王貞治氏は一本足打法以前、高卒2年目から活躍していた!





1960年の王貞治氏、長嶋茂雄氏の成績

王 貞治 打率.270、本塁打17本、打点71
長嶋茂雄 打率.334、本塁打16本、打点64

王貞治氏は高卒4年目、1962年に一本足打法になり38本塁打、85打点で二冠王を初めて獲得し、それ以降はあの!『伝説の王貞治』人生を歩んだわけです。

なので、一般的に昔から『王貞治伝説』では、一本足打法になる前の3年間はダメな選手だった的になってますが、実は高卒2年目の1960年から王貞治氏は全試合に出場。チーム最多の17本塁打放ってます。

同年、4歳年上のプロ入り3年目の長嶋茂雄氏は.334で2年連続首位打者でしたが、本塁打は16本。打点も64で王貞治氏より劣っており、打点も高卒2年目で王貞治氏はチーム最多。

というわけで、王貞治氏は高卒2年目、一本足打法以前に全試合に出場し、打率.270、本塁打17本、打点71と立派な成績を残したわけで、その後の天才バッターぶりを垣間見せています。

ですから、一本足打法になって突然!ダメな選手が打撃開眼したわけではなく、それ以前から王貞治氏には非凡な才能があったと見るのが本当でしょう。



ちなみに1959年、王貞治と高卒同期(浪商出身)でパリーグ新人王に輝いた東映フライヤーズ張本勲氏の2年目は、打率.302、本塁打16、打点56で、王貞治氏より本塁打、打点は劣ってます。

また、王貞治氏の早実の先輩、高卒で1955年パリーグ新人王になった毎日オリオンズ榎本喜八氏の2年目も、打率.282、本塁打15、打点66と王貞治氏の2年目より本塁打、打点は劣ってました。

ただ、翌1961年、王貞治氏3年目は成績を落としているので、伸び悩んでいた所に一本足打法を取り入れたら見事にはまったわけです。

一方、東京六大学のゴールデンルーキー!長嶋茂雄氏も1958年の入団一年目は本塁打王打点王の二冠に輝き見事に新人王。

そんな時の人だった長嶋茂雄氏も1959年の2年目、1960年の3年目は連続首位打者を獲得したとは言え、3年目に高卒2年目の王貞治氏に本塁打、打点で負けたのは相当!悔しかったでしょう。

長嶋茂雄氏は、4年目の1961年には3年連続首位打者の他、2度目の本塁打王に輝いており(長嶋茂雄氏、生涯最後の本塁打王)、打点数もチーム内でトップに返り咲いてます。

というわけで、1965年から1973年までの読売ジャイアンツ不滅のV9は、王貞治氏と長嶋茂雄氏のON砲がいなければ、お二人の切磋琢磨がなければ成し得なかったでしょう。



読売ジャイアンツV9打線と戦った、阪神タイガースの若生智男氏が他界されました


 

2024年6月3日、古の名投手!若生智男氏が87歳で他界されました。合掌。

 

若生智男氏は大毎オリオンズ(現ロッテ)で活躍後、1964年に阪神タイガースに移籍。1965年から始まった今も伝説の!読売ジャイアンツ不滅のV9時代、大活躍された投手でした。

 

阪神タイガースは1964年のリーグ優勝以降、読売ジャイアンツのV9が終わる1973年までの10年間、2位が5回。

その『強い阪神』の原動力は、この10年間でリーグ防御率1位の年が7回、2位が3回の投手力だったのは、間違いありません。

有名なところでは村山実投手、ジーン・バッキー投手、江夏豊投手の3投手ですが、若生智男投手もまた!その阪神タイガースの投手王国を支えた、いぶし銀の名投手でした。

読売ジャイアンツV9時の若生智男投手

1965 3勝5敗 3,65
1966 10勝4敗 1,96
1967 8勝7敗 2,14
1968 3勝7敗 3,33
1969 12勝12敗 2,75
1970 13勝10敗 2,17
1971 10勝12敗 2,17
1972 1勝5敗 3,71
1973 0勝5敗 2,67

