1976年のアントニオ猪木VSモハメド・アリ戦前の二人の事情



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日本のプロレスラー=アントニオ猪木氏と、アメリカのプロボクサー=モハメド・アリ異種格闘技戦は、1976年6月26日(土)に日本武道館で行われました。

アントニオ猪木氏33歳、モハメド・アリ34歳。まぁ〜アスリートとしては、ピークから下降の年齢でしょうか。

人気絶頂だった猪木氏は、諸々あって1971年末に日本プロレスを除名・追放処分を受け、1972年年明けに新日本プロレスを立ち上げ、今のテレビ朝日日本プロレスと決別し、新日本プロレス側につきます。

が、しかし、有名外人レスラーの招聘契約をしっかり握ってる日本プロレス、すぐに全日本プロレスから圧力がかかり、新日本プロレスは有名外人レスラーを呼べませんでした。


ただ、国際プロレス系のカール・ゴッチ(元は日本プロレス)、人気者のビル・ロビンソン。更には日本プロレス崩壊後、こちらも人気の高かったジョニー・バレンタインが新日本プロレスに登場。

なので、団体としてのそんな苦境はファンは微塵も感じなかったですね〜。

また、当時、前座は別にしてタブーだった日本人レスラー同士の対戦を、猪木氏・新日本プロレスは組んだので(実際は前出の理由で苦肉の策だったのでしょう)、これが逆に斬新!

特に国際プロレスのエース!ストロング小林氏との対戦(1974年3月)、日本プロレス時代の仲間、坂口征二氏(1974年4月)や大木金太郎氏(1975年3月)との対戦は、それはそれは大盛り上がりでした。

チャンピオンが乱立している日本マット界で、日本人レスラーで本当は誰が一番強いんだ?とプロレスファンは普通に思っていたので、団体としてそういう事情があってとしても当時は画期的な対戦でした!

というわけで、猪木氏がアリ戦に始まる異種格闘技というのも、有名外国人レスラーが呼べないある種の苦肉の策だったわけですが、こちらは世界の!モハメド・アリですから話題性は十二分!

まぁ〜結局、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン。ハルク・ホーガンなど新日本は自前で有名レスラーを創作し人気者にしましたが、この採算度外視の異種格闘技戦も当時は話題沸騰でした。



ちなみにジャイアント馬場氏も日本プロレスを辞め、こちらは日本テレビが担いだ全日本プロレスを立ち上げますが、そうは言っても運営は楽だったわけではありません。

馬場氏と猪木氏に及ばないまでも、人気者の坂口征二氏が新日本プロレスに行ってしまい、国際プロレスのエース!ストロング小林氏もしかり。

全日本プロレスも馬場氏と並ぶ人気レスラーを獲得しなければならず、将来のスターレスラーも育成しなければならず、白羽の矢が立ったのがミュンヘンオリンピックレスリング代表の、後のジャンボ鶴田氏。

1972年9月に国際プロレスの人気レスラー、サンダー杉山氏を獲得した全日本プロレスは、10月には鶴田氏の全日本プロレス入りを表明、将来のエースとして育成に入っています。

更に、東京オリンピックの柔道無差別級金メダリスト、オランダのアントン・ヘーシンクをスカウト。翌1973年3月には外人人気レスラーのザ・デストロイヤーが、助っ人として参加。

というわけで、新日本プロレスと違い有名外人レスラーの招聘は、日本プロレスから引き継いで圧倒的な力のあった全日本プロレスでしたが、企業努力は新日本プロレス同様、もの凄くしていました。


一方、映画「ロッキー」のモデルになったモハメド・アリジョージ・フォアマンジョー・フレージャー、そしてチャック・ウェップナーの熱戦は1971~1975年で、猪木氏のこの時期とリンクしてます。

まず1971年に26戦無敗のジョー・フレージャーと31戦無敗のモハメド・アリが、無敗同士で対戦しましたが、判定でモハメド・アリは初めて負けています。

そして無敗の世界最強ボクサー!フレージャーは1973年4度目の防衛戦を、こちらも37戦無敗のジョージ・フォアマンと行いましたが、なんと!2RでフレージャーはKO負けの大波乱。

