ザ・タイガースのアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」は、ザ・ビートルズのオマージュだった

 


ザ・ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が発表されたのが、英米で1967年6月、日本は7月でした。

まぁ〜オーケストラとの共演アルバムということで、ロックもポップスもジャズやクラシックと同じアートであると世に知らしめたのが、この 「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」。

日本でもアングラフォークの元祖になったフォーク・クルセダーズが同1967年、自主制作アルバム「ハレンチ」を発表。シングルカットされた「帰ってきたヨッパライ」が1968年に大ヒットしました。

なんとなーく、世の中の流れが変わって来た時期が、この明治百年、昭和元禄だったと言えます。

で、ザ・ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を発表した頃の日本は、グループサウンズブームの最盛期!

どのバンドもシングルヒットをいかに出すか、どれだけ人気を得るかを競っていた時代でしたが、人気ナンバー1のザ・タイガースのトッポ=加橋かつみ氏が、「アルバムを作りたい」という発言をしたそう。

勿論、ザ・タイガースも既にアルバムは発表してましたが、ザ・ビートルズの「サージェント〜」のような、自分たちのオリジナルによるコンセプトアルバムを作ろうというこれは発案。


 結果的に、ザ・タイガースのメンバーはそれまで作曲をしてこなかったし多忙という事もあり、オリジナル曲は加橋かつみ氏と森本太郎氏の作詞作曲が1曲づつでしたが、コンセプトアルバムを発表しました。

ザ・ビートルズの「サージェント〜」日本発表から1年5ヶ月後に発表された、それが「ヒューマン・ルネッサンス」。

「平和を愛する」という思想に基づいて「旧約聖書」をコンセプトにして、作曲家の村井邦彦氏と作詞家の山上路夫氏がザ・タイガースに持ち込んで制作されたアルバムでした。

この 「平和を愛する」という発想も、日本ではザ・ビートルズがアルバム「サージェント〜」を発表した翌月の8月に発表したシングル「愛こそはすべて」の影響なのは、間違いないでしょう。

ちなみに当時のグループサウンズブームは、ジュリー=沢田研二氏とショーケン萩原健一氏のツートップ人気と語られる事が多いですが、実際はザ・タイガースは全メンバーが人気がありました。

1968年3月31日号の「週刊明星」の人気投票では1位が沢田研二氏、2位が瞳みのる氏、3位が加橋かつみ氏。6位には森本太郎氏、9位には岸部おさみ氏(現:一徳)と、トップ10にメンバー全員入っています。

この時、ショーケン萩原健一氏は森本太郎氏より下の7位ですが、大ヒット曲「神様お願い!」は3月、「エメラルドの伝説」は6月発売なので、ショーケン大ブームはこの人気投票の後に来たと言えます。

また、ザ・タイガース最大のヒット曲になった「花の首飾り/銀河のロマンス」の、加橋かつみ氏初のメインボーカルの「花の首飾り」は1968年3月25日発ですから、その大ブレイク以前でも加橋かつみ氏はこれだけ人気があったのが、はっきりわかります。

「月刊ヤングミュージック」9月号の人気投票では、加橋かつみ氏は沢田研二氏と大ブレイク後の萩原健一氏に次ぐ3位。

更にアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」から加橋かつみ氏のボーカル曲、「廃墟の鳩」が10月にシングル発売されると、これも大ヒット!加橋かつみ氏大ブレイクはこの時期だったと言えます。

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そんなこんなで、グループサウンズブームの絶対的1番人気だったザ・タイガースでしたが、明けて1969年になると、人気のトッポ=加橋かつみ氏の脱退は避けられない深刻な事態に陥ります。

なんというか、加橋かつみ氏が最も当時の欧米のロックシーン、ヒッピーフラワームーブメントに感化されていたのでしょう。加橋かつみ氏の考えは、はっきり「アイドル」ザ・タイガースからの離脱。

欧米で吹き荒れたニューロックの波と、日本もザ・フォーク・クルセダーズ登場以降、フォーク勢の台頭と「アイドル」ザ・タイガースとのギャップを、加橋かつみ氏が最も感じていたのでしょう。

また、自身がメインボーカルの「花の首飾り」「廃墟の鳩」という2曲のヒットも、ピンでアーチストとしてやっていける自信に繋がったとも思われます。

繰り返しますが、当時の加橋かつみ氏のトッポは、ジュリー・ショーケンと並ぶ人気者でしたし、村井邦彦氏他、ザ・タイガースに楽曲を提供していた方々も、加橋かつみ氏のソロ活動を支援していました。

ちなみにザ・タイガースというグループは、瞳みのる氏と森本太郎氏は小中の同級生で、岸部一徳氏はお二人と中学の同級生。加橋かつみ氏は瞳みのる氏の夜間高校の学年で1つ下の後輩です。

一番年下の沢田研二氏だけが、グループを結成してから今で言うライブハウスで出会っての加入なので、沢田研二氏は『外様』なのですが最もグループ愛が強い方なのに対し、瞳みのる氏の後輩の加橋かつみ氏は、最もグループ愛が希薄だったと言えるでしょう。

また、加橋かつみ氏と最も親しかったピー=瞳みのる氏がその後、自身も脱退声明を出し、結果的にそれがザ・タイガースの解散に繋がったわけですから、この加橋かつみ氏の失踪・脱退はバンドに与えた影響は大きかったわけです。

そんな加橋かつみ氏は川添象郎氏と共に、ブロードウェイで人気だったロック・ミュージカル「ヘアー」を、日本でも日本人で上演しようと実践。

が、しかし、、、

1969年12月から1970年の2月までの公演で「ヘアー」は中止。加橋かつみ氏と川添象郎氏が、ある事件で逮捕されてしまったからです。

一方、1970年12月、岸部シロー氏を後任に活動を続けていたザ・タイガースでしたが解散を表明。

翌1971年1月24日の日本武道館の「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」が、事実上の解散コンサートになりました。