1971年12月、日本プロレスはアントニオ猪木氏を会社乗っ取り疑惑で除名処分を下しますが、困ったのが今のテレビ朝日。
プロレス中継後発のテレビ朝日は先発の日本テレビと、ジャイアント馬場氏の試合は放映しない。テレビ朝日は、アントニオ猪木氏の試合がメインという取り決めをしていたからでした。
だからその猪木氏を除名されたのでは、テレビ朝日はプロレス中継の死活問題なので、日本プロレスに馬場氏の試合を放映できるよう強硬に要求し、結果、日本プロレスはこれを承諾。
1972年4月に馬場氏の試合をテレビ朝日が放映したので、日本テレビは激怒。スポンサーの三菱電機と協議した結果、プロレス中継を5月12日を最後に打ち切ってしまいました。
まぁ〜金曜夜8時の日本テレビは「三菱ダイヤモンド・アワー」という番組枠で、ウォルト・ディズニーが司会をつとめるバラエティー番組「ディズニーランド」と日本プロレスを隔週で放映。
これが1968年2月からは日本プロレス一本の放映になったほど、日本プロレスは人気番組だっただけに、日本テレビは相当!当時の日本プロレスの対応に、ブチ切れたのでしょう。
結局、急遽!日本プロレス中継を中止にしたので、後番組は予定がなかったのでしょう。プロレス名勝負を放送したりして時間を稼ぎ、そして7月21日から放映されたのが刑事ドラマの「太陽にほえろ!」。
結果的に人気の長寿番組になった「太陽にほえろ!」ですが、とっかかりは日本プロレスの内紛と、それに伴うテレビ朝日と日本テレビのテレビ局の争いでしたので、製作当初はドタバタだった事でしょう。
更に日本テレビの怒りは収まらず、秘密裏に馬場氏に接触し、日本テレビの全面バックアップで新団体設立を画策。7月29日に馬場氏は日本プロレスを退団。新団体設立を発表しました。
馬場氏の全日本プロレスは、10月より土曜日の夜8時から日本テレビで放映が開始され、有名外国人選手の招聘にも成功しましたが、馬場氏の他の日本人選手のネームバリュー不足は否めませんでした。
一方、日本プロレスを除名になった猪木氏も同年1月に早くも新日本プロレスを立ち上げますが、有名外国人選手を招聘できず、まだテレビ局も付かずの大苦戦。
で、馬場氏、猪木氏の人気レスラー二人を失ったうえ、日本テレビの放送も打ち切られた日本プロレスはピンチ。また、テレビ朝日も馬場氏も猪木氏も登場しないプロレス中継ではやっていけない。
年が明けた1973年、そういうわけで視聴率の取れないテレビ朝日の画策で、新日本プロレスと日本プロレスの合併計画が発表されますが、大木金太郎氏はじめとした日本プロレスがこれに大反対。
合併計画に奔走した日本プロレスの、馬場氏、猪木氏に次ぐ人気レスラーの坂口征二氏はこれにて日本プロレスを退団。新日本プロレスに移籍しました。
こうなると猪木氏と坂口氏の人気レスラー二人のいる新日本プロレスは魅力的ですから、遂に!テレビ朝日も日本プロレスを見限り、新日本プロレスと新たに契約を交わし、待望の猪木氏の試合の放映開始。
これにて馬場氏の全日本プロレスの日本テレビ、猪木氏の新日本プロレスのテレビ朝日と完全に分裂したわけですが、テレビ放映もなくなり人気レスラーは大木金太郎氏だけの日本プロレスは窮地になります。
馬場氏の全日本プロレスも日本人レスラーが手薄なので、国際プロレスからサンダー杉山氏を獲得し、国際と交流試合も行うようになり、全日本でも新日本でも国際のレスラーはとても良い仕事をしました。
そして、にっちもさっちも行かなくなり崩壊した日本プロレスの残党レスラーを全日本は吸収しますが、これは日本テレビの仲介で行われたもので、馬場氏はあまり乗り気ではなかったそう。
まぁ〜そんなこんなで、結果的には猪木氏の思惑通り団体を超えた日本マット界最強レスラーは誰か?という風潮がプロレスファンの間でも吹き荒れ、日本人レスラー同士の頂上対決が大人気になりました。
残念ながら『馬場VS猪木』戦は実現しませんでしたが、日本プロレス最後のエースの大木金太郎氏も国際プロレス最後のエースのラッシャー木村氏も、馬場氏とも猪木氏とも戦っております。
国際のエースだったストリング小林氏と猪木氏の対決は、本当に世紀の対決で、あの一戦があったから新日本プロレスはつぶれなかったとすら私的には思っています。
1971年から1974年は、正に!日本マット界は風雲急。戦国時代の様相でした。