読売ジャイアンツV9打線と戦った、阪神タイガースの若生智男氏が他界されました


 

2024年6月3日、古の名投手!若生智男氏が87歳で他界されました。合掌。

 

若生智男氏は大毎オリオンズ(現ロッテ)で活躍後、1964年に阪神タイガースに移籍。1965年から始まった今も伝説の!読売ジャイアンツ不滅のV9時代、大活躍された投手でした。

 

阪神タイガースは1964年のリーグ優勝以降、読売ジャイアンツのV9が終わる1973年までの10年間、2位が5回。

その『強い阪神』の原動力は、この10年間でリーグ防御率1位の年が7回、2位が3回の投手力だったのは、間違いありません。

有名なところでは村山実投手、ジーン・バッキー投手、江夏豊投手の3投手ですが、若生智男投手もまた!その阪神タイガースの投手王国を支えた、いぶし銀の名投手でした。

読売ジャイアンツV9時の若生智男投手

1965 3勝5敗 3,65
1966 10勝4敗 1,96
1967 8勝7敗 2,14
1968 3勝7敗 3,33
1969 12勝12敗 2,75
1970 13勝10敗 2,17
1971 10勝12敗 2,17
1972 1勝5敗 3,71
1973 0勝5敗 2,67

 


若生智男投手は1966年、1969~1971年の4年間、二桁勝利を挙げており、10勝4敗の1966年は防御率1,96でリーグ防御率3位で、翌年は8勝7敗でしたが防御率は2,14でリーグ2位と安定したピッチングでした。

また、12勝12敗の1969年、13勝10敗の1970年、10勝12敗の1971年の3年間も、防御率は全て2点台(1970~1971年はともにリーグ6位)。

防御率2点台の、これだけの好投手なのに、何故?これほど勝ち数と負け数が拮抗していたのか?正に!これこそが当時の阪神タイガースで、当時の阪神タイガース打線は貧打戦だったからでです。

 

 

これは上記の有名な村山実投手、ジーン・バッキー投手、江夏豊投手も皆、苦しんでました。

3点取られたら負け、2点取られても危ない。勝つには完封か?失っても1点のピッチングは、当時の阪神タイガース投手陣には厳しかったと思います。

ちなみにリーグ優勝した1964年も、阪神タイガースのチーム打率はリーグ5位。1970年に何故か?リーグ1位でしたが、それ以外の9年間はチーム打率だけ見れば、阪神タイガースは全てBクラスでした。

まぁ〜当時、阪神タイガース打線がもう少し打っていたら、投手陣は素晴らしかったので、読売ジャイアンツのV9はなく、プロ野球の歴史は変わっていたでしょうね。