読売ジャイアンツの不滅のV9時代、サンケイアトムズ→ヤクルトアトムズで1967~1972年の6年間プレイをした、パナマ出身のデーブ・ロバーツ。
当時、弱小球団だったアトムズで唯一!強打者だった印象の強い、名選手でした。
1967年、入団1年目のデーブ・ロバーツは89打点をあげ4年連続打点王の王貞治氏(108)に次ぐ成績を収め、本塁打も28本、打率も,270。
来日2年目で26本塁打、79打点、打率.296のルー・ジャクソンとの3番4番は強力でした(チームは5位でしたが)。
翌1968年は、同僚のルー・ジャクソンが家庭不和や女性問題含む私生活の乱れ等があり、20本塁打を放ちますが、打率は.219と落ち込み、誰もが驚きましたが翌年5月に膵臓癌で日本で死亡してしましました。
一方、デーブ・ロバーツは本塁打40本で打点も94、打率も.296と全成績で前年を上回り見事にベストナイン!
〇1968年 セリーグベストナイン
投 手:江夏 豊(阪神タイガース)
捕 手:森 昌彦(読売ジャイアンツ)
一塁手:王 貞治(読売ジャイアンツ)
二塁手:土井正三(読売ジャイアンツ)
三塁手:長嶋茂雄(読売ジャイアンツ)
遊撃手:黒江透修(読売ジャイアンツ)
外野手:山内一弘(広島カープ)
江藤慎一(中日ドラゴンズ)
D.ロバーツ(サンケイアトムズ)
ピッチャーの江夏豊氏以外、内野はV9ジャイアンツ全盛!V4の頃ですから皆!ジャイアンツの選手。
外野がジャイアンツの柴田勲氏、新人の高田繁氏を抑え、同年打率.313、21本塁打、69打点の山内一弘氏(広島)、打率.302、本塁打36、93打点の江藤慎一(中日)と共にデーブ・ロバーツは選ばれています。
1969年のデーブ・ロバーツは更に凄まじく、8月までなんと!打撃3部門全てでトップ。
三冠王が期待されましたが、同月30日のジャイアンツ戦で、守備中に負傷し3週間も休養してしまったため、残念ながらタイトル全てを逃しています。
それでもデーブ・ロバーツの打率.318は首位打者の王貞治氏に次いで2位(3位は長嶋茂雄氏)、本塁打37も本塁打王の王貞治氏に次いで2位、95打点は長嶋茂雄氏、王貞治氏に次いで3位。
正に!最強V9ジャイアンツのON砲全盛時代の、王貞治氏と長嶋茂雄氏との3冠王争いをしたデーブ・ロバーツは、1969年もベストナインに選ばれています。
〇1969年 セリーグベストナイン
投 手:高橋一三(読売ジャイアンツ)
捕 手:木俣達彦(中日ドラゴンズ)
一塁手:王 貞治(読売ジャイアンツ)
二塁手:土井正三(読売ジャイアンツ)
三塁手:長嶋茂雄(読売ジャイアンツ)
遊撃手:藤田 平(阪神タイガース)
外野手:高田 繁(読売ジャイアンツ)
D.ロバーツ(アトムズ)
山本一義(広島カープ)
ルー・ジャクソン亡き後に獲得したボブ・チャンス、ジャービス・テータムが期待に応えられず、デーブ・ロバーツは孤軍奮闘の1970~1971年でしたが、1972年に東京オリオンズからアルト・ロペスが移籍。
打率.286、14本塁打、61打点のアルト・ロペスと、打率.277、本塁打22本、63打点のデーブ・ロバーツの両外国人クリーンナップは、ルー・ジャクソン在籍時以来の久々に強力なものでした(チームは4位)。
ところがヤクルト球団は何を思ったか?1973年のシーズン途中で、当時で言う大リーガーのジョー・ペピトーンを獲得し、デーブ・ロバーツを現役引退勧告、コーチ就任要請しますが、これを拒否。
近鉄バファローズが獲得に動きましたが、結局、1973年を最後にデーブ・ロバーツは現役を引退。通算7年日本でプレイした時代は、正に!不滅の読売ジャイアンツV9の頃でした。
デーブ・ロバーツは、中日ドラゴンズの江藤慎一氏と共に当時の最強ジャイアンツのON砲(王貞治氏、長嶋茂雄氏)の、打者では本当のライバルだったと言えるでしょう。