 


若生智男投手は1966年、1969~1971年の4年間、二桁勝利を挙げており、10勝4敗の1966年は防御率1,96でリーグ防御率3位で、翌年は8勝7敗でしたが防御率は2,14でリーグ2位と安定したピッチングでした。

また、12勝12敗の1969年、13勝10敗の1970年、10勝12敗の1971年の3年間も、防御率は全て2点台(1970~1971年はともにリーグ6位)。

防御率2点台の、これだけの好投手なのに、何故?これほど勝ち数と負け数が拮抗していたのか?正に!これこそが当時の阪神タイガースで、当時の阪神タイガース打線は貧打戦だったからでです。

 

 

これは上記の有名な村山実投手、ジーン・バッキー投手、江夏豊投手も皆、苦しんでました。

3点取られたら負け、2点取られても危ない。勝つには完封か?失っても1点のピッチングは、当時の阪神タイガース投手陣には厳しかったと思います。

ちなみにリーグ優勝した1964年も、阪神タイガースのチーム打率はリーグ5位。1970年に何故か?リーグ1位でしたが、それ以外の9年間はチーム打率だけ見れば、阪神タイガースは全てBクラスでした。

まぁ〜当時、阪神タイガース打線がもう少し打っていたら、投手陣は素晴らしかったので、読売ジャイアンツのV9はなく、プロ野球の歴史は変わっていたでしょうね。

 



2002年、34歳の桑田真澄氏は投手として12勝・防御率2.22。打者として打率.294の二刀流だった!

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春夏の全国高校野球大会で、通算本塁打数1位はPL学園時代の清原和博氏のダントツ13本ですが、2位の6本は3人います。

それは、上宮高校の元木大介氏、広陵高校の中村奨成氏、そしてPL学園桑田真澄氏です。

というわけで、桑田真澄氏がピッチングだけでなく、守備力・打撃力も秀逸な選手なのは、ファンの間では高校時代から有名な話。

で、2002年、2位ヤクルトに11ゲーム差をつけ優勝した時の読売ジャイアンツの選手が凄いんです。

松井秀喜氏が本塁打王打点王の二冠、上原浩治氏が最多勝(ヤクルト、ホッジスと同数)と最高勝率、そして桑田真澄氏が最優秀防御率と、読売ジャイアンツの選手がほぼタイトルを独占した凄い年でした。



そして防御率1位の桑田真澄氏はこの年、51打数15安打で打率.294と、もう少しで打率3割!しかも二塁打5本、三塁打本塁打が各々1本ずつで長打率が.490 。

試合数・打席数が違いますが、読売ジャイアンツ史上、王貞治氏・長嶋茂雄氏に次ぐ歴代3位のチーム本塁打数の阿部慎之助氏のこの年の長打率は.478ですから、バッター!桑田真澄氏の凄みを感じます。

ただ、桑田真澄氏はこの年が選手としてはピークで、もしピッチャーをやめても代打の切り札になっていたら、もっと選手生命は伸びていたと思うぐらい、桑田真澄氏の打撃センスは素晴らしかったですね〜。

勿論、天下の桑田真澄氏ですから、ピッチャーをやめて代打の切り札の選択をするわけもないですが、もし読売ジャイアンツが最初から桑田真澄氏を二刀流で売り出そうとしてたら、どうだったでしょう。

もしかしたら桑田真澄氏だったら、二刀流やってのけちゃったんじゃないかな〜?、、、

と、桑田真澄氏のそのストイックな野球に対する姿勢、人生観を鑑みると思ってしまいますねー。

   

V9読売ジャイアンツの王貞治氏の、凄い連続本塁打王ぶり!




