トマ損と揶揄されたゲーリー・トマソンは、それでも想い出深い選手


当時は球団史上はじめてだった、3年連続V逸の責任をとらされ長嶋茂雄監督が解任。

熱烈な長嶋ファン達の読売新聞不買運動も起きたほどの大騒動の元、藤田元司新監督による1981年の読売ジャイアンツの、これが開幕スタメンです。

1 遊 河埜和正
2 左 淡口憲治
3 三 中畑清
4 中 ホワイト
5 右 トマソン(新外国人)
6 二 原辰徳(新人)
7 一 松原誠
8 捕 山倉和博
9 投 西本聖


1980年のシーズンを終えた後、王貞治氏が30本の本塁打を放ちながら引退した為、1981年は前年のロイ・ホワイトに続いて現役大リーガー(と当時は呼んでいた)、ゲーリー・トマソンを獲得。

ロイ・ホワイトは前年、王貞治氏とクリーンアップを打ち、打率.284、本塁打29、打点75の数字を残しましたが、1981年は打率.273、本塁打13、打点55と数字を落としています。

一方、1年目のゲーリー・トマソン打率.261、本塁打20、打点50

 

ホワイトとそれほど大きな成績の差はありませんでしたが、当時は『トマ損』とホワイトと違いマスメディアに叩かれまくりました。

最大の理由は132三振(三振王)と三振の数の多さで(ホワイトは68三振)、『舶来扇風機』とも揶揄されるほど、トマソンは豪快な三振が目立ったからです。

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が、例えば1988~1995年に近鉄バファローズで活躍したラルフ・ブライアントは、8年間で5回三振王で、そのシーズン三振数は全てトマソンの132三振を上回ってます(1993年の204三振は日本記録)。

でもブライアントは3回本塁打王に輝いており、一発か?三振か?の魅力がありましたが、トマソンは132三振のわりに20本塁打と、一発の魅力が足りなかったと言えます。

まぁ〜当時の日本の野球ファンは現役大リーガーなら、普通に3割30本を打って当たり前。それぐらい日米の野球の差はあると信じてましたから、トマソンの打率.261、本塁打20本は何とももの足りない。

何たってトマソンは、本塁打30本を放っても引退した王貞治氏の代役でしたから。

が、しかし、1981年の読売ジャイアンツ本塁打20本以上放ったのは新人の原辰徳氏の22本とトマソンの20本の二人だけ。トマソンが全く活躍していなかったかと言えば、そんなことはなかった。

唯、トマソンはイメージが悪かったんですね。

当時は読売ジャイアンツ戦だけが地上波テレビで放映されていたので、バッターは10回のうち7回失敗しても打率3割の好打者ですが、この7回の失敗が特に三振と併殺打だとテレビでは目立ってしまう。

更にスポーツ新聞や雑誌が面白がって、トマソンを個人攻撃しまくったので、もの凄いダメ外人イメージがトマソンはついていました。

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繰り返しますがトマソン本塁打20本は原辰徳氏に次いでチーム2番目、打点50も『原・中畑・ホワイト』に次いでチーム4番目。

なので、トマソンは最低限の仕事はしてたんじゃないでしょうかね〜?(本当に最低限の仕事ですが)。

あと人間力というか何というか。ホワイトはもの静かな紳士として有名でしたが、トマソンはかなりの頑固者だったようで、監督やコーチの言う事を聞かない等、その辺も嫌われた原因かもしれないですね。

元大リーガーとしてプライドが高いのは良いですが、ホワイトやこの後のレジー・スミスのような活躍は、トマソンアメリカでもしてないしホームランバッターでもなかった。

ちなみに本塁打20は、日米通算でトマソンの生涯最高のシーズン本塁打数ですから、案外本人は満足してたのではないかしら?

まぁ〜この年のシーズン優勝、シリーズ制覇はリーグ1位のチーム防御率を誇った、1位=江川卓氏2,29、2位=西本聖氏2,58、3位=加藤初氏2,91と防御率上位3投手を読売ジャイアンツ勢が占めた投手力

なんたって最優秀防御率最多勝利、最高勝率、最多奪三振の投手4冠に輝いた江川卓氏のプロ生活最高の年で(最優秀選手にも選ばれた)、この投手三本柱+セーブ王の角三男氏の投手力は強力でした。

そしてこの4人に、入団以来初めて11勝と活躍した定岡正二氏の5投手による、チーム防御率リーグ1位の強力な投手陣でリーグ優勝、日本シリーズ制覇したと言っても過言ではないでしょう。

ちなみにこの年の読売ジャイアンツは、チーム打率もチーム本塁打数もリーグ3位で、チーム打点は492とBクラスのヤクルト、横浜大洋と同じでした(チーム盗塁数はリーグ1位)。


明けて1982年の読売ジャイアンツの開幕スタメンは、

1 中 松本匡史
2 遊 河埜和正
3 二 篠塚利夫
4 一 中畑清
5 三 原辰徳
6 左 淡口憲治
7 右 トマソン
8 捕 山倉和博
9 投 江川卓


開幕スタメンに名はないですがホワイトは107試合出場。打率.296でしたが本塁打が12本とやはり少ないので、この年で契約終了。一方トマソンは僅か47試合出場で、2年目で解雇。

結局、2連覇確実と言われてましたが後半戦に中日ドラゴンズに逆転優勝されチームは2位。読売ジャイアンツはホワイトとトマソンに代わり、ヘクター・クルーズ、レジー・スミスを獲得しています。

1983年のクルーズは僅か58試合出場でしたが、スミスは打率.285、本塁打28本、打点72と活躍しましたが、やはり3割30本には及ばなかった。

 

が、読売ジャイアンツアメリカの「おすすめ」を鵜呑みにせず、独自の外人獲得ルートを作らないとダメだとフロント改革が行われたのは、ゲーリー・トマソンで懲りたからでしょう。

 

年齢的に全盛期の活躍はできなかったもののスミスは好選手であり、そして次に獲得したのが、結果的に7年の長きに渡り読売ジャイアンツで大活躍する事になるウォーレン・クロマティ


結局、読売ジャイアンツの外国人選手の3割30本は、ウォーレン・クロマティで初めて達成されましたが、トマソンは悪名だけが残ってしまったようです。