カーペンターズの「ナウ・アンド・ゼン」のB面と、映画「アメリカン・グラフィティ」の映像と音楽が、1970年代に起きたオールディーズブームの発端だった!

 


イギリスには、元々R&R好きのロッカーズが存在していましたし、1970年代からグラムロックやR&Rリバイバルムーヴメントを経由し、パンクムーブメントになっていました。

なので、ちょっと日米のオールディーズ、50'sムーブメントとイギリスは異なります。

というわけでR&R好きの少ない日本で、マニアックなファン達にはバカ受けした、1970年代半ばから後半に起きた、オールディーズ、50'sムーブメントを、今日は真面目に!検証してみたいと思います。

まず、ことの起こりは、1970年代初頭、日本でも人気絶頂だった!カーペンターズ

1973年、発表されたアルバム「ナウ・アンド・・ゼン」。

なんと!このアルバムから「シング」「ジャンバラヤ」「イエスタディ・ワンス・モア」と、シングルヒットが3曲もシングルヒット。

アルバムは、本家アメリカではビルボード最高位2位だったのに、日本のオリコンでは1位!!

当時、日本で一番人気のあった洋楽は、解散したザ・ビートルズでもなけりゃー、ザ・ローリング・ストーンズでもなく、ディープ・パープルでもなくレッド・ツエッペリンでもなく、「カーペンターズである!」と、ボクは断言し続けてます。

で、事件は(笑)、正にシングルカットされた「イエスタディ・ワンス・モア」から始まり、「イエスタディ・ワンス・モア」のリプライスで終わる、B面のオールディーズのカヴァー集!!

これが、アメリカでは、この後!無名のジョージ・ルーカスが発表した映画「アメリカン・グラフィティ」の、プロモーションに、大いに!貢献してます!

無名監督と無名俳優ばかりの、古のアメリカの若者の1日を描いた映画「アメリカン・グラフィティ」の衝撃!!

カーペンターズのアルバム「ナウ・アンド・ゼン」が、アメリカでリリースされたのが、1973年5月。

映画「アメリカン・グラフィティ」が、アメリカで公開されたのは1973年8月。

正に!「ナウ・アンド・ゼン」のB面メドレー、「イエスタディ・ワンス・モア」の実写版だったのが、映画「アメリカン・グラフィティ」だったわけです。

アメリカン・グラフィティ」初公開時のキャッチフレーズは「Where were you in '62?」。「1962年の夏、あなたはどこにいました?」。

平成の31年を終え、令和を今生きてる今にして思えば、1973年現在、たかが11年前のアメリカの音楽、ファッション、車、文化が、信じられないほど古く、そしてそれが逆に「新しく」感じた、1962年という時代の凄さ、、、。

1962年の夏は、イギリスでザ・ビートルズが公式デビューする直前、1963年にはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺。

よく言われますがベトナム戦争の泥沼化、キング牧師が奮闘した、黒人公民権法が施行される直前、アメリカが激変する直前だったのが、「アメリカン・グラフィティ」の設定、1962年の夏だったわけです。

結果、映画「アメリカン・グラフィティ」は、1973年度、北米興行収入で、堂々3位。

無名のジョージ・ルーカスが、この後「スター・ウォーズ」を撮れたのは、「アメリカン・グラフィティ」の、大ヒットの実績があったからなんですねー。

ちなみに1973年の1位は、アカデミー賞を受賞した「スティング」。

2位が「エクソシスト」、4位がスティーヴ・マックイーン&ダスティ・ホフマンの「パピヨン」ですから、当時のアメリカにおいて「アメリカン・グラフィティ」が、如何に!大ヒットだったか、若い世代の方でも、映画ファンなら、わかると思います。

日本で「アメリカン・グラフィティ」公開が、1年以上も遅れた理由 

アメリカで、映画「アメリカン・グラフィティ」が大ヒットしてた1973年。日本でもキャロルがデビューアルバム「ルイジアンナ」のB面で、古のR&Rをカヴァーしてました。

が、矢沢永吉氏がいたってことで、キャロルはもの凄く!過大評価されてますが、実際、ファーストアルバム「ルイジアンナ」は、さほど売れませんでした。

基本的には、当時の殆どの!若者は「フォークの子」で、アイドル歌手好き。

ハードロックファン、プログレファンは、今のインディーズぐらいはいましたが、古のR&R、50'sファンなど皆無に等しかった当時の日本。

なので、無名監督で無名俳優ばかりの「アメリカン・グラフィティ」は、リアルタイム日本で、実は公開されてないんです。

アメリカでの大ヒットの噂を聞き、日本の配給会社も重い腰をあげ、アメリカ公開の翌年、1974年も年末の12月になって、やっと 「アメリカン・グラフィティ」は、日本でも公開されたんです。

