読売ジャイアンツが最下位になった1975年

 

 





V10を逃し、1974年をもって川上哲治監督が勇退

 

同年引退した長嶋茂雄氏が監督1年目の1975年、読売ジャイアンツは史上初の最下位に低迷したわけですが、調べてみるとチーム打率がリーグ最下位の.236。


最下位はV9ナインの長嶋茂雄氏、黒江透修氏、森昌彦氏が前年に引退し、その穴を埋められなかった説がありますが、長嶋茂雄氏現役最後のV10逸年の成績は打率.244、本塁打15本、打点55。

また、キャッチャーも吉田孝司氏が106試合に出場しており、森昌彦氏は僅か56試合出場で、既にV 10逸年の段階でレギュラーは奪われています。

黒江透修氏も84試合出場で打率.212、本塁打1本、15打点で、もう一人のショート上田武司氏は93試合出場、打率.266、本塁打6、打点30と、黒江透修氏よりも成績は上回ってました。

引退はしてないですが、同じくV9ナインの土井正三氏もV10逸年は94試合出場で打率.186の絶不調。なのでV9ナインはV9最後の1973年で終わっていたんです。
 
ですから1974年のV10逸は、V9ナインのこの4人の年齢的限界も原因で、それでも優勝した中日ドラゴンズにゲーム差なしの2位、チーム打率.253でリーグ3位だった方が逆に凄い。
 
だから、1975年の読売ジャイアンツ史上初の最下位は、引退したV9ナイン3人(長嶋・森・黒江)の穴を埋められなかった説は、間違いです。

V10逸年は、王貞治氏が2年連続三冠王末次利光氏も打率.316で打撃成績で4位と二人が突出してましたが、チーム防御率3.05のリーグ1の投手陣が、それでも2位の原動力だったと思われます。


エース!堀内恒夫氏が流石の19勝、関本四十四氏が10勝、プロ入り2年目の小川邦和氏が12勝と大飛躍。同じくプロ2年目の小林繁氏が8勝、未完の大器!新浦寿夫氏も7勝、若き玉井信博氏も6勝。

一方、V9後半は大活躍だった高橋一三氏が前年の23勝から2勝(11敗)、倉田誠氏も前年の18勝から5勝と、まぁ〜V10逸はこの2投手の不調が大きかったわけです。

で、振り返ると長嶋茂雄監督就任1年目は、補強らしい補強を全くしてない。ドラフト1位の定岡正二氏も高校生なので即戦力と考えていなかったでしょうから、V10逸の前年の戦力で新年を迎えています。

長嶋茂雄新監督も、関根潤三ヘッドコーチはじめ一新されたコーチ陣もフロントもファンも、今の戦力でも十分やれるだろうと思っていたのでしょう。

1975年、長嶋茂雄監督1年目の開幕オーダーは、オープン戦で怪我をした王貞治氏はおらず、ファーストは柳田俊郎氏(5番)で、4番はライトの末次利光氏、3番はレフトの高田繁氏。


サードは富田勝氏(2番)、セカンドは上田武司氏(6番)、ショートには大抜擢!前年僅かに24試合出場の河埜和正氏(8番)、キャッチャーも大抜擢!前年45試合出場の矢沢正氏(7番)という布陣でした。

長嶋茂雄監督は、V9時代から森昌彦氏の控えキャッチャーで、前年レギュラーを獲得した吉田孝司氏と、前年絶不調の土井正三氏を開幕スタメンで外しています(最終的に土井正三氏は111試合出場)。

後の落合博満氏が中日ドラゴンズの監督をやった時、今の戦力を底上げすれば優勝を狙えると豪語し、大きな補強をせず本当に1年目から優勝したように長嶋茂雄監督も行けば、カッコ良かったんですけどね。

実際、河埜和正氏と矢沢正氏は長嶋茂雄監督の大抜擢でしたし、二人は期待に応え活躍しましたが(矢沢正氏は翌年、吉田孝司氏にレギュラーを奪還されますが)、チームは勝てなかったのが惜しまれます。

そんな無補強の長嶋茂雄監督1年目でしたが、開幕後にアトランタ・ブレーブスから現役大リーガー(と当時は呼んでいた)のデービー・ジョンソンを獲得。これは当時、大ニュースでした。


今と違いMLB、当時の大リーグと日本の野球は大きな実力差があると、野球ファンは普通に信じて疑っていなかった、野球の選手も暴力団の親分もまだアメ車に乗っていた、アメリカが偉かった時代。

そのアメリカの現役の大リーガーが、日本でどんな凄い成績を残すのか、現役大リーガー獲得とは流石はジャイアンツだと、皆大いにデービー・ジョンソンに期待しました。

ところがデービー・ジョンソンは、91試合出場で打率.197、本塁打13本、打点38と完全に期待を裏切ってしまい、読売ジャイアンツ史上初の最下位の原因として、「ジョン損」と彼は叩かれまくりました。 

デービー・ジョンソン不振の原因は、慣れないサード守備(本来はセカンド)や、元々は中距離ヒッターなのに長打を期待されすぎたとか、通訳の語学力不足等、色々あったようです。 

