、決勝で東都の青山学院大をやぶり日本一も経験しています。

まぁ〜この決勝戦の明治大と青山学院大のメンバーは強力で、勝った明治大の先発勝利投手が、後の日米通算125勝の2年生の川上憲伸氏。

1番が、こちらも後に日米通算2254安打、295本塁打の3年生の井口資仁氏。2番が近鉄楽天で活躍された2年の高須洋介氏。3番が阪神近鉄オリックスで活躍された坪井智哉氏。

結局、両チーム合わせて後にプロ野球選手になる選手が青山学院大が7人、明治大が6人の、プロ養成学校みたいな決勝戦でした。

また、野村克則氏も1993年、2年生の秋のリーグ戦では首位打者打点王を獲得し、堂々!東京六大学ベストナイン一塁手)に選ばれてます。

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長嶋一茂氏は第16回日米大学野球選手権大会の、全日本メンバーにも選ばれてますが、このメンバーもまた凄く、後にヤクルトスワローズで通算2097安打の、立命館大古田敦也氏。

広島東洋カープで通算2020安打を放つ、1学年下の駒澤大野村謙二郎氏。東京六大学通算17本塁打慶應大の大森剛氏(後の巨人等)、同17本塁打の立教大の矢作公一氏(後の日本ハム)等でした。

 

どんなスポーツでも全日本に選ばれる人は凄いわけで、東京六大学リーグでベストナインに選ばれるのも、これも誉なわけで、長嶋一茂氏も野村克則氏も選ばれていたわけです。

 

そして本当に長嶋一茂氏は、4年になって大化けしたので、人気と実力でドラフト1位でヤクルトと大洋に指名され、抽選の結果ヤクルトに入団。

 

一方、3〜4年になって伸び悩んだ野村克則氏は、パパの克也氏の尽力でドラフト3位でヤクルトに指名され入団しています。

 

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というわけで長嶋一茂氏は1年生からレギュラーでしたが3年生までは燻っていたので、リーグ通算101試合出場、382打数86安打、打率.225と打率はとても低いです。が、11本塁打、54打点。

野村克則氏はリーグ通算76試合出場と、試合出場数は長嶋一茂氏に及びませんが、256打数72安打、打率.281と打率は上回ってますが、3本塁打、33打点と一発の魅力は乏しかったと言えます。

 

結局、プロ入り後はお二人とも大苦戦しました。

 

長嶋一茂氏 プロ通算384試合出場、765打数161安打、打率.210。18本塁打、83打点。

野村克則氏 プロ通算222試合出場、386打数66安打、打率.185。4本塁打、17打点。

 

プロ野球はとんでもない天才集団の世界ですから、長嶋一茂氏も野村克則氏もプロで一流選手にはなれませんでしたが、高校・大学時代は間違いなくお二人とも一流選手でした。

 

トマ損と揶揄されたゲーリー・トマソンは、それでも想い出深い選手


当時は球団史上はじめてだった、3年連続V逸の責任をとらされ長嶋茂雄監督が解任。

熱烈な長嶋ファン達の読売新聞不買運動も起きたほどの大騒動の元、藤田元司新監督による1981年の読売ジャイアンツの、これが開幕スタメンです。

1 遊 河埜和正
2 左 淡口憲治
3 三 中畑清
4 中 ホワイト
5 右 トマソン(新外国人)
6 二 原辰徳(新人)
7 一 松原誠
8 捕 山倉和博
9 投 西本聖


1980年のシーズンを終えた後、王貞治氏が30本の本塁打を放ちながら引退した為、1981年は前年のロイ・ホワイトに続いて現役大リーガー(と当時は呼んでいた)、ゲーリー・トマソンを獲得。

ロイ・ホワイトは前年、王貞治氏とクリーンアップを打ち、打率.284、本塁打29、打点75の数字を残しましたが、1981年は打率.273、本塁打13、打点55と数字を落としています。

