A猪木氏がG馬場氏に挑戦を表明した日!


 



1969年5月、第11回ワールドリーグ戦は熾烈を極め、リーグ戦が終わってジャイアント馬場氏、アントニオ猪木氏、ボボ・ブラジル、クリス・マルコフの4人が6勝1敗1分で並んでいました。

抽選の結果、対戦は『馬場VSブラジル』、『猪木VSマルコフ』になり、本命の馬場氏はブラジルと引き分け、猪木氏がマルコフをやぶったことで猪木氏が初優勝を決めています。

この試合が『アントニオスペシャル』=卍固めが有名になった試合で、猪木氏のあの!闘争心あふれる強烈なパフォーマンスは、テレビの前のプロレスファンに大いにアピールされました。


が、しかし!遡れば猪木氏がワールドリーグ戦に初めて出場したのは第4回でしたが、戦績は7戦全敗。翌年の第5回も猪木氏は出場しますが、再び5戦全敗。

当時の日本プロレスにとって猪木氏は、その程度の扱いのレスラーだったわけです。

一方、アメリカ武者修行を終え、あちらで人気者になって凱旋帰国の馬場氏は、猪木氏より1年遅れの第5回が初出場でしたが、戦績は4勝2敗1分と最初から好成績でした。

同期なれど年上で元プロ野球選手という話題性のあった馬場氏より、遅ればせながら無名の猪木氏も1964年にアメリカに武者修行に出たので、ワールドリーグ戦出場は途絶えます。

猪木氏がアメリカ遠征中の第6~7回は豊登が優勝しますが、馬場氏は第6回も5勝1敗1分、第7回も5勝1敗1分の好成績で、日本プロレスの次のエースとして、馬場氏は日本でも人気者になっていきました。

さてここで2年のアメリカ武者修行を終えた猪木氏は、豊登と共に日本プロレスを辞め東京プロレスを立ち上げました。日本プロレスの方針が「これからのエースは馬場」と固まっていたからでしょう。



ところが!晩年にそれが発覚しますが、ギャンブル好きで金銭感覚の狂ってる、そして経営センスも0の豊登の思いつきの東京プロレスは、僅か3ヶ月で破産。

 

猪木氏は豊登と決別し、日本プロレスから独立した国際プロレスと業務提携(東京プロレスを名乗るも豊登は関与してない)するも、その後は豊登側と訴訟合戦になり国際プロレスに提携を打ち切られます。

結局、東京プロレスは大失敗に終わり、猪木氏は日本プロレスに復帰し(豊登に唆された被害者との温情もあったのでしょう)、豊登国際プロレスに合流します。

 

そんなこんなの一悶着があったので、猪木氏のワールドリーグ復帰は、馬場氏が3連覇を成し遂げた1968年、第10回から。

 

アメリカ武者修行前は2年連続全敗だった猪木氏が、帰国後は東京プロレスでエース級の活躍をしていたので、ここで優勝した馬場氏に僅差のNo.2の位置まで、一気に上り詰めてます。

また、猪木氏は馬場氏と組んだインターナショナル・タッグチャンピオンにもなり、当時の猪木氏のスタイルは当時としては、ドロップキック含めとてもスピーディーでテクニシャン!

吉村道明氏もテクニシャンでしたが、年齢的にスピードが猪木氏より劣っており、何より猪木氏のあの!パフォーマンスは、当時としては他に例を見ない『魅せるスタイル』だったので、観客は魅了されます。


そして前出の通り1969年のワールドリーグ戦では見事に初優勝。猪木氏は日本プロレスの思惑通り、日本プロレスNo.2としてエースの馬場氏と共に大人気になりました。

1969年、現在のテレビ朝日日本テレビに次いで日本プロレスをテレビ中継することが決まった時、日本プロレス日本テレビの契約の関係上、馬場氏の試合はテレビ朝日では放映できません。

そこでテレビ朝日は、猪木氏の試合をメインで放映する権利を取得。これにてテレビの上では完全に日本テレビの馬場氏、テレビ朝日の猪木氏と日本プロレスの二枚看板になる程、猪木氏は短期間で大出世!

