KKコンビ、PL学園が負けた3校のエースのその後の人生、、、

岩倉:山口重幸投手

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1984年の春の選抜野球大会は、昨夏優勝の1年坊主がエースと4番だった、桑田真澄氏・清原博和氏のKKコンビのPL学園夏春連覇なるか?が話題でした。

予想通りKKコンビ2年生になるPL学園は決勝まで勝ち進み、対戦相手は東京の初出場校で無名の岩倉。

全国の高校野球ファンの99%は、PL学園の勝利を予想したと思いますが、それまで全試合で1試合も完封勝ちのない岩倉の山口重幸投手に、なんと!強打のPL学園、1安打の完封負けを屈し夏春連覇ならず。

この岩倉の山口重幸投手、夏は東京都大会で敗れ春夏連続出場ならずでしたが、同年のドラフトで阪神タイガースに6位指名されプロ入り。

プロ入り後は野手に転向しましたが、阪神タイガースヤクルトスワローズで30歳まで現役選手を続けるも、大きな活躍はできませんでした(通算283試合、41安打1本塁打15打点、打率.202)。

現役引退の1996年の翌年、野村克也監督の要望で、プロでは投手経験がないのに打撃投手に転身し、このへんが球界でも選手の引退後の去就に優しいヤクルトらしく、2018年よりスコアラーになってます。

山口重幸氏はプロ野球選手としては大活躍できなかったとはいえ、30歳までほぼ1軍選手として現役でやれ、打撃投手・スコアラーとして野球一筋人生を送れているのは、幸せな人生だと思います。

取手二:石田文樹投手
 
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1984年、夏の全国高校野球大阪大会も制し、翌1985年春の選抜でも準優勝のPL学園、KKコンビ3季目も大阪大会を制し甲子園出場。勿論!ダントツの優勝候補はPL学園

圧勝でベスト8まで勝ち進んだPL学園でしたが、準々決勝の松山商戦は2対1の接戦の勝利、準決勝の金足農も3対2と、もしかしてたら負けていたかもしれない戦いぶりで何とかPL学園は決勝進出。

決勝の相手は春の選抜ベスト8校とはいえ、伏兵だった茨城県代表の取手二

後の常総学院の名将!木内監督が全国的に初めて名を売ったのは、こちらの取手二でKKコンビのPL学園に8対4で打ち勝って優勝した時でした。

取手二のエース石田文樹投手は、早稲田大学にスポーツ推薦で入学しましたが中退。

そのまま日本石油に入社し社会人野球で活躍し、1学年下なれど高卒プロ入りのKKコンビに遅れること3年、1988年のドラフト5位で横浜大洋ホエールズに入団しましたが、プロ通算1勝で終わりました。

1994年現役引退後は、岩倉の山口重幸氏と同じように横浜に残り打撃投手をやっていましたが、直腸癌で2008年、41歳で他界しています。

伊野商:渡辺智男投手

 

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そして甲子園、優勝→準優勝→準優勝のPL学園、3年生になるKKコンビ4季連続甲子園出場の1985年春の選抜大会。

 

勿論、PL学園は今回もダントツの優勝候補で、評判通りの圧勝でベスト4進出。

 

準決勝は東京の帝京と徳島の池田、大阪のPL学園と高知の初出場の伊野商の対戦で、こちらも全国の高校野球ファンの99%は、帝京と池田の勝者とPL学園の決勝戦を予想していたでしょう。

ところが!

PL学園は伊野商に1対3で負けてしまい、KKコンビ4度目の甲子園出場にして、初の決勝進出ならずで、伊野商は決勝でも帝京をやぶり見事!初出場初優勝!

前年の岩倉がそうであったように、伊野商も夏は県大会で負けてしまい夏の甲子園出場はならず、エースの渡辺智男投手はドラフト指名される事なく卒業後、NTT四国に就職しました。

渡辺智男投手は、社会人野球でも大活躍後(ソウル五輪銀メダリスト)、石田文樹氏と同じ1988年のドラフトで、こちらは西武ライオンズに堂々の1位指名されました。

プロ入団から3年連続二桁勝利をあげた渡辺智男氏でしたが、その後は故障などもあり勝ち星は伸びず、西武、ダイエーホークスで現役通算45勝40敗2Sで引退。

その後は西武でスカウトに就任し、2022年現在の肩書は『育成アマチュア担当チーフ補佐』。渡辺智男氏も山口重幸氏と同じく、野球一筋人生を送れており、幸せな人生とお見受けしております。
 
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最後になりますが、甲子園5季連続出場・優勝2回、準優勝2回・甲子園通算20勝の前人未到の記録を持つPL学園桑田真澄氏は、私の記憶では投手として、それほど高い評価は受けてなかったように思います。

勿論、有名な話ですが桑田真澄氏は早稲田大学進学の意思が強かったので、他球団がドラフト指名を見送ったところを、読売ジャイアンツが1位指名しています。

が、例えば作新学院時代の江川卓氏は、大学進学を表明していても、どこの球団も1位指名する気満々でした。

KKコンビのもう一人、清原和博氏の評価は江川卓氏ばりの「10年に一人、20年に一人の逸材」と評価されていましたが、桑田真澄氏がそれほど投手として評価を受けていなかったと、私は記憶しております。

理由は勝ち投手になっても桑田真澄投手、特に2年夏の大会と3年の春夏と、けっこう点をとられており、2年夏の準優勝では完封試合は0、3年の春夏は各々完封試合は1試合づつ。

 

また、バッタバッタと奪三振で打者をなぎ倒す派手なピッチングでもなく、二桁奪三振は2年春の選抜決勝で負けた岩倉相手の14奪三振と、2年夏の享栄との初戦11奪三振の2回だけ。

3年夏の、2度目の優勝時は二桁奪三振はO。

なんとなーく、超高校級投手の快投によるPL学園の強さではなく、強打線で打ち勝ったイメージが(勿論、その一翼を打者・桑田真澄氏も担ってましたが)強かったような当時は感じでした。

まぁ〜プロ入り後は、それが桑田真澄投手の持ち味になり誰もがご承知の通りで、実は高校生の頃から桑田真澄投手は、勝つための考える投球の出来る少年だったんですね〜。

例えば1球で打ち取る投球、三振ではなくゲッツーをとりに行く投球、点差がついてた時は抜く投球のできる、高校生の時から投手だったわけで、これを見抜いていたのが読売ジャイアンツ王貞治氏。

王貞治氏は自らの早実時代、甲子園5季連続出場を最後の3年夏の東京都大会決勝戦で、逆転で負けてなし得なかった経験者なので、桑田真澄氏に何か感じていたのでしょう。

甲子園5季連続出場し、しかも二度の優勝と二度の準優勝ができる投手は、並大抵ではないし、持って生まれた何かがあると思った王貞治氏の眼力が、そんな桑田真澄氏を1位指名した動機だったと思えます。

ちなみにP L学園のKKコンビ、桑田真澄氏のNPB通算は173勝141敗14S。奪三振1980、防御率3.55。清原和博氏は通算2122安打、525本塁打、1530打点、打率.272。