一方、1年目のゲーリー・トマソンは打率.261、本塁打20、打点50。

 

ホワイトとそれほど大きな成績の差はありませんでしたが、当時は『トマ損』とホワイトと違いマスメディアに叩かれまくりました。

最大の理由は132三振(三振王)と三振の数の多さで(ホワイトは68三振)、『舶来扇風機』とも揶揄されるほど、トマソンは豪快な三振が目立ったからです。

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が、例えば1988~1995年に近鉄バファローズで活躍したラルフ・ブライアントは、8年間で5回三振王で、そのシーズン三振数は全てトマソンの132三振を上回ってます(1993年の204三振は日本記録)。

でもブライアントは3回本塁打王に輝いており、一発か?三振か?の魅力がありましたが、トマソンは132三振のわりに20本塁打と、一発の魅力が足りなかったと言えます。

まぁ〜当時の日本の野球ファンは現役大リーガーなら、普通に3割30本を打って当たり前。それぐらい日米の野球の差はあると信じてましたから、トマソンの打率.261、本塁打20本は何とももの足りない。

何たってトマソンは、本塁打30本を放っても引退した王貞治氏の代役でしたから。

が、しかし、1981年の読売ジャイアンツ本塁打20本以上放ったのは新人の原辰徳氏の22本とトマソンの20本の二人だけ。トマソンが全く活躍していなかったかと言えば、そんなことはなかった。

唯、トマソンはイメージが悪かったんですね。

当時は読売ジャイアンツ戦だけが地上波テレビで放映されていたので、バッターは10回のうち7回失敗しても打率3割の好打者ですが、この7回の失敗が特に三振と併殺打だとテレビでは目立ってしまう。

更にスポーツ新聞や雑誌が面白がって、トマソンを個人攻撃しまくったので、もの凄いダメ外人イメージがトマソンはついていました。

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繰り返しますがトマソン本塁打20本は原辰徳氏に次いでチーム2番目、打点50も『原・中畑・ホワイト』に次いでチーム4番目。

なので、トマソンは最低限の仕事はしてたんじゃないでしょうかね〜?(本当に最低限の仕事ですが)。

あと人間力というか何というか。ホワイトはもの静かな紳士として有名でしたが、トマソンはかなりの頑固者だったようで、監督やコーチの言う事を聞かない等、その辺も嫌われた原因かもしれないですね。

元大リーガーとしてプライドが高いのは良いですが、ホワイトやこの後のレジー・スミスのような活躍は、トマソンアメリカでもしてないしホームランバッターでもなかった。

ちなみに本塁打20は、日米通算でトマソンの生涯最高のシーズン本塁打数ですから、案外本人は満足してたのではないかしら?

まぁ〜この年のシーズン優勝、シリーズ制覇はリーグ1位のチーム防御率を誇った、1位=江川卓氏2,29、2位=西本聖氏2,58、3位=加藤初氏2,91と防御率上位3投手を読売ジャイアンツ勢が占めた投手力

なんたって最優秀防御率最多勝利、最高勝率、最多奪三振の投手4冠に輝いた江川卓氏のプロ生活最高の年で(最優秀選手にも選ばれた)、この投手三本柱+セーブ王の角三男氏の投手力は強力でした。

そしてこの4人に、入団以来初めて11勝と活躍した定岡正二氏の5投手による、チーム防御率リーグ1位の強力な投手陣でリーグ優勝、日本シリーズ制覇したと言っても過言ではないでしょう。

ちなみにこの年の読売ジャイアンツは、チーム打率もチーム本塁打数もリーグ3位で、チーム打点は492とBクラスのヤクルト、横浜大洋と同じでした(チーム盗塁数はリーグ1位)。


