王貞治氏は一本足打法以前、高卒2年目から活躍していた!





1960年の王貞治氏、長嶋茂雄氏の成績

王 貞治 打率.270、本塁打17本、打点71
長嶋茂雄 打率.334、本塁打16本、打点64

王貞治氏は高卒4年目、1962年に一本足打法になり38本塁打、85打点で二冠王を初めて獲得し、それ以降はあの!『伝説の王貞治』人生を歩んだわけです。

なので、一般的に昔から『王貞治伝説』では、一本足打法になる前の3年間はダメな選手だった的になってますが、実は高卒2年目の1960年から王貞治氏は全試合に出場。チーム最多の17本塁打放ってます。

同年、4歳年上のプロ入り3年目の長嶋茂雄氏は.334で2年連続首位打者でしたが、本塁打は16本。打点も64で王貞治氏より劣っており、打点も高卒2年目で王貞治氏はチーム最多。

というわけで、王貞治氏は高卒2年目、一本足打法以前に全試合に出場し、打率.270、本塁打17本、打点71と立派な成績を残したわけで、その後の天才バッターぶりを垣間見せています。

ですから、一本足打法になって突然!ダメな選手が打撃開眼したわけではなく、それ以前から王貞治氏には非凡な才能があったと見るのが本当でしょう。



ちなみに1959年、王貞治と高卒同期(浪商出身)でパリーグ新人王に輝いた東映フライヤーズ張本勲氏の2年目は、打率.302、本塁打16、打点56で、王貞治氏より本塁打、打点は劣ってます。

また、王貞治氏の早実の先輩、高卒で1955年パリーグ新人王になった毎日オリオンズ榎本喜八氏の2年目も、打率.282、本塁打15、打点66と王貞治氏の2年目より本塁打、打点は劣ってました。

ただ、翌1961年、王貞治氏3年目は成績を落としているので、伸び悩んでいた所に一本足打法を取り入れたら見事にはまったわけです。

一方、東京六大学のゴールデンルーキー!長嶋茂雄氏も1958年の入団一年目は本塁打王打点王の二冠に輝き見事に新人王。

そんな時の人だった長嶋茂雄氏も1959年の2年目、1960年の3年目は連続首位打者を獲得したとは言え、3年目に高卒2年目の王貞治氏に本塁打、打点で負けたのは相当!悔しかったでしょう。

長嶋茂雄氏は、4年目の1961年には3年連続首位打者の他、2度目の本塁打王に輝いており(長嶋茂雄氏、生涯最後の本塁打王)、打点数もチーム内でトップに返り咲いてます。

というわけで、1965年から1973年までの読売ジャイアンツ不滅のV9は、王貞治氏と長嶋茂雄氏のON砲がいなければ、お二人の切磋琢磨がなければ成し得なかったでしょう。