1965年

42本 王 貞治読売ジャイアンツ)同年:本塁打王打点王
29本 江藤 慎一(中日ドラゴンズ) 
25本 黒木 基康(大洋ホエールズ) 


1966年
48本 王 貞治読売ジャイアンツ)同年:本塁打王打点王
26本 長嶋 茂雄(読売ジャイアンツ
26本 江藤 慎一(中日ドラゴンズ


1967年
47本 王 貞治読売ジャイアンツ)同年:本塁打王打点王
34本 江藤 慎一(中日ドラゴンズ) 
33本 D・スチュワート(大洋ホエールズ) 


1968年
49本 王 貞治読売ジャイアンツ)同年:本塁打王首位打者
40本 D・ロバーツ(サンケイアトムズ) 
39本 長嶋 茂雄(読売ジャイアンツ) 


1969年
44本 王 貞治読売ジャイアンツ)同年:本塁打王首位打者
37本 D・ロバーツ(アトムズ
33本 木俣 達彦(中日ドラゴンズ
 

1970年
47本 王 貞治読売ジャイアンツ)同年:本塁打王首位打者
30本 木俣 達彦(中日ドラゴンズ) 
22本 長嶋 茂雄(読売ジャイアンツ) 


1971年
39本 王 貞治読売ジャイアンツ)同年:本塁打王打点王
34本 長嶋 茂雄(読売ジャイアンツ) 
33本 D・ロバーツ(ヤクルトアトムズ) 


1972年

48本 王 貞治読売ジャイアンツ)同年:本塁打王打点王
34本 田淵 幸一(阪神タイガース) 
29本 衣笠 祥雄(広島東洋カープ) 


1973年

51本 王 貞治読売ジャイアンツ)同年:三冠王
37本 田淵 幸一(阪神タイガース) 
33本 J・シピン大洋ホエールズ) 

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1965~1973年、読売ジャイアンツV9時代の王貞治氏の連続本塁打王が、最も危なかったのが1969年で、この年はアトムズのD・ロバーツが絶好調で、8月半ばまでなんと!打撃三部門全てでトップ!

ところがゲーム中に負傷してしまい(ベースカバーの投手と激突)、復帰までに3週間もかかってしまい、結果的に本塁打も打率も王貞治氏に、打点も長嶋茂雄氏と王貞治氏に抜かれる悲運でした。



1969年から東京六大学の天才ホームランバッター!田淵幸一氏が登場しますが、1年目は22本(新人王)でしたが、2年目は頭部デッドボール、3年目はその後遺症と病で、試合出場は89試合、88試合止まり。

4年目の1972年に初めてリーグ2位、翌年も2位でしたが、その本塁打数は全く王貞治氏には及びませんでした。

田淵幸一氏がシーズン40本塁打以上放ったのは生涯で3回。1980年での西武ラインズを別にすると、読売ジャイアンツV10逸の1974年の45本。そして王貞治氏の連続本塁打王を13年で止めた1975年の43本。

まぁ〜王貞治氏の凄いのは、1976年には49本塁打を放ち本塁打王を奪回すると(田淵幸一氏は39本)、翌1977年も50本塁打を放ち、2年連続通算15回目の本塁打王を獲得したところです。




で、改めて資料を眺めると、読売ジャイアンツV9時代のセリーグで、王貞治氏以外でシーズン40本塁打以上放ってるバッターは、D・ロバーツの1回だけ。

同時代のパリーグは、阪急ブレーブス長池徳二氏が4回40本塁打以上放ち3回本塁打王を獲得。同じく東映フライヤーズ大杉勝男氏が3回40本塁打以上放ち2回本塁打王。あとは野村克也氏が1回。

なので当時、セパ両リーグでシーズン40本塁打以上打てたのは、王貞治氏、D・ロバーツ、長池徳二氏、大杉勝男氏、野村克也氏の5人だけ(長嶋茂雄氏はシーズン最高は39本塁打)。


更に読売ジャイアンツがV10逸の1974年から1979年までの6年間、パリーグで40本以上本塁打を放ってる打者はおりませんし、セリーグもこの時期は山本浩二氏と掛布雅之氏の二人しかおりません。

だから!王貞治氏の生涯シーズン40本塁打以上13回(50本以上が3回)も、とてつもない記録で、あとは野村克也氏が4回(50本以上が1回)、長池徳二氏も4回、そして大杉勝男氏が3回。

現役時代の王貞治氏は、こと本塁打に関しては無敵!無双状態だったと言って、間違いないでしょう。

 

ザ・ビートルズ旋風前に、アメリカではスキヤキ、サーフロックブームがあった!