明けて1982年の読売ジャイアンツの開幕スタメンは、

1 中 松本匡史
2 遊 河埜和正
3 二 篠塚利夫
4 一 中畑清
5 三 原辰徳
6 左 淡口憲治
7 右 トマソン
8 捕 山倉和博
9 投 江川卓


開幕スタメンに名はないですがホワイトは107試合出場。打率.296でしたが本塁打が12本とやはり少ないので、この年で契約終了。一方トマソンは僅か47試合出場で、2年目で解雇。

結局、2連覇確実と言われてましたが後半戦に中日ドラゴンズに逆転優勝されチームは2位。読売ジャイアンツはホワイトとトマソンに代わり、ヘクター・クルーズ、レジー・スミスを獲得しています。

1983年のクルーズは僅か58試合出場でしたが、スミスは打率.285、本塁打28本、打点72と活躍しましたが、やはり3割30本には及ばなかった。

 

が、読売ジャイアンツアメリカの「おすすめ」を鵜呑みにせず、独自の外人獲得ルートを作らないとダメだとフロント改革が行われたのは、ゲーリー・トマソンで懲りたからでしょう。

 

年齢的に全盛期の活躍はできなかったもののスミスは好選手であり、そして次に獲得したのが、結果的に7年の長きに渡り読売ジャイアンツで大活躍する事になるウォーレン・クロマティ


結局、読売ジャイアンツの外国人選手の3割30本は、ウォーレン・クロマティで初めて達成されましたが、トマソンは悪名だけが残ってしまったようです。



ミル・マスカラス初来日時が、唯一のアントニオ猪木氏との対戦だった

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1971年2月のミル・マスカラス初来日時、テレビ放映の後、きっと日本中の小中学校で、フライング・クロスチョップが飛んでたんじゃないでしょうか?(笑。オレか、、、)。

が、その後日本でも何度も来日し抜群の人気レスラーになったミル・マスカラスですが、1971年の初来日時はスパイロス・アリオンの二番手。

今にして思うと来日前は、スパイロス・アリオンが何故に?あそこまで日本のプロレスファンに人気があったのか?不思議な感じです。

が、当時、国際プロレスが行ったファンが選ぶ未来日レスラー招聘公募企画で、スパイロス・アリオンミル・マスカラス を抑え堂々1位!

でも、日本プロレスの妨害によってこの企画での国際プロレスでの来日はならず、日本プロレスのリングにミル・マスカラスと共にスパイロス・アリオンは登場。

共に大喝采の初来日でした。


でも、肉体美で華麗なる試合をするミル・マスカラス と違い、スパイロス・アリオンは「腹の出たデブな白人」でカッコ悪いし、なんか試合運びも怠慢。

当時テレビ中継のプロレス観戦はもちろん、雑誌「ゴング」「別冊ゴング」「プロレス&ボクシング」を定期購読してたプロレスファンは、大人も子供も目がこえてました。

なので(えっ?これが噂のスパイロス・アリオン?よえーじゃん)と期待が大きかっただけに、日本での人気はガタ落ち。

このへんは1975年、「長嶋監督のジィアンツ」1年目、現役大リーガーの看板をひっさげ助っ人として来日したデービー・ジョンソンと、スパイロス・アリオンは似てますね。

期待が大きかっただけに、デービー・ジョンソン が大不振に陥ると「ジョン損」と新聞で叩かれまくって、ファンも大ブーイング。

日本人はその期待が大きければ大きいほど、外人にそれを裏切られると掌を返す習性があるようです。

 

ミル・マスカラスは、プロレスファンじゃなくても名前と顔(覆面)は知ってる人多いと思いますが、スパイロス・アリオンを知る人は、プロレスファンでも、あの当時のファン以外いないでしょう。

で、残念なのは、ミル・マスカラスは初来日時、  スパイロス・アリオンと共に「G馬場・A猪木」のGI砲のインターナショナルタッグ選手権に挑戦し、アントニオ猪木氏と当然のように対戦しています。

