淡口賢治氏と山本功児氏がいた三田学園は、1969年の選抜準々決勝で堀越に負けた

 


1969年夏の全国高校野球選手権大会は、かの!元祖甲子園アイドル=青森県三沢の太田幸司投手による、愛媛県松山商との伝説の延長18回決勝再試合が有名ですが、ちょいと同年の春の選抜ネタ。

近畿代表、兵庫県の2年ぶり2度目の選抜出場の三田学園には、共に後に読売ジャイアンツに入団する山本功児氏と一学年下の淡口賢治氏が在学していました。

三田学園は1回戦を神奈川県の鎌倉学園に3対2、2回戦では千葉県の銚子商を14対2でやぶり準々決勝進出。

この年の近畿代表は強く、6出場校のうち兵庫県から二校の三田学園と尼崎西、そして三重と浪商の4校が準々決勝に勝ち上がっています。

が、三田学園も優勝候補でしたが、三度目の関東対決になった東京の堀越に1対2で敗れ、勝った堀越は準優勝しました(優勝は三重)。

そんな強打の三田学園を抑えた但田祐介投手は同年、阪神タイガースにドラフト2位指名されプロ入りしましたが、残念ながらプロでは一軍登板ないまま1972年限りで引退しています。

冒頭に紹介した夏の元祖甲子園アイドル!太田幸司投手の三沢は、2回戦で大阪の浪商に2対4で敗れており、「コーチャン!」ブームは春には起きてなかったと記憶しております。

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で、夏の全国大会で国民的アイドルになった太田幸司氏は、当然!近鉄バファローズにドラフト1位指名入団の鳴物入り。三田学園スラッガー山本功児氏も南海ホークスに3位指名。

この年の南海ホークスの1位指名は日大の佐藤道郎氏、2位クラレ岡山の門田博光氏と、後に球団を背負って立つ二人の後の3位指名ですから、いかに高卒の山本功児氏が高く評価されていたかわかります。

しかし山本功児氏は入団を拒否し法政大学に進んだので、1学年下の淡口賢治氏(翌春の選抜もベスト8)よりプロ入りは遅れました。

翌1970年のドラフトで、読売ジャイアンツに3位指名され入団した淡口賢治氏は、川上哲治監督に高く評価されていた事もあり1年目から一軍登録(3試合出場ながら)。

そんな淡口賢治氏は年々出場試合数と成績を伸ばし、1975年には114試合出場、本塁打12本、42打点、打率.293と名前と顔の知られる選手になりました。高卒5年目なら大卒で2年目という事ですから順当に育成されてます。

一方、一学年先輩の山本功児氏は大学卒業時にはドラフトにかからず社会人野球に進んだので、この淡口賢治氏がその人ありになった1975年のドラフトで、読売ジャイアンツに5位指名を受けて入団しています。

ファーストには王貞治氏、レストには張本勲氏がいた読売ジャイアンツの厚いレギュラーの壁!

ちなみにこの年の読売ジャイアンツのドラフト1位は、銚子商業篠塚利夫氏で3位が駒澤大中畑清氏でした。

当然、何処の球団も高卒ルーキーと違い大卒、社会人出身は1年目から即戦力として期待され指名されてますが、高卒の篠塚利夫氏は1軍試合出場はありませんでしたが、大卒の中畑清氏も一軍試合出場はありません。

1975年の読売ジャイアンツは、前年V10を逸した川上哲治監督が勇退。引退した長嶋茂雄氏がそのまま次期監督になった1年目でしたが、何と!球団史上初の最下位に転落した年。

1976年はこの屈辱を晴らすため、読売ジャイアンツは新人や若手を使う余裕などなく、日本ハムから張本勲氏をトレードで獲得し逆襲を目論んだ年でした。

そんな読売ジャイアンツで、淡口賢治氏は1976年も108試合に出場。10本塁打、打率.298。

レフト・張本勲氏、センター・柴田勲氏とレギュラー定着の外野の一角の残りのライトのポジションを、末次利光氏、柳田俊郎氏と争い、最下位からリーグ優勝に貢献しています。

一方、山本功児氏はファーストには不動の王貞治氏がおりますし、外野もこの過激なポジション争いの中、1年目から67試合に出場しており本塁打も1本放っており打率.273と大健闘。

入団一年目は高卒の篠塚利夫氏より大卒の中畑清氏より、社会人出身の山本功児氏は活躍し、長嶋ジャイアンツ初優勝に貢献しています。

ところが!1977年になると、プロ入り11年目の柳田俊郎氏が114試合出場、打点67、18本塁打、打率.340を記録し『史上最強の5番』と呼ばれるようになる大ブレイク!

 

柳田俊郎氏はライトのレギュラーを獲得し、淡口賢治氏は山本功児氏と共に外野の控え、代打の切り札になりレギュラーは遠ざかってしまいました。


柳田俊郎氏は1979年まで不動の5番でしたが、同年の読売ジャイアンツは2年連続でV逸。5位低迷という事で新旧交代を図ったのでしょう。ベテランの張本勲氏と共にトレード。

 

1980年には淡口賢治氏が外野の一角のレギュラーを獲得し、1985年まで読売ジャイアンツで活躍した後に、近鉄バファローズに移籍しています。

淡口賢治氏は1989年に引退しましたが、プロ通算1639試合に出場。118本塁打、474打点、打率.275という成績を残しました。 

一方、1980年に王貞治氏が引退しましたが、遅ればせながらプロ入り3年目にして三塁のレギュラーを獲得した中畑清氏が、東海大のゴールデンルーキー原辰徳氏の入団もあり一塁にコンバートされたので、残念ながらファーストが本職の山本功児氏は一塁のレギュラーは奪えませんでした。

 

3年連続V逸の1980年の中畑清氏の成績は、124試合出場、本塁打22本、57打点、打率.268。山本功児氏は106試合出場、1本塁打、20打点、打率.234。

 

当時のお二人の数字を比べると、この監督1年目の藤田元治氏の選択は正しかったでしょう。見事に1981年リーグ優勝を果たし、日本シリーズでも日本ハムファイターズをやぶり、8年ぶりに日本一に輝いでいます。

 

『捕手=山倉、一塁=中畑、二塁=篠塚、三塁=原、遊撃=河埜、外野=松本、淡口、外人』とレギュラーが固まった読売ジャイアンツの中で、山本功児氏は代打の切り札、外野の控えで1983年まで活躍後、ロッテオリオンズにトレード。

 

トレード後の山本功児氏は開幕から一塁手、3番で登場(4番=落合、5番=リー)。125試合に出場し、初めて規定打数に達し打率.301、本塁打10本、打点66とチーム2位に貢献しています。

 

1988年に引退した山本功児氏は、プロ通算1217試合に出場。64本塁打、369打点、打率.277。

山本功児氏は引退後も移籍先のロッテに残り1989年から1998年までコーチ、二軍監督等を経験後、1999年から2003年までの5年間、ロッテの監督をやりましたが、一度もAクラスには浮上できず辞任しております。

その後は読売ジャイアンツに戻り、2004年二軍ヘッド兼打撃コーチ、2005年からは一軍ヘッド兼打撃コーチに就任しましたが退団。野球一筋人生を終えています(2016年、肝臓癌のため64歳没)。

 

一方の淡口賢治氏は引退した翌1990年には読売ジャイアンツに戻り、2005年までコーチ、二軍監督を務め、その後は日本ハムファイターズヤクルトスワローズでコーチを2012年まで務める、これらも正に!野球一筋の素敵な人生を送られました。