ところが!日本の1975年の映画興行成績を調べてもらえばわかりますが、「アメリカン・グラフィティ」は、トップ10にも入ってない、、、。

アメリカより1年以上、遅れに遅れて日本で公開された 「アメリカン・グラフィティ」でしたが、実際にロードショー公開された時は、日本でヒットしてないんですねー、、、。

アメリカン・グラフィティ」で人気が復活した、ザ・ビーチ・ボーイズのアルバム「終わりなき夏」

で、お話かわって、1973年「アメリカン・グラフィティ」の大ヒットの翌年、1974年のアメリカ。

商魂逞しいアメリカ音楽業界、この世の中の空気を見逃すわけもなく、「アメリカン・グラフィティ」で「サーフィン・サファリ」「オール・サマー・ロング」が効果的に使われ、人気が復活したザ・ビーチ・ボーイズ!!

キャピタルレコードは、このザ・ビーチ・ボーイズサーフィン・ホットロッド時代のヒット曲を集めた、2枚組ベストアルバム「終わりなき夏」を発表。

なんと!!「終わりなき夏」は、ザ・ビーチ・ボーイズ初の!全米1位を獲得!!

だから、、、

1973~1974年のアメリカは、ニューソウルやニューファンク、シンガーソングライターものと同じぐらい、ものすごく!オールディーズブームが吹き荒れてたんですねー。

一方、遅れに遅れた「アメリカン・グラフィティ」が、日本でもやっと公開された1974年12月の日本。

無名監督で無名俳優ばかりだった「アメリカン・グラフィティ」が、大ヒットする気配はなく、吉田拓郎氏が作った「襟裳岬」を森進一氏が熱唱、「日本レコード大賞」を受賞。

小坂明子さん、海援隊が出場した紅白歌合戦が終わり、1974年は終わりました。1973~1974年の日本では、アメリカと違い何も起きてないです(笑)。

で、、、

明けて1975年、前年末に発売された、ダウンタウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」が大ヒット!やっと!ちょっと!遅ればせながら、世の中の流れがかわってきます。

夏になると日比谷公会堂でのキャロルの4月の解散ライブが、やっとTBS「ぎんざNOW!」の特番で、編集放映。

このテレビ番組によって、今や伝説の火事になった日比谷野音の解散コンサートの映像&音源で、キャロルは解散してからレコードがバカ売れ。

このドキュメンタリーで、キャロルの警護役でテレビ初登場した、バイクチームのクールスも、キャロルなき後のマーケットを狙ったレコード会社によって、バンドとしてデビュー。

そしてロードショー公開では、それほどでもなかった映画「アメリカン・グラフィティ」も、名画座での二本立て抱き合わせ上映が、首都圏を中心に繰り返され、口コミで徐々に人気になりました。

というわけで、日本はアメリカに遅れること2年、1975年になってから、じわじわと古のR&R、オールディーズブームが、特に原宿中心に起きたんですねー。

当時の日本の、女性オールディーズリバイバルは、荒井由実さん

まだ、さして売れてなかったユーミン荒井由実さんの、1975年発売「ルージュの伝言」も、当時はヒットしたわけじゃないですが、そのサウンドはオールディーズを感じさせてくれる、素敵な楽曲でした。

その後、有名になるボウリングシャツは、荒井由実さんが「ルージュの伝言」のプロモーションを、原宿の「キングコング」でやった時、着たのが最初。

そして「キングコング」や、系列の「怪人20面相」等で、この後、店の従業員がリーゼント姿で、ボウリングシャツをユニフォームにしたことで、一気に!ボウリングシャツはブレイク。

こちらも、この後、R&R、オールディーズファンには当たり前になる、ポニーテイルにパラシュートスカートも、当時、アン・ルイスさんが、多分、初めて着た女性だったと記憶しております(リバイバルという意味でね)。

1976年になると、ユーミン荒井由実さんも「あの日に帰りたい」の大ヒットによって、それまで売れなかった旧作まで売れるようになる、一大ユーミンブームが起きます。

このブームで、シングルヒットしなかった「ルージュの伝言」が、今のように、当たり前に知られるようになったわけです。

キングコング」に続いて、山崎眞行氏が運営する系列店のカフェ、そして50'sファッションに特化した店「クリームソーダ」が、原宿に次々オープン。

1976~77年頃になると、日曜の原宿表参道は、革ジャンリーゼントの男と、ポニーテイルにパラシュートスカートの女の子が、流行りのサーファーファッションの男女と共に、溢れかえってきました。

結果、1980年前後になると、この流れが代々木公園入り口前で、ラジカセでツイストを踊るローラーに、繋がったわけです。

が、、、

ボクも1980年前後は、もう大