が、この後、日本プロレスのお家騒動の結果、アントニオ猪木氏は会社乗っとりのかどで日本プロレスを追放。

1972年に、アントニオ猪木氏は新日本プロレスを立ち上げ、その後、日本プロレスを放映していたテレビ朝日が、日本プロレスと縁を切り新日本プロレスをバックアップしました。

一方、日本テレビ日本プロレス放送を打ち切り、ジャイアント馬場氏を担いで全日本プロレスを立ち上げさせます。

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というわけで、多くの外人レスラーの招聘興業権は当時、日本プロレス経由で全日本プロレスが握っていたので、全盛時代のアントニオ猪木氏とミル・マスカラスの試合が、その後観れなくなりました。

これはプロレスファンには痛恨。

体格的にもアントニオ猪木氏とミル・マスカラスのお二人はマッチしてたし、スピーディーで技巧派のお二人の対戦は、もっともっと観たかったですからねー。

なので、アントニオ猪木氏とミル・マスカラスの対戦が観れたのは、ミル・マスカラス初来日のみです。

 

試合は前出のインターナショナルタッグ選手権のほか、ミル・マスカラスアントニオ猪木氏は60分3本勝負をやっており、2対1でアントニオ猪木氏が勝利してます。

後にも先にも、お二人の対決はこのミル・マスカラス初来日時だけでした。

 

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江川卓氏、あと1勝すれば3年連続最多勝だった1982年

2022年末現在、セ・リーグで3年連続最多勝投手というのはおらず、2021~2022年の連続最多勝だった阪神の青柳晃洋氏も、2023年はタイトル獲得は厳しそうです。

で、誠に惜しかったのが巨人の江川卓氏。

江川卓氏は1980年に16勝、1981年に20勝で2年連続最多勝で、1982年も19勝。あと1勝すれば広島の北別府学氏と並んで20勝で3年連続最多勝でした。

が、江川卓氏は大洋との最終戦に先発するも、ソロ本塁打3本浴び5回途中でノックアウト。試合は1対3で巨人が負けています。

実はこの年、巨人は8月終了時点で中日に4ゲーム差をつけ首位独走。2年連続優勝は間違いないと思われていましたし、江川卓氏が18勝をあげたのは9月4日の阪神戦。

まだシーズン終了まで1ヶ月以上あるので、江川卓氏の3年連続最多勝も、2年連続20勝も確実と思われていました。 


ところがこの後、江川卓氏は中日戦、大洋戦で2連敗し(共に1点差)9月28日の中日戦も6対2で勝っていた試合を9回に追いつかれ逆転負け。江川卓氏自身3連敗でしたが、中日がこれで優勝マジックが点灯。

結果的に巨人は9月を5勝8敗3分と負け越し、確実と思われていた連続優勝を逃してしまい、江川卓氏も19勝目をあげたのは10月3日の大洋戦で、約1ヶ月間、勝ち星がありませんでした。 

結局、江川卓氏は19勝12敗、広島の北別府学氏が20勝8敗1Sで最多勝

防御率江川卓氏は2,36と2位で、惜しくも2年連続最優秀防御率賞も逃しますが、1位は大洋の斉藤明夫氏の2,07なので、9月の3連敗と最終戦のソロホームラン3連発の途中降板が悔やまれます。

で、江川卓投手が3年連続奪三振王に輝くのはこの年が最後で、シーズン中に肩を痛めたと伝わってますが、おそらく本当でしょう。勝ち星はともかく、翌年より防御率が悪くなり奪三振が減ってますから。

なので、私的にプロ入り後の江川卓投手の全盛時代は、20勝をあげ日本一にもなった1981年と、連続優勝も3年連続最多勝も逃した1982年の2年間だったと思ってます。この当時の江川卓氏の球は速かった!

