清原和博投手が9回に登板。PL学園 29-7 東海大山形の1985年夏

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桑田真澄クン、清原和博クン』のKKコンビ5季連続甲子園出場最後の夏の大会。

2年前の1983年の夏に、1年生だったKKコンビは、絶対的優勝候補だった池田を準決勝で破り、そのまま甲子園優勝の快挙を成し遂げました。

が、2年春の選抜は決勝まで進むも、東京代表初出場の岩倉の、後に阪神タイガースに入る『山口重幸クン』が打てず、よもやの1-0の完封負けを屈っし準優勝。

2年夏の大会も、優勝候補の名に恥じぬ圧倒的な強さで三たび!決勝進出するも、茨城県取手二に延長で屈っし春に続いて準優勝。

まあ、3季連続甲子園大会の決勝まですすめただけでも快挙なわけですが、当時のKKコンビに対するマスメディア、一般の高校野球ファンの評価は尋常ではなかたったので、、、

何故?優勝できなかったか?KKコンビなら優勝して当たり前みたいな空気があったのは、当時を知る人ならわかる、それが『あの頃のKKコンビ、PL学園に対する空気』だったわけであります。

32安打、毎回の29点とったPL学園

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更に!いよいよKKコンビ3年春の選抜。

4度目の甲子園出場は、圧倒的な強さでPL学園は勝ち進むも、準決勝で初出場高知の伊野商の好投手、後に西武ライオンズ福岡ダイエーホークスで活躍した『渡辺智男クン』が打てず敗退。

伊野商は決勝で帝京を破り優勝しましたが、KKコンビ4度目の甲子園にして初めて!決勝進出ならず。

そして迎えたKKコンビ3年最後の夏の甲子園。当然!PL学園は圧倒的なダントツの優勝候補筆頭。

抽選の結果、KKコンビのPL学園初登場は2回戦の東海大山形からで、この試合、地方大会だったら5回コールドでしょう。

5回を終って PL学園 20-1 東海大山形、の一方的な試合で、猛打のPL学園が打って打って打ちまくった試合。

これだけ点差が開けばPL学園はエース『桑田真澄クン』を6回で途中降板させ、外野守備にまわし次の試合に備え肩を休ませ、そして二番手ピッチャーも好投したので8回を終って29対2。

ここでPL学園は3人目のピッチャーを登板させますが、そこは東海大山形も地区予選を勝ち上がってきたチーム、3番手ピッチャーは打ち込まれ3点をとられなおも1アウト満塁。

おそらく日本中の高校野球ファン(いくら何でもPLの監督、3番手投手まで出すなんて、なめすぎじゃねえか?相手チームに失礼だろ)と思ったんじゃないでしょうか?、、、

私はそう思い、ちょっと憤慨しましたから。

PL学園 清原和博投手は、甲子園で打者9人に対しノーヒット!

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で、4番手で登場してきたのがファーストを守っていた『清原博和クン』。

元々、『清原クン』はPL学園に入学した時はピッチャーで中学時代は随分ならした選手だったそうで、春の選抜の浜松商戦でも、同じく終盤8回1アウト満塁で登板していました。

 

9回まで打者5人をノーヒットで打ち取った春の選抜の実績があるとはいえ、ピッチング練習をしてない清原投手、三振で1アウトをとった後、連続四球の押し出しで2点を奪われ、PL学園9回だけで5失点。

大量リードがあるとはいえ、「相手チームなめすぎたよ」とこれはちょっと嘲笑され、顰蹙をかいましたね。

でも清原投手、最後のバッターをファーストフライに打ち取り、押し出しでホームインした二人も前のピッチャーが残したランナーだったので自責点は0。

春の選抜含め、清原投手は甲子園で打者9人に対しノーヒット。奪三振3、与四死球2、防御率0,00という記録も残しております。

結局 試合は29-7の大差でPL学園の圧勝でした。

しかし、決勝戦ではまた宇部商相手に苦しい戦いになり、9回裏にサヨナラ勝ち。

KKコンビ、PL学園は勝って当たり前とマスメディアも野球ファンも思っていただけに、決勝のホームイン時のPLナインの高校生らしいはしゃぎぶりが、逆に新鮮だった記憶が私はありました。