『天下の!Mr.ジャイアン長嶋茂雄』のサードの後釜は、大リーガーという長嶋茂雄監督の思惑もあったかもしれませんが、不調のジョンソンと併用された富田勝氏も、前年と違い大不振に陥っています。

結果論ですが、前年、力の衰えた長嶋茂雄氏と併用で122試合出場、打率.265の成績を残した富田勝氏をサード、デービー・ジョンソンをセカンドに最初から起用してれば、結果は違ったかも知れません。

何故なら最下位から優勝の翌年、セカンドが定位置になったデービー・ジョンソンは、108試合に出場し打率.275、本塁打26本、打点74とリーグ優勝に十分に貢献してますから。


また、主砲の王貞治氏も怪我で開幕に出遅れ、連続本塁打王記録もこの年、阪神タイガース田淵幸一氏に奪われ(翌年奪還します)、絶好調とは言えないシーズンだったと、チームは悪い事が重なってます。

というわけで、チーム打率リーグ最下位に落ち込んだ『打てない打線』をバックに、投手陣も焦ったのか?前年のチーム防御率リーグ1位の投手王国が、リーグ5位にこの年は下がってます。

開幕登板は不動のエース!堀内恒夫氏なのは当然として、第二戦で前年不調だった高橋一三氏ですから、やはりこの2本柱を中心にローテーションを回そうとしていたのでしょうが、あえなく2連敗。

4月を4勝10敗3分と大きく負け越すと、10月まで全ての月で負け越しており、9月は引き分け挟んで11連敗含む6勝16敗2分と、この年のジャイアンツの戦いぶりは悲惨です。

結果、エースの堀内恒夫氏が10勝18敗と大きく星を落とし、期待の若き小川邦和氏が8勝10敗、小林繁氏が5勝6敗、玉井信博氏が3勝4敗と伸び悩み、倉田誠氏が3勝4敗で関本四十四氏はなんと0勝4敗。

終戦堀内恒夫氏が勝利投手になって、やっと10勝しましたが、他に二桁勝利投手なし。

自身キャリアハイになった横山忠夫氏が8勝7敗、そして高橋一三氏が復調し6勝6敗でしたが、『若き新エース』と期待された新浦寿夫氏は、期待を大きく裏切る2勝11敗。

リアルタイムの記憶では、デービー・ジョンソンと新浦寿夫氏が、ジャイアンツ史上初の最下位の戦犯と新聞に叩かれまくってました。

当然、フロントは勿論、当時はジャイアンツ人気におんぶに抱っこのプロ野球界でしたから、1年目の長嶋茂雄監督最下位は大激震で、シーズンオフは大幅なテコ入れがされました。


日本ハムファイターズより主砲の張本勲氏を、高橋一三氏・富田勝氏との2対1の交換トレードで獲得し、『王・長嶋』のON砲を継承する、『王・張本』のOH砲を打線の軸にする戦略。

そして、ここが長嶋茂雄監督の「ひらめき」というか何というか、張本勲氏がレフトに入るので、レフトの高田繁氏を何と!サードにコンバートします。

V9の半ばからのレギュラーで、V9ナインの中では若手の高田繁氏とはいえ、1976年は9年目で三十路も超えており、最下位に終わった前年は打率.235、本塁打6本。高田繁氏はプロ入り以来最低の成績でした。

そんな高田繁氏のサードコンバートは見事に成功し、外野手に続いてサードでもゴールデングラブ賞を受賞し、打撃も打率.305、本塁打も盗塁も二桁に戻り見事復活。

高田繁がサードに定着したことで、元々のボジションのセカンドに定着したデービー・ジョンソンも前出の通り活躍しています。

また、投手陣も太平洋クラブライオンズより、東尾修氏と共に両エースだった加藤初氏とサードの伊原春樹氏を、関本四十四氏、玉井信博氏を2対2の交換トレードで獲得。

結局、 伊原春樹氏は高田繁氏のサードコンバートが成功したので出番はありませんでしたが、加藤初氏は15勝8S、ノーヒットノーランも達成する大活躍で、張本勲氏と共にリーグ優勝に大貢献しています。

また、小林繁投手が遂に大化けした年で、18勝8敗とチームの勝ち頭になったのも大きかったです。


更に!デービー・ジョンソンに続いて現役大リーガー、M LBからピッチャーのクライド・ライト氏を獲得し、8勝7敗と期待ほどではありませんでしたが優勝に貢献しました。

リーグ優勝した1976年は前年のチーム打率リーグ最下位からリーグトップになりましたし(.280)、チーム防御率もリーグ5位からリーグ2位と上昇している、投打共に各人好成績でした。

そして王貞治氏も本塁打王を奪還すると、6年連続打点王の二冠。張本勲氏も首位打者を1毛差で中日の谷沢健一氏に譲りましたが打撃部門で2位の大活躍。

とはいえ、まぁ〜V9時代もよくありましたが、この年も阪神タイガースに猛追され、ジャイアンツが最下位から優勝を決めたのは最終戦でした。