 

 



最後になりますが、パ・リーグは1990~1993年に近鉄バファローズの野茂英雄氏が入団1年目から4年連続最多勝を記録しており(1990年は西武ライオンズ渡辺久信氏と18勝で同数)、これが日本記録です。

また、西武時代の松坂大輔氏も、入団1年目の1999年から2001年まで3年連続最多勝でした。

2023年のパリーグ最多勝は、オリックスの山本由伸氏でほぼ決定のようですから(9月29日現在)、これで山本由伸氏は3年連続最多勝。2024年も最多勝を獲得すれば野茂英雄氏に並びます!

山本由伸氏は、奪三振王も2020~2022年まで3年連続。最優秀防御率も最高勝率も2021~2022年と獲得しており、前人未到投手四冠王を2年連続獲得。

2023年も9月29日現在、ダントツの防御率1位ですし、最高勝率も同じくオリックスの宮城大弥氏と並んでおり、3年連続投手四冠王の可能性は大です。

 


読売ジャイアンツが最下位になった1975年

 

 





V10を逃し、1974年をもって川上哲治監督が勇退

 

同年引退した長嶋茂雄氏が監督1年目の1975年、読売ジャイアンツは史上初の最下位に低迷したわけですが、調べてみるとチーム打率がリーグ最下位の.236。


最下位はV9ナインの長嶋茂雄氏、黒江透修氏、森昌彦氏が前年に引退し、その穴を埋められなかった説がありますが、長嶋茂雄氏現役最後のV10逸年の成績は打率.244、本塁打15本、打点55。

また、キャッチャーも吉田孝司氏が106試合に出場しており、森昌彦氏は僅か56試合出場で、既にV 10逸年の段階でレギュラーは奪われています。

黒江透修氏も84試合出場で打率.212、本塁打1本、15打点で、もう一人のショート上田武司氏は93試合出場、打率.266、本塁打6、打点30と、黒江透修氏よりも成績は上回ってました。

引退はしてないですが、同じくV9ナインの土井正三氏もV10逸年は94試合出場で打率.186の絶不調。なのでV9ナインはV9最後の1973年で終わっていたんです。
 
ですから1974年のV10逸は、V9ナインのこの4人の年齢的限界も原因で、それでも優勝した中日ドラゴンズにゲーム差なしの2位、チーム打率.253でリーグ3位だった方が逆に凄い。
 
だから、1975年の読売ジャイアンツ史上初の最下位は、引退したV9ナイン3人(長嶋・森・黒江)の穴を埋められなかった説は、間違いです。

V10逸年は、王貞治氏が2年連続三冠王末次利光氏も打率.316で打撃成績で4位と二人が突出してましたが、チーム防御率3.05のリーグ1の投手陣が、それでも2位の原動力だったと思われます。


エース!堀内恒夫氏が流石の19勝、関本四十四氏が10勝、プロ入り2年目の小川邦和氏が12勝と大飛躍。同じくプロ2年目の小林繁氏が8勝、未完の大器!新浦寿夫氏も7勝、若き玉井信博氏も6勝。

一方、V9後半は大活躍だった高橋一三氏が前年の23勝から2勝(11敗)、倉田誠氏も前年の18勝から5勝と、まぁ〜V10逸はこの2投手の不調が大きかったわけです。

で、振り返ると長嶋茂雄監督就任1年目は、補強らしい補強を全くしてない。ドラフト1位の定岡正二氏も高校生なので即戦力と考えていなかったでしょうから、V10逸の前年の戦力で新年を迎えています。

長嶋茂雄新監督も、関根潤三ヘッドコーチはじめ一新されたコーチ陣もフロントもファンも、今の戦力でも十分やれるだろうと思っていたのでしょう。

1975年、長嶋茂雄監督1年目の開幕オーダーは、オープン戦で怪我をした王貞治氏はおらず、ファーストは柳田俊郎氏(5番)で、4番はライトの末次利光氏、3番はレフトの高田繁氏。


サードは富田勝氏(2番)、セカンドは上田武司氏(6番)、ショートには大抜擢!前年僅かに24試合出場の河埜和正氏(8番)、キャッチャーも大抜擢!前年45試合出場の矢沢正氏(7番)という布陣でした。