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ザ・ビートルズが本国イギリスでレコードデビューしたのは1962年10月ですが、アメリカで大ブームになるのは1964年とタイムラグがありました。

まぁ〜ザ・ビートルズ以降、イギリス勢のアメリカ進出は当たり前になりましたが、それまでイギリスの音楽はアメリカではウケず、イギリス勢初のアメリビルボード1位獲得はザ・ビートルズ

その、ザ・ビートルズの邦題「抱きしめたい」(I Want to Hold Your Hand)がビルボードチャート1位を獲得したのは1964年2月1週で、7週連続1位を記録後、続いて「シー・ラブズ・ユー」が2週連続。

続いて「キャント・バイ・ミー・ラブ」が5週連続1位と、2月1日から5月2日まで3ヶ月間ザ・ビートルズの曲が全米1位を獲得する大事件が起きたのが、1964年でした。


更には、こちらも伝説になってますが、4月4日は1位「キャント・バイ・ミー・ラブ」、2位「ツイスト・アンド・シャウト」、3位「シー・ラブズ・ユー」、4位「抱きしめたい」5位「プリーズ・プリーズ・ミー」の1~5位まで、ザ・ビートルズの曲が独占する大事件も起きています。

というわけで1964年にロック、音楽の歴史は変わったわけですが、まぁ〜当時の日本はザ・ビートルズよりも同年10月開催の東京オリンピックムード一色だったでしょう。

日本もアメリカ同様、ザ・ビートルズのレコードデビューは1964年と遅れておりますが、日本では更に!ザ・ビートルズよりも、ザ・ヴェンチャーズによる空前のエレキブームが1985年に起きてます。

勿論、1966年のザ・ビートルズ来日は大ニュース、大事件で、日本武道館でのライブのテレビ視聴率は56,5%と驚異的な数字でした。


まぁ〜そんなこんなで、英米日ではザ・ビートルズデビューは異なり、そのブームもタイムラグがあるわけですが、そのイギリスのザ・ビートルズよりも先に日本の曲がビルボード1位を獲得していました。

それが有名な、坂本九氏の歌う「上を向いて歩こう」を「SUKIYAKI」と題した曲がそれで、1963年の6月3週から5週まで3週連続でビルボード1位を獲得してるのは、日本人には誉と思います。

ただ、残念ながらザ・ビートルズに続いたイギリス勢と違い、日本は「SUKIYAKI」に続くことはできず、この辺は、当時の日本のレコード会社に世界進出という概念がなかったからかもしれませんね。


というわけでイギリスのザ・ビートルズ旋風の1年前に、日本の「SUKIYAKI」ブームがアメリカでは起きていたわけで、更に忘れていけないのがサーフロック!

7月3週にジャン&ディーンの「サーフ・シティ」が2週連続でビルボード1位に輝いており、この曲はザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウイルソンが関わっています。

同年、そのブライアン・ウイルソンザ・ビーチボーイズは春に「サーフィンUSA」がビルボード最高位3位、秋に「サーファー・ガール」を7位と、サーフィンソングをランクインさせ大ブレイク。


1963年と言えば、イギリスではザ・ビートルズが大変なことになっていたわけですが、まだ1963年のアメリカでは何も起きておらず(日本も)、1963年は振り返ると面白い年だったと思われます。

映画「アメリカン・グラフィティ」は1962年の夏の、とあるアメリカの地方都市の若者達の1日を描いてますが、これはザ・ビートルズの公式レコードデビューが1962年10月だからその直前の設定。