そんな猪木氏は、馬場氏とのインターナショナル・タッグ王者だけの看板ではなく(元々は馬場氏と吉村道明氏のコンビで奪取したベルト)、ピンで1971年にUNヘビー級王者を獲得。

 

猪木氏の人気は馬場氏に迫る、見方によっては追い越す勢いだったのは確かです。

ところが!猪木氏は馬場氏に次ぐNo.2は嫌と東京プロレスに行ったわけですから、この地位に安住するわけもなかったことに、日本プロレスは気づいてなかったんですね〜。


で、猪木氏初優勝の翌1970年の第12回ワールドリーグ戦は、馬場氏はもう限界なのか?猪木氏の2連覇で日本プロレスの歴史は変わるのか?ってなリーグ戦だったと記憶しております。

結果的に馬場氏はクリス・マルコフとドン・レオ・ジョナサンと引き分けの6勝2分で、猪木氏はドン・レオ・ジョナサンには勝ちますが、今度はクリス・マルコフに敗れ6勝1敗1分。

優勝決定戦は猪木氏に負けたドン・レオ・ジョナサンと馬場氏の対戦になり、馬場氏が2年ぶり4回目の優勝を決めており、日本プロレスの歴史が変わることはありませんでした。

そして!問題の、翌1971年のワールドリーグ戦!

この年のワールドリーグ戦は2年前の再現で、リーグ戦を終えた時点で馬場氏、猪木氏、そしてザ・デストロイヤーアブドラ・ザ・ブッチャー4人が、同じ戦績で優勝決定戦に出場しました。


が、しかし、このリーグ戦には疑惑の一戦があり、その4人の優勝戦の前々日、キラー・カール・コックスが猪木氏との試合に一度は勝利したものの、猪木氏のクレームをレフリーのユセフ・トルコが承認。

コックスの勝利は無効になっており、順当に(?)猪木氏が負け、コックスが勝っていれば、優勝決定戦は『馬場VSコックス』でした。

ちなみにユセフ・トルコは、この後の猪木氏の新日本プロレスの立ち上げに関わっており(すぐに揉め去りますが)、この『猪木VSコックス』戦はどうにも怪しい。

結果、抽選によりデストロイヤーと対戦した猪木氏は引き分けで優勝できませんでしたが、この試合は、両者思わくありのセメントだったと私的には思っております。

猪木氏はデストロイヤーに勝って、ブッチャーに勝つであろう馬場氏と優勝決定戦をやる気だと、デストロイヤーは疑惑のコックス戦で感じたんじゃないでしょうかね〜?

でも、デストロイヤーが勝って馬場氏との優勝決定戦に出たら、外人レスラーとして二度目の優勝決定戦出場になりますから、これは当時の日本プロレスではタブー。

外人レスラーの優勝決定戦出場は一度だけという暗黙の了解があったので、デストロイヤーは勝つわけにもいかない。だから引き分けに持ち込んだのではないか?と、今も勝手に私は思ってます。


日本のマット界では日本人レスラーの引き立て役ですが、彼ら外人レスラーは欧米で相当な!修行を積んだ圧倒的な実力を持つ百戦錬磨ですから、勝てないまでも負けない試合ぐらい簡単にできるでしょう。

試合は17分過ぎ、デストロイヤーが必殺!四の字固めを決めますが、結果はそのまま二人はもつれてリング下に落ち、両者リングアウトの引き分け。

あのまま四の字固めを決め続け、猪木氏にギブアップさせることがデストロイヤーは出来たのに、わざと引き分け狙いに行ったのではないか?と、私的には今も思っています。

デストロイヤーは日本プロレス分裂後、馬場氏の全日本プロレスについて馬場氏を盛り立てていたのは、昭和プロレスファンなら誰もが知ってる事ですし、かなりのインテリだったとも伝わっています。


結果は、当時はまだそれほど日本で人気者ではなかったブッチャーのエルボードロップ自爆後、3カウントで勝った馬場氏は、2年連続5回目の優勝を決めました(勝利者インタビューは徳光和夫氏)。

そして、その試合の大阪府立体育館の控え室で事件が起きます。なんと!猪木氏が馬場氏への挑戦を表明したから、そりゃーもうマスメディアは大騒ぎ。時は1971年5月19日。

当時、日本プロレスの対戦は前座はともかく、日本VS外人のカードが普通で、日本人同士の対戦は、これもタブーでしたから本当に大事件でした。

結局、猪木氏と馬場氏の対戦は実現する事なく、同年末に猪木氏は日本プロレス乗っ取り疑惑で除名。

日本プロレス関係者にしてみたら、一度は豊登とともに謀反を起こした猪木氏を温情で復帰させ、しかもNo.2として扱い成功させてやってるのに、なんたる傲慢無礼な奴だってところだったのでしょう。

というわけで、力道山なき後『豊登時代』を経由した、日本プロレス『馬場・猪木』黄金時代は、僅か5年で終わってしまいました。