長嶋茂雄監督は、V9時代から森昌彦氏の控えキャッチャーで、前年レギュラーを獲得した吉田孝司氏と、前年絶不調の土井正三氏を開幕スタメンで外しています(最終的に土井正三氏は111試合出場)。

後の落合博満氏が中日ドラゴンズの監督をやった時、今の戦力を底上げすれば優勝を狙えると豪語し、大きな補強をせず本当に1年目から優勝したように長嶋茂雄監督も行けば、カッコ良かったんですけどね。

実際、河埜和正氏と矢沢正氏は長嶋茂雄監督の大抜擢でしたし、二人は期待に応え活躍しましたが(矢沢正氏は翌年、吉田孝司氏にレギュラーを奪還されますが)、チームは勝てなかったのが惜しまれます。

そんな無補強の長嶋茂雄監督1年目でしたが、開幕後にアトランタ・ブレーブスから現役大リーガー(と当時は呼んでいた)のデービー・ジョンソンを獲得。これは当時、大ニュースでした。


今と違いMLB、当時の大リーグと日本の野球は大きな実力差があると、野球ファンは普通に信じて疑っていなかった、野球の選手も暴力団の親分もまだアメ車に乗っていた、アメリカが偉かった時代。

そのアメリカの現役の大リーガーが、日本でどんな凄い成績を残すのか、現役大リーガー獲得とは流石はジャイアンツだと、皆大いにデービー・ジョンソンに期待しました。

ところがデービー・ジョンソンは、91試合出場で打率.197、本塁打13本、打点38と完全に期待を裏切ってしまい、読売ジャイアンツ史上初の最下位の原因として、「ジョン損」と彼は叩かれまくりました。 

デービー・ジョンソン不振の原因は、慣れないサード守備(本来はセカンド)や、元々は中距離ヒッターなのに長打を期待されすぎたとか、通訳の語学力不足等、色々あったようです。 

『天下の!Mr.ジャイアン長嶋茂雄』のサードの後釜は、大リーガーという長嶋茂雄監督の思惑もあったかもしれませんが、不調のジョンソンと併用された富田勝氏も、前年と違い大不振に陥っています。

結果論ですが、前年、力の衰えた長嶋茂雄氏と併用で122試合出場、打率.265の成績を残した富田勝氏をサード、デービー・ジョンソンをセカンドに最初から起用してれば、結果は違ったかも知れません。

何故なら最下位から優勝の翌年、セカンドが定位置になったデービー・ジョンソンは、108試合に出場し打率.275、本塁打26本、打点74とリーグ優勝に十分に貢献してますから。


また、主砲の王貞治氏も怪我で開幕に出遅れ、連続本塁打王記録もこの年、阪神タイガース田淵幸一氏に奪われ(翌年奪還します)、絶好調とは言えないシーズンだったと、チームは悪い事が重なってます。

というわけで、チーム打率リーグ最下位に落ち込んだ『打てない打線』をバックに、投手陣も焦ったのか?前年のチーム防御率リーグ1位の投手王国が、リーグ5位にこの年は下がってます。

開幕登板は不動のエース!堀内恒夫氏なのは当然として、第二戦で前年不調だった高橋一三氏ですから、やはりこの2本柱を中心にローテーションを回そうとしていたのでしょうが、あえなく2連敗。

4月を4勝10敗3分と大きく負け越すと、10月まで全ての月で負け越しており、9月は引き分け挟んで11連敗含む6勝16敗2分と、この年のジャイアンツの戦いぶりは悲惨です。

結果、エースの堀内恒夫氏が10勝18敗と大きく星を落とし、期待の若き小川邦和氏が8勝10敗、小林繁氏が5勝6敗、玉井信博氏が3勝4敗と伸び悩み、倉田誠氏が3勝4敗で関本四十四氏はなんと0勝4敗。