でも、まぁ〜アメリカでザ・ビートルズ旋風が起きたのは1964年ですから、設定は1963年でも良かったと思いますが、やはりジョージ・ルーカスはルーカスなりに、思う所があったのでしょう。

もし「アメリカン・グラフィティ」が1963年設定だったら、ルーカスは果たして「SUKIYAKI」を挿入歌に使ったか?ルーカスと会えるレベルの映画評論家の方、聞いてみてほしいな〜。










法大の江川卓投手は、対アメリカの『日米大学野球選手権大会』が苦手だった!



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江川卓投手は法政大時代、『日米大学野球選手権大会』の全日本チームに、2~4年生の1975~1977年の3年連続で選ばれています。

当時は日本人大リーガー(当時はそう呼んでいた)第一号の村上雅則氏から、次の野茂英雄氏がアメリカに渡るまでの長い空白時代で、日本人選手はアメリカでは通じないだろうというのが定説でした。

でも、唯一!『江川だけは別格』『江川だけはアメリカで通じる』と思われていたところもあり、学生野球とはいえ『怪物・江川』の対アメリカチームでのピッチングは、それはそれは!注目の的!

1975年の日米大学野球選手権はアメリカ開催。日本代表は2年生の江川卓投手の他、4年生に同志社大田尾安志氏、駒沢大の中畑清氏、3年生に大阪商大の斉藤明雄氏と、後にプロで大活躍する選手が勢揃い。

注目!期待!の江川卓投手でしたが、流石にまだ2年生ということもあり、いきなりの先発はなく第一戦の先発は明治大4年の丸山清光投手で、江川卓投手は2番手で登場しましたが本塁打を打たれています。

結果、2本塁打を打たれた丸山清光投手が負け投手になり、日本は2対9と惨敗。

第二戦は、3年連続で選ばれた中央大4年の田村政雄投手(同年、大洋ホエールズドラフト1位)の好投の後をうけ、連投で『日本期待の!』江川卓投手は登板します。

が、江川卓投手は延長13回に決勝本塁打を打たれ負け投手になり(2対3)、『怪物・江川』が2試合ともアメリカチームに本塁打を打たれたのは、当時の野球ファンにはショッキングな事件でした。

連投二日後の第三戦に、それでも『日本期待の!』江川卓投手は今度は先発登板。再び江川卓投手は3試合連続で本塁打を打たれますが、田村政雄投手がリリーフに回り江川卓投手は勝利投手(7対5)。

日本は今大会初勝利しましたが、どうにも『日本期待の!』江川卓投手、ピリッとしない。


流石に翌日の第四戦は江川卓氏の登板はありませんでしたが(1対6で日本敗戦)、中2日の第五戦に先発の田村政雄投手の救援で登場し、江川卓投手この大会4度目の登板。

結果、負け投手は田村政雄投手で、この試合は江川卓投手はじめ日本の6投手は本塁打こそ打たれませんでしたが、3対11と打たれまくり惨敗を屈しています。

そして中1日の第6戦にも、江川卓投手は斎藤明雄投手をリリーフし5試合目の登板になりましたが、結果、延長15回裏に日本は逆転さよなら勝ちで(4対3)、最後に登板の田村政雄投手が勝利投手になりました。

第七戦も連投で6度目の登板、2度目の先発となった江川卓投手は、継投の田村政雄投手とともに好投しますが、打線も抑えられ0対0の7回裏、3番手の斉藤明雄投手が打たれ、結局0対2で日本は敗戦しています。

結局この大会、『日本期待の!』注目の江川卓投手は6試合登板して1勝1敗。日本も2勝5敗と負け越し、アメリカとの力の差を見せつけられたという感じでした。

で、江川卓投手がそこまで期待されたのは、1972年の第一回日米大学野球で関西大の山口高志投手が、完投・完封含む3勝1敗の好成績をあげ、日本が4勝3敗で勝ち越したのが大きかったと記憶しております。

山口高志投手は大卒後、プロ入りを拒否して社会人に進みますが、社会人でも大活躍し1974年のドラフト1位で阪急ブレーブスに入団すると新人王を獲得、日本シリーズでもMVPを獲得する大活躍!

