1976年、田淵・掛布・ブリーデン・ラインバック中心で、年間最多本塁打数を記録した(当時)阪神タイガース!

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1976年のセ・リーグで、前年最下位から優勝した読売ジャイアンツに対し、2ゲーム差で惜しくも2位だった阪神タイガース強力打線を紹介いたします。

それでもこの年の阪神タイガースは、来日1年目のハル・ブリーデンがチームトップの40本塁打。同じく来日1年目のマイク・ラインバックは、打率.300、本塁打22本と大活躍。

前年の本塁打王王貞治氏に奪回されましたが、4番の人気者!田淵幸一氏が39本塁打を放ち、前年台頭した「若虎」掛布雅之氏も本塁打も27本、打率.3250で6位の王貞治氏を1毛抑え.3251でセ・リーグ5位。

ロッテオリオンズから移籍2年目の池辺巌氏も13本塁打日本ハムファイターズから移籍1年目の東田正義氏も12本塁打中村勝広氏も13本塁打藤田平氏も12本塁打と二桁本塁打を放つ選手ばかり。

そんな阪神タイガースはこの年、チーム本塁打193本とチーム本塁打のリーグ最多記録(当時)を作った、爆発力ある華のある打線でした。

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そして投手陣もまた凄く、チーム防御率もリーグ1位の3.58。

この年は江夏豊氏・望月充氏と江本孟紀氏・池内豊氏・長谷川勉氏・島野育夫氏の2:4のトレードが成立した1年目のシーズンで、南海ホークスから獲得した江本孟紀氏が15勝9敗の大活躍!

上田次朗氏と谷村智啓氏が共に12勝、古沢憲司氏が10勝8敗1S。広島カープから移籍、前年はカムバック賞防御率1位を獲得してた安仁屋宗八氏が、この年も大活躍して10勝4敗10S。

5人の!二桁勝利投手がいて、更に!山本和行氏も6勝3敗18S。


一発のある魅力ある打線、防御率もリーグ1位の充実した投手陣。「今年は惜しくも2位だったけど、これは来年こそは!阪神タイガースは優勝を狙えるぞ!」

と、多くの阪神ファンは思ったものでしたが〜、、、

ほぼ同じ戦力で戦うも翌1977年はなんと4位で(読売ジャイアンツ2連覇)、吉田義男監督はBクラス転落の責任を取らされ解任。

ところが翌1978年には更にチームは落ち込み、球団初の!(当時)最下位転落。後藤次男監督も1年で解任されてしまいました。

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「赤鬼」と人気だったハル・ブリーデンは怪我で帰国後、シーズン途中で解雇すると、シーズンオフにはチームの顔!人気者の田淵幸一氏と 古沢憲司氏が、球団を買収したばかりでスター選手の欲しい!西武ライオンズにトレード。

「江夏に続いて田淵もか!」と、阪神タイガースのフロントの体質に、ファンでなくても激怒したものでした。

まぁ、結果として田淵幸一氏も西武ライオンズで念願の優勝・日本一を経験しましたし、阪神移籍一年目は25本塁打を放った竹之内雅史氏、この後、阪神タイガースの顔になり監督までつとめた真弓明信氏。

後から思えば田淵幸一氏・古沢憲司氏と真弓明信氏・竹内雅史氏・若菜嘉晴氏・竹田和史氏の、この2対4のトレードは、両チームともに良いトレードだったと言えますが、当時、阪神タイガースの顔だった田淵幸一氏のトレードは物議になりました。

というわけで、1976年のリーグ2位だった華のある選手たちの「強い阪神タイガース」は、結局1年間だけで、チームはこの後、1985年に再び吉田義男監督が優勝するまでの8年間はBクラス6回、3位が2回と低迷してしまいました。

余談ですが、1985年の優勝以降、2003年に星野仙一監督で再び優勝するまでの17年間で、阪神タイガースはBクラスが何と15回。うち最下位が10回と、球団史上最弱だったのがこの時期だったと言えます。