終戦堀内恒夫氏が勝利投手になって、やっと10勝しましたが、他に二桁勝利投手なし。

自身キャリアハイになった横山忠夫氏が8勝7敗、そして高橋一三氏が復調し6勝6敗でしたが、『若き新エース』と期待された新浦寿夫氏は、期待を大きく裏切る2勝11敗。

リアルタイムの記憶では、デービー・ジョンソンと新浦寿夫氏が、ジャイアンツ史上初の最下位の戦犯と新聞に叩かれまくってました。

当然、フロントは勿論、当時はジャイアンツ人気におんぶに抱っこのプロ野球界でしたから、1年目の長嶋茂雄監督最下位は大激震で、シーズンオフは大幅なテコ入れがされました。


日本ハムファイターズより主砲の張本勲氏を、高橋一三氏・富田勝氏との2対1の交換トレードで獲得し、『王・長嶋』のON砲を継承する、『王・張本』のOH砲を打線の軸にする戦略。

そして、ここが長嶋茂雄監督の「ひらめき」というか何というか、張本勲氏がレフトに入るので、レフトの高田繁氏を何と!サードにコンバートします。

V9の半ばからのレギュラーで、V9ナインの中では若手の高田繁氏とはいえ、1976年は9年目で三十路も超えており、最下位に終わった前年は打率.235、本塁打6本。高田繁氏はプロ入り以来最低の成績でした。

そんな高田繁氏のサードコンバートは見事に成功し、外野手に続いてサードでもゴールデングラブ賞を受賞し、打撃も打率.305、本塁打も盗塁も二桁に戻り見事復活。

高田繁がサードに定着したことで、元々のボジションのセカンドに定着したデービー・ジョンソンも前出の通り活躍しています。

また、投手陣も太平洋クラブライオンズより、東尾修氏と共に両エースだった加藤初氏とサードの伊原春樹氏を、関本四十四氏、玉井信博氏を2対2の交換トレードで獲得。

結局、 伊原春樹氏は高田繁氏のサードコンバートが成功したので出番はありませんでしたが、加藤初氏は15勝8S、ノーヒットノーランも達成する大活躍で、張本勲氏と共にリーグ優勝に大貢献しています。

また、小林繁投手が遂に大化けした年で、18勝8敗とチームの勝ち頭になったのも大きかったです。


更に!デービー・ジョンソンに続いて現役大リーガー、M LBからピッチャーのクライド・ライト氏を獲得し、8勝7敗と期待ほどではありませんでしたが優勝に貢献しました。

リーグ優勝した1976年は前年のチーム打率リーグ最下位からリーグトップになりましたし(.280)、チーム防御率もリーグ5位からリーグ2位と上昇している、投打共に各人好成績でした。

そして王貞治氏も本塁打王を奪還すると、6年連続打点王の二冠。張本勲氏も首位打者を1毛差で中日の谷沢健一氏に譲りましたが打撃部門で2位の大活躍。

とはいえ、まぁ〜V9時代もよくありましたが、この年も阪神タイガースに猛追され、ジャイアンツが最下位から優勝を決めたのは最終戦でした。


 

 


「アメリカン・グラフィティ」のデビーの髪型が気になる!

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上は1962年を舞台にした映画「アメリカン・グラフィティ」で、デビー役を演じたキャンディ・クラーク。下はリアル1963年のジェリー・ルイスの映画、「底抜け大学教授」のステラ・スティーブンス。

特徴的な髪型が、そっくり!

ジョン・F・ケネディ大統領時代の1962~1963年のアメリカは、マリリン・モンローしかりで、こんな髪型が白人女性の間で流行ったのかしら?