その快刀乱麻の山口高志投手の関西大時代の再来を、法政大2年の江川卓投手に関係各位、野球ファンは期待していたのですが、そうはならなかったわけです。



翌1976年は日本で開催され、日本代表は4年生の昨年に続き斉藤明雄氏、そして駒澤大森繁和氏、日本大の佐藤義則氏、早稲田大の松本匡史氏。

3年生は江川卓投手他、同じく法政大の袴田英利氏、早稲田大の山倉和博氏、2年生に駒澤大石毛宏典氏と、この年も後にプロで大活躍する選手勢揃いでしたが、結果は再び日本の2勝5敗。

3年生とはいえ、この年の第一戦の先発はやはり!『日本期待の!』エース江川卓投手。

この試合も、江川卓投手は本塁打を浴びますが好投。が、日本はアメリカ投手陣が打てず、後続リリーフが打ち込まれ、試合は1対9で日本は初戦を落とし江川卓投手は負け投手。

第二戦も斎藤明雄投手が打ち込まれ1対5で日本は落とし、第三戦は中二日で再び江川卓氏が先発し、やはり本塁打を浴び、更にこの年の日本は打線が不調で1対3でやぶれ、日本は3連敗を屈っします。

なんと、先発2回で『日本期待の!』江川卓投手は早くも2敗。

で、第四戦は森繁和投手、東海大の吉田恭之投手が好投し、相変わらず打線は打てませんでしたが2対1で日本は初勝利をあげました(8回降雨コールド)。

中1日の第五戦の先発は、前回好投の吉田恭之投手。江川卓投手は2番手で3度目の登板になりましたが勝ち負けなし。試合は6対9で日本は負け、これで日本1勝4敗。

第六戦は明治大2年の高橋三千丈投手、そして森繁和投手が好投し、日本が3対2で勝ちこれで2勝目。この大会は2勝共勝ち投手は森繁和投手でした。

そして最終第七戦は2対2の接戦でしたが、リリーフの江川卓氏が決勝点を与えてしまい敗戦投手。『日本期待の!』江川卓投手はこの大会、0勝3敗でした。




そして1977年はアメリカ開催で、4年生は江川卓投手のほか、亜細亜大の古谷英夫氏等。3年生に昨年に続き石毛宏典氏、東洋大松沼雅之氏、明治大の鹿取義隆氏、専修大中尾孝義氏。

1年生に東海大原辰徳氏が選ばれる、この年も後にプロで大活躍する選手ばかりでしたが、日本は三度2勝5敗と負け越しています。

江川卓投手は第一戦に先発し3対3のまま8回裏に1点取られ、完投するも4失点で負け投手(3対4)。昨年からこれで江川卓投手、対アメリカ戦は4連敗になりました。

第二戦も江川卓投手は中継ぎ3番手で登板、勝ち負けはつきませんでしたが延長で3対5で日本敗退。

第三戦は、中1日で2度目の先発。今大会3連投の江川卓投手は、2回までに3点失いますが、力投し継投も成功し日本は4対3で初勝利をあげ、江川卓投手も勝利投手になり対アメリカ戦の連敗を止めています。

第四戦は松沼雅之投手の好投により0対4で勝った日本は、これで2勝2敗のイーブン。

第五戦も4番手で江川卓投手はこの大会4度目の登板しましたが、試合は1対2で日本は接戦を落とし、江川卓投手には勝ち負けなし。

第六戦は前回好投した松沼雅之投手が先発しましたが、今度はアメリカ打線に打ち込まれ、6対3で日本は負け、最終戦の先発は、やっぱり!『日本期待の!』江川卓投手。

今大会3度目の先発になった江川卓投手に勝ち負けはつきませんでしたが、ここでも本塁打を浴びており、日本は5対7で敗戦。日本は3年連続2勝5敗の負け越しでした。


結局、法政大時代の江川卓投手はアメリカ相手に3年間で通算2勝5敗と、国内では高校、大学と快刀乱麻のピッチングだった『怪物・江川』にしては、誠に不本意な成績だったと言えます。