アリに勝ったフレージャーを、2Rで6回もダウンさせた(レフリーストップのKO)フォアマンの最強パンチに、世界のボクシングファンは震撼!度肝を抜かされました。

そのフレージャーに負けたアリもその後は10連勝しますが、その後再びケン・ノートンに判定負けし、これでアリは生涯2敗目。


一方、新チャンピオンになったフォアマンは初防衛戦のホセ・ローマンも1RKO。そして2度目の防衛戦はアリに判定で勝ったノートンを2RKOと、向かう所敵なしの圧倒的な強さを世界に見せつけました。

アリが判定で負けたフレージャーとノートンを、共に2RKOしたフォアマンに、そのアリが挑戦するなど年齢的にもあり得ない。暫くチャンピオンは無敵のフォアマンの時代が続くと思われたものです。

ところがアリはノートンとのリターンマッチを判定で勝利し、ルディ・ルパーズとの判定勝ちを挟み、フレージャーとのリターンマッチも判定で勝利。そして、なんと!フォアマンとの対戦が決定します。

アリとフォアマンは7歳違いで、既に全盛期を過ぎたと思われていたアリに対し、アリの側近からも殺されるからやめろと言われたとか言われないとかの、誰がみても相当!無謀な挑戦でした。

当然、フォアマンも自分がアリに負けるなど夢にも思っていなかったでしょう。自分が共に2RでKOしたフレージャーとノートンにアリは負けていますし、リターンマッチで共に勝ったとはいえ判定勝ち。

ここまで40戦無敗37KOのフォアマンは、24連続KO勝ち。直近8試合は全て2RまでにKO勝ちの怪物ぶりでしたから、アリ戦も最初からフォアマンは猛攻、パンチの連打を繰り出しました。


アリは蝶のように舞いパンチをかわし、追い詰められるとロープを背にガードを固めフォアマンに決定打を打たせませんが、それでも防戦一方のアリの劣勢は否めませんでした。

が、今や「キンシャサの奇跡」と伝説ですが、この直近8試合は全て2RまでのKO勝ちだったフォアマンにとって7Rまでにアリを倒せなかったのは大誤算で、パンチを打ち過ぎ体力も消耗。

8Rになり疲れの見えたフォマンに、ロープを背にしていたアリは1チャンスで体を入れ替えパンチ連打。最後は右のストレートが強烈にヒットし、なんとフォアマンはダウン!

そして、そのままフォアマンは立てずにアリは大方の予想を裏切る逆転KO勝ち。このアリの王者復活は、本当に世界中のボクシングファンの度肝を抜きました。

まぁ〜そんなこんなで、映画「ロッキー」のモデルになった試合、全くの無名ボクサーのチャック・ウェプナーとの一戦は、激戦続きだったアリの映画の通りの小休止的な一戦でした。

ところがフォアマンにKOで勝ったアリでしたが、無名のウェプナーに苦戦。ダウンまで奪われるも15RでやっとKO勝ち。「ロッキー」は判定でしたが、正にあの映画はこの試合がモデル!

1975年3月で、アリは翌年の猪木氏との「世紀の一戦」までウェプナー戦含め7連勝中でした。

モハメド・アリという世界的有名人と、猪木氏は対戦することになったのですから、これは一般のニュースでも取り上げられたので、猪木氏と新日本プロレスの名前を売る事は大成功だったと言えます。

この『世紀の対決』は昼間にも関わらず視聴率40%近くまでまで行ったので、もし当時『馬場VS猪木』戦がセメントで実現してたら(無理だったしょうが)、軽く視聴率50%は超えていたでしょう。


で、異種格闘技戦は実はボクシングのアリ戦が最初ではなく、同年2月に柔道ミュンヘンオリンピック無差別級金メダリスト、オランダのウィリアム・ルスカ戦が最初で、これがなかなかの名勝負!

試合は猪木氏がTKOでルスカに勝ったので、今度はボクシングのアリと猪木氏はどんな試合をするか?それはそれはプロレスファンたちは、期待に胸を膨らませたものでした。

結果的にアリとの一戦は『世紀の凡戦』と叩かれましたが、猪木氏にとっても新日本プロレスにとっても、その異種格闘技戦につながる一戦だったので興行的には大成功だったと言って良いでしょう。

最後になりますが、前出のチャック・ウェップナーとも猪木氏は1977年10月に対戦しており、こちらは6R逆エビ固めで猪木氏が勝っています。