日本であの時代のフィフティーズ、オールディーズの女性というと、ポニーテイルイメージが強いですが、実際に当時の映画を観ても、パーマをあてた髪型が多く、ポニーテイルを観ることは殆どない。

ちなみにステラ・スティーブンスって、1973年に日本でも大ヒットした映画「ポセイドン・アドベンチャー」で、アーネスト・ボーグナインが演じた刑事の、元娼婦の奥様、リンダ役をやってた方です。


又、「アメリカン・グラフィティ」と同じ、古のアメリカを描いた1978年の映画「グリース」もしかり。

「私はサンドラ・ディー」 (Look At Me, I'm Sandra Dee)という楽曲で、こんなカツラを女の子達がつけて楽しんでるシーンがあります↓。

ですから、どうもフィフティーズ、オールディーズ=ポニーテイルというのは、日本独自の錯覚文化のようです(多分、70年代半ばのユーミン荒井由実さん、アンルイスさんのステージ衣装の影響)。

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で、映画「アメリカン・グラフィティ」で、眼鏡の冴えないテリーが、友人に借りた車でデビーをナンパする時、二人のやりとりで、サンドラ・ディーとコニー・スティーヴンスの名前が出ます。

が、ここが!当時のアメリカ人なら笑えるシーンなのでしょうが、日本人にはよくわからない、笑いがおきなかったシーン。

何故なら、アメリカではアイドルとして大人気だったらしいサンドラ・ディー、そしてコニー・スティーヴンスが、当時の日本ではアメリカと違い人気がなかったからです。

日本でフィフティーズ、オールディーズファンは、『コニー』と言えばコニー・フランシスで、コニー・スティーヴンスの名前が出ることはまずない。

まぁ〜コニー・フランシスは、日本の和製ポップス(洋楽を日本語詞で歌うあれ)ブーム期に「ヴァケイション」「大人になりたい」「可愛いベイビー」「ボーイハント」等大ヒットしましたからね。

一方、コニー・スティーヴンスは日本で大きなヒット曲がなかったし、TVドラマ「ハワイアン・アイ」を観てた方ぐらいしか、彼女を知らないでしょうからね〜。この辺がアメリカと日本の温度差でしょう。

ちなみにコニー・スティーヴンスもコニー・フランシスも、髪型はポニーテイルではないです。



又、私の「昭和芸能日本」七不思議の1つに、1960年前後、日本でもロカビリーや和製ポップスは流行ったのに、何故?アメリカのお気楽サーフィン映画やビーチものが、流行らなかったのか?があります。

だから、お気楽サーフィン映画やビーチものでアメリカで人気だったサンドラ・ディーって、日本で馴染みがないんですよね。これアネットもしかり。

アネットは、日本で田代みどりさんが和製ポップスブーム期に彼女の「パイナップル・プリンセス」をカヴァーヒットしてますが、田代みどりさんは知っててもアネットを知ってる方は少ないと思います。

又、男でも、「グリース」にカメオ的に出演していたほどのフランキー・アヴァロンも、お気楽サーフィン映画やビーチものでアメリカでは大人気だった方なので、同じ理由で日本では知名度は低いです。

フランキー・アヴァロンは、ちょいと気の利いたフィフィティーズ、オールディーズファンの間で1959年にヒットした「ヴィーナス」で知られてるぐらいじゃないかな〜?

サンドラ・ディーも、古の洋画ファンなら1959年のアメリカ映画「避暑地の出来事」でご存知と思いますが↓、一般的に日本でそんなに知られてる方ではないですね。

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又、しつこいようですが、サンドラ・ディーもアネットも髪型はポニーテイルではなく、パーマをあてたものです。なので、当時のリアルアメリカ映画で、ポニーテイルを探すのは大変です(笑)。

アメリカン・グラフィティ」でも、今や映画監督として大活躍のロン・ハワード演じたスティーヴの恋人ローリー(シンディ・ウィリアムズ)も、サンダーバードの謎の女もポニーテイルではありません。

映画「グリース」で、ヒロインのサンディーを演じたオリビア・ニュートン=ジョンも、ポニーテイルではなかったです。

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