1963年 サーフシティ、サーファーガールで天才!ブライン・ウィルソン(ザ・ビーチボーイズ)が大ブレイクした





ザ・ビーチ・ボーイズの有名な「サーファー・ガール」。

 

1963年の発表のこの曲は、キャピタル発売のシングル盤としては4作目になります(ほぼインディーズ系デビュー曲の「サーフィン」を入れると5作目)。

過去3曲のうち「Ten Little Indians」はカヴァー曲ですので別にして、今でも有名な2曲「サーフィン・サファリ」「サーフィンUSA」は、マイク・ラブが主旋律を歌っています。

 

で、前作の「サーフィンUSA」が、初めて全米ビルボードトップ10入りを果たした(最高位3位)ザ・ビーチ・ボーイズにとって、次の作品はとても重要です。


そこで、マイク・ラブではなく、ブライアン・ウィルソンが主旋律を歌い、そして彼の作詞作曲の「サーファー・ガール」が、選ばれたわけです。

 

思えばメンバーはともかく、キャピタルのお偉方も若きブライアンの天才を、この頃確信していたのでしょうから、それはそれはオーラが出るほどその才能は輝いていたのでしょう。

 


ちなみにこちらも古のサーフロックの名曲、ジャン&ディーンの「サーフ・シティ」も作曲はブライアン・ウィルソンで(作詞はジャン・ベリー)、1963年7月に2週連続全米ビルボードチャート1位を獲得。

 

「サーファーガール」も、「サーフィンUSA」の3位には及ばなかったですが最高位7位の連続トップ10入りさせ、ザ・ビーチ・ボーイズはこれにてその地位を確固たるものにしています。

なので、天才!ブライアン・ウィルソンが、その才能を爆発させたのは、この1963年だったと言えるでしょう。

ちなみに、同時期にイギリスで大ブレイクしていたザ・ビートルズは、アメリカではまだ何も起きてません。

で、シングルカットされた「サーファー・ガール」収録の3枚目の同名アルバムより、ブライアン・ウィルソンがプロデュースも担当するようになったわけですが、この時まだ彼は21才になったばかり。

既に「サーフィン・サファリ」「サーフィンUSA」の2枚のアルバム、同名のシングルをヒットさせていたとは言え、商業主義のレコード会社も思い切った選択をしたものだと感心します。





そんな若き天才!ブライアン・ウィルソンはアルバム「サーファー・ガール」から、積極的に外部のミュージシャンを起用するサウンド作りを開始。

実質的に、オリジナルメンバーによるザ・ビーチ・ボーイズサウンドを聴きたいのなら、アルバム「サーフィン・サファリ」「サーフィンUSA」の2枚です。

「サーファー・ガール」以降、ザ・ビーチ・ボーイズのレコーディングメンバーは不明な部分が多く、有名なアメリカのスタジオミュージシャン集団のレッキング・クルーも登場してきます。

まぁ〜アメリカでもイギリスのザ・ビートルズ旋風が巻き起こるのは、「サーファー・ガール」の翌1964年からで、自分たちで曲を作り演奏し歌いハモり、印税も稼ぐ。それこそが今最もカッコいい。



ミュージシャンや当時の若者達に、そんな価値観がうえつくのはザ・ビートルズの影響で、イギリスでもザ・ビートルズ以外は、まだまだスタジオミュージシャンを使ってレコーディングしていた時代です。

そのザ・ビートルズアメリカで大旋風を巻き越す1年前に、ブライアン・ウィルソンがバンドメンバー以外の巣tジャイオミュージシャンを起用しようとしたのは、何もおかしな発想ではなかった。

むしろ、それこそが当時の音楽業界の定石であり、特にレッキング・クルーの参加したレコードは売れており、商業主義のレコード会社のお偉方も、そのやり方に反対する理由などあるわけがない。

勿論、ザ・ビーチ・ボーイズの他のメンバーも、それが音楽業界の当たり前のスタイルだったので、案外わりと素直にそれに従っており、ありがちな音楽家としての性による軋轢はなかったと言えます。

そんなバンドの分岐点になったのが、サードアルバムの「サーファー・ガール」でした。

 

最後になりますが、1963年当時の日本ではザ・ビーチ・ボーイズザ・ビートルズも、まだ影も形もありません。

 

坂本九氏の「SUKIYAKI」(上を向いて歩こう)が、ザ・ビーチ・ボーイズザ・ビートルズよりも早く全米ビルボード1位を獲得。翌年の東京五輪開催に向け、いけいけどんどんで都内はいきなり変貌していました。