ちなみに、日本の日米大学野球選手権5年連続負け越しは、江川卓投手卒業後の翌1978年に4勝3敗で止まり、連続出場になった東洋大4年の松沼雅之投手が、2度の完封勝利含む3勝を上げMVP。

多くの関係各位、野球ファンが期待したアメリカチームに対する快刀乱麻のピッチングは、江川卓投手ではなく、松沼雅之投手が山口高志投手に次いで果たしました。

最後になりますが、2023年現在、日米大学野球選手権44年の歴史の中で、5年連続で米国が日本に勝ち越したのはこの5年だけで、日米共に3年連続で勝ち越したことは他に一度もありません。



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1977年 法政大4年江川卓氏と東海大1年の原辰徳氏の直接対決!



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共に高校時代から日本中で大人気、マスマディアのかっこうの飯の種だった江川卓氏と原辰徳氏二人が、揃って読売ジャイアンツで活躍したのは僅かに7年。

この7年で読売ジャイアンツはリーグ制覇が3回なれど、日本一は1回と、高校時代からスーパースターと謳われたお二人が揃っていたにしては、ちょいと振り返ると物足りなかったかな?と思います。

で、お二人とも読売ジャイアンツで現役野球生活を終えているので、プロでの直接対決はありませんでしたし、高校も江川卓氏が卒業した年に原辰徳氏が入学してるので対決はなし。

また、江川卓氏法政大4年時に原辰徳氏は東海大に進みましたが、東京六大学首都大学と所属リーグが違うので、リーグ戦での対戦もなしでした。


そんな江川卓氏、原辰徳氏が生涯で唯一!対戦したのが、1977年の各大学リーグの優勝校が全国制覇を競う秋の明治神宮野球大会でした。

4年生の江川卓氏の法政大は、東京六大学を制しリーグ4連覇。江川卓氏も通算47勝をあげ(今も歴代2位)、この年のドラフトの超目玉。

一方の原辰徳氏も東海大相模時代に通算4季甲子園に出場、鳴物入りで東海大に進み、1年生からレギュラーを獲得し、首都大学秋のリーグ戦を東海大は制し出場し、両校は勝ち進み決勝で対決しました。

法政大の先発は江川卓投手、東海大の先発は後の大洋ホエールズ横浜ベイスターズ遠藤一彦投手で、1年の原辰徳氏は2番サードで先発出場。




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結果的に先制された法政大でしたが、遠藤一彦投手を打ち崩し5対3で勝ち優勝し、江川卓投手は自ら本塁打も放ち完投勝利投手になりました。

が、江川卓投手は被安打7本のうち、2本ソロホームランを打たれており、うち1本が1年生の原辰徳氏。

結果、現役選手時代、公式戦唯一の直接対決になった『江川VS原』は以下の通り4打数2安打。

第一打席 キャッチャーフライ
第二打席 ホームラン
第三打席 内野安打
第四打席 三振(三球三振)


4打数2安打なら打者の勝利ですが、まぁ〜江川卓氏のことですから3歳も年下の1年生の原辰徳氏を「なめていた」でしょう。江川卓氏は「そういう人」ですから(笑)。

初対決をキャッチャーフライに打ち取ったのも、きっと「なめた」要因でしょう。その結果、見事に次の打席でレフトスタンドに運ばれ、3打席目はカーブを内野安打されてしまいます。

で、最後の打席では、「本気」を出してオールストレートで3球三振。良くも悪くも、それが江川卓氏と言えるでしょう。