「太田幸司世代」の、高校野球後の人生は皆さん色々だ〜

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1969年当時、国民的英雄・甲子園のアイドルだった三沢高の太田幸司氏を指して、その年に活躍した高校生達を「太田幸司世代」とする言葉は、当時はなかったですが、この世代も2021年に皆様、古希・70歳。

そこで「松坂世代」を真似、その「太田幸司世代」を調べてみると、これがなかなか皆様、面白い人生なので、紹介したいと思います。

1969年のドラフト会議で、高校生が1位指名されたのは、日本中の当時アイドルだった三沢の太田幸司氏と、仙台商八重樫幸雄氏で、ともに最近はとても強い東北勢。

当時の東北代表は、今とは比べ物にならないほど弱いイメージがあったので、1969年の夏の甲子園大会で、青森の三沢、宮城の仙台商の2校がベスト8に残ったのは、かなり事件でした。

しかも仙台商は翌春の選抜ベスト4の広陵の、2年生とはいえ既に超高校級投手と話題だった佐伯和司投手(1970年の、広島カープドラフト1位)を打ち込んでのベスト8進出。

なので仙台商の主砲、八重樫幸雄氏は高い評判を得たわけです。

当時のヤクルトは『八重樫・西井・井原』と、太田幸司世代の宝庫!

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で、、、

1969年のドラフト会議、ヤクルトアトムズに1位指名された仙台商八重樫幸雄氏は、プロ通算23年、42歳までヤクルト一筋で活躍。「太田幸司世代」では、最も長く現役を続けた選手。

そんな八重樫幸雄氏は、現役引退後もヤクルトでコーチをつとめ40年間ヤクルト一筋の野球人生を歩んだ後に、今度はスカウトに転身。2016年にヤクルトを退団しています。

更に、この年のヤクルトは、太田幸司氏と共に当時、超高校級投手と謳われた宮崎商の西井哲夫氏を2位、丸亀商の井原慎一郎氏を5位指名。

西井哲夫氏は、1969年春夏連続で甲子園に出場、超高校級投手を擁する宮崎商は、優勝候補に挙げられてましたが共に1回戦負け。でも、西井哲夫氏のプロ通算18年の成績は63勝66敗20S。

太田幸司氏の58勝85敗4Sを上回ってますし、1974年には松岡弘浅野啓司投手に次ぐ第三のローテンションピッチャーになってましたし、1978年の球団初のリーグ優勝では中継ぎ投手として活躍しました。

丸亀商の井原慎一郎氏も、1969年の春の選抜では、宮崎商の西井哲夫投手、三沢の太田幸司投手とともに超高校級投手と話題でしたが、2回戦敗退。

夏は北四国大会で、あの!太田幸司氏と甲子園の決勝で、延長18回投げあった井上明投手の松山商に負け、甲子園出場はなりませんでしたが、ヤクルト一筋プロ通算15年、42勝45敗15セーブ。

原慎一郎氏も、1978年の球団初のリーグ優勝では、10勝4敗4Sと大活躍。西井哲夫氏とともに、阪急ブレーブスとの日本シリーズでも活躍。日本一にも貢献してます。

そんな井原慎一郎氏は2023年現在、ヤクルト(国鉄・サンケイを含む)OBとヤクルト本社により設立されたNPO法人「つばめスポーツ振興協会」の理事長です。

1985年の阪神優勝時の中継ぎ投手、福間納氏も「太田幸司世代」

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1969年の春の選抜で、当時の超高校級投手・井原慎一郎氏の丸亀商に一回戦で負けた、島根の太田高のエースは福間納投手。

後にロッテオリオンズから阪神タイガースに移籍、中継ぎ投手として大活躍し、1985年の優勝にも大貢献した(前年、太田幸司氏は阪神で現役引退しました)、あの福間納氏です。

福間納氏は社会人野球の経験が長く、また阪急ブレーブスからの指名を一度拒否してるので、27歳と遅いプロ入りなので時代がずれて感じますが、福間納氏も「太田幸司世代」。

福間納氏の1969年のあの!夏の大会は、県大会で2年生の三沢淳投手(後の中日ドラゴンズ)を擁する江津工に準決勝で敗れ、春夏連続出場はかないませんでした。

阪神タイガースも1969年のドラフトでは、1位指名は太田幸司投手ではなく「東海大を初めて有名にした男」、大学No. 1ピッチャー!東海大の上田次朗投手でしたが、高校球児を3名指名してます。

春の選抜の準優勝投手、堀越の但田祐介氏を3位、同優勝投手、三重の上西博昭氏を4位指名。

そして夏の大会、三沢の太田幸司投手と延長18回引き分け再試合を演じ優勝した、松山商の野手、樋野和寿氏を6位指名してます。

樋野和寿氏は決勝戦延長15回、一死満塁の松山商サヨナラ負けの大ピンチ、ピッチャー返しをハンブルした井上明投手をカバー、バックホームし間一髪サードランナーをアウトにした↓、あのショート。

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もし!この時、樋野和寿氏がピッチャーカヴァーに遅れていたら、打球を弾いてたら、送球が遅れてたら、それていたら、春夏通じ東北勢初の優勝チームは青森県の三沢だったわけです。


が、但田祐介氏は入団するも、上西博昭氏と樋野和寿氏はプロ入りを拒否し大学進学。樋野和寿氏は明治大でも活躍し、1973年のドラフトでも中日ドラゴンズに再び5位指名を受けますが、再びプロ入り拒否。

日本鋼管に就職し社会人野球でも活躍し、現在は定年退職されてると思われますが、樋野和寿氏は社会人としても、JFEグループ企業、リバースチール㈱ 取締役 建設・鉄鋼部長を務めました。

また、三重の選抜優勝投手の上西博昭氏は中央大学卒業後、プロゴルファーになってます。

松山商で、樋野和寿氏とともに超高校級選手、大型内野手と謳われた谷岡潔氏も、1969年のドラフトで大洋ホエールズから3位指名。

岡潔氏は入団しましたが、阪神の但田祐介氏同様、プロでは大きな活躍はできないまま引退してます。

更にこの年の大洋ホエールズは、1969年夏ベスト8、優勝した松山商に負けた静岡商のエース、松島英雄氏を4位指名。

同じく夏ベスト8、春夏連続出場した富山の富山北部のエース、藤田賢治氏を6位指名しましたが、残念ながら二人とも、1軍での勝ち星なく引退されてます。

ちなみにこの時の松島英雄投手擁する静岡商の外野手が、中央大学進学後、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団、中日の中心バッターになった藤波行雄氏でした。

太田幸司世代」の甲子園出場組で、プロ最多勝比叡山の間柴!

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中央大学時代、上西博昭氏と藤波行雄氏の同級生で、こちらは阪神タイガースにドラフト1位入団した佐野仙好氏は、1969年の甲子園出場はないですが、前年1968年夏の2年時、群馬の前橋工で出場してます。

1968年夏は、3季連続出場した三沢の太田幸司氏も2年生で甲子園初登場、初勝利してますので、大卒入団なので時代がずれた感じですが、藤波行雄氏も佐野仙好氏も「太田幸司世代」です。

更に!この年の大洋ホエールズは、1969年の春の選抜は初戦負け、夏は京滋大会決勝で平安に敗れ甲子園出場はなりませんでしたが、こちらも超高校級投手と謳われた滋賀の比叡山間柴茂有氏を2位指名。

間柴茂有氏は、日本ハムファイターズにトレード移籍後、シーズン15勝0敗、勝率10割を記録したので、古の野球ファンなら記憶にある選手だと思います。

間柴茂有氏はプロ通算21年、81勝83敗2Sで、勝ち数は「太田幸司世代」の『甲子園出場組』投手ではトップです!

間柴茂有氏は現役引退後、最後の現役生活を送った福岡ダイエーホークスのフロント入りしました。

さてその間柴茂有氏を京滋大会で、延長で下して夏の甲子園行きを決めた京都の平安は、太田幸司投手擁する三沢に準々決勝で甲子園では負けましたが、野手の渋谷通氏は4季連続甲子園出場。

大型一塁手として、1969年のドラフトで広島東洋カープに2位指名され入団しましたが、当時の広島東洋カープの一塁には衣笠祥雄氏がいたので、一塁手の渋谷通氏は外野手にコンバートされます。

が、外野にも当時の広島の4番に君臨してた山本一義氏、そして前年入団した「法大三羽ガラス」、後の「ミスター赤ヘル」の山本浩二氏が、ほぼレギュラーに定着しつつあったのでポジション争いは熾烈。

また、1970年で引退された山内一弘氏に代わって、この後「赤ヘル打線」の主軸になる水谷実雄氏が台頭し、外人のヒックス、シェーン等も外野手だったので、若き渋谷通氏には厳しいチーム事情でした。

結局、プロ入り3年目の1972年に1軍に上がった渋谷通氏でしたが、外野のレギュラーを獲得することはできず、日本ハムファイターズに移籍後、1980年に現役引退しています。

太田幸司世代」の『非甲子園出場組』のプロ最多勝は、延岡商の柳田豊

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1969年のドラフトで、ロッテオリオンズに3位指名されるも入団を拒否し社会人野球に進んだ、甲子園出場経験のない愛媛県八幡浜の藤沢公也氏は、その後もヤクルト、近鉄日本ハムからの指名を拒否。

1977年、27歳の時に中日ドラゴンズにドラフト1位指名され、保留後の1978年に遂にプロの世界に入り、 1979年に13勝5敗で新人王に輝いています。

そんな藤沢公也氏は、八幡浜の高校時代、丸亀商の井原慎一郎氏と延長戦を投げ合い負け、春の選抜出場はならず。夏は全国制覇した松山商に地方大会で負け、甲子園出場経験はありませんでした。

また、1969年のドラフトで、東映フライヤーズに6位指名され入団した立教高の岡持和彦氏は、埼玉県大会準決勝で負け、甲子園経験のない無名の選手でしたが、東映→日拓→日本ハム一筋プロ通算19年。

現役引退後は、日本ハムファイターズでコーチも経験してますから、パリーグ日本ハムファンの方なら、ご存知でしょう!

甲子園出場経験がないといえばもう一人、夏の県大会決勝で、宮崎商の西井哲夫氏と投げ合い負けた宮崎県の延岡商の柳田豊氏も、1969年のドラフト8位で西鉄ライオンズに指名され入団。

柳田豊氏は、高卒1年目から3勝も挙げており、これは「太田幸司世代」の1年目投手では最高記録です。

更には1975年に近鉄バファローズに移籍後は、太田幸司氏とチームメートになり、結局プロ通算18年、柳田豊氏は「太田幸司世代」では、最高の110勝30S(140敗)を記録し引退してます。

そんな柳田豊氏でしたが、現役引退後はプロ野球界を離れ、飲食店を経営。その後、地元の宮崎県に戻り、漁師をやられてるそうです。

面白いのが読売ジャイアンツが、1969年のドラフト13位で指名した、高校も本人も全く無名だった兵庫県の市川高のキャッチャー、所憲佐氏。

所憲佐氏は、一軍出場がないまま現役引退したプロ生活も全くの無名選手でしたが、プロ引退後は、ブルペンキャッチャー、一軍サブマネージャーを務め、長嶋・藤田・王3監督のもと働いていました。

そして現在は、終身名誉監督付球団職員として、長嶋終身名誉監督のマネージャー役を務めてるそう。

結果的に所憲佐氏は、野球一筋人生なので、こういう野球人生もありだと思いますね〜。

太田幸司世代」で、『非甲子園出場組』だった後の読売ジャイアンツの河埜和正氏!

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1969年の読売ジャイアンツのドラフトでは、もう一人甲子園経験のない愛媛の八幡浜工の野手が、6位指名され入団してます。

後に広岡達朗氏、黒江透氏を上回る遊撃手出場回数を記録した、河埜和正氏です。

河埜和正氏は1986年に現役引退後はスカウト、コーチを歴任。読売巨人軍ジャイアンツベースボールアカデミー」の校長もやられてましたから、こちらも素晴らしい野球人生です。

で、実はこの1969年のドラフトは、河埜和正氏と違い読売ジャイアンツの指名を蹴って、大学進学した高校球児が5名もおりました。

その中の一人が、早大を経て4年後のドラフトでは、太平洋クラブライオンズに2位指名され入団した、小倉高の楠木徹捕手で、小倉高は1969年に春の選抜1回戦で、太田幸司氏の三沢に負けた学校。

楠木徹氏は太平洋・クラウン・西武とライオンズ一筋、通算7年、プロ野球選手をやりましたが、この方も引退後の経歴が素敵です。

西武と楽天でスカウト、編成部長を2012年までの長きに渡り続けた後、楠木徹氏はプロ野球を離れ、九州国際大学付の監督に就任。

九州国際大学付は、2015年の夏の大会では準々決勝まで勝ち進み、現日本ハムファイターズ清宮幸太郎氏の早実に負けましたが、その後も2023年夏現在まで春1回、夏3回、甲子園出場させています。

太田幸司世代」の、『甲子園出場組』だった三田学園山本功児



1969年のドラフト指名入団拒否組にもう一人、南海ホークスから3位指名を受けた、三田学園山本功児氏がいます。

三田学園は1969年の春の選抜の準々決勝で、堀越の但田祐介投手に抑えられ敗北しましたが、同年の優勝候補でした。

思えばこの年の南海ホークスのドラフト1位は日大の佐藤道郎投手で、2位がクラレ岡山の門田博光氏ですから、山本功児氏の高卒3位指名は、かなりの高い評価だったと言えます。

 

そんな山本功児氏は法大進学後、社会人を経て読売ジャイアンツにドラフト5位指名で入団。

人気球団の読売とロッテで通算13年現役で働き、その後はロッテで5年間監督をやっていたので、「太田幸司世代」では、太田幸司氏についで山本功児氏は、名前と顔を知られてる選手だと思われます。 

最後になりますが、「太田幸司世代」のその太田幸司氏は、現役時代の成績は58勝85敗4S。

甲子園のアイドル、当時は社会現象にもなった「太田殿下」のこの成績を、ご立派と見るか、物足りなかったと見るかは、人それぞれです。

が、意外と!「太田幸司世代」、超一流のスター選手になった方はおりませんでしたが、プロ野球ファンなら「その人あり」で知ってる方、とても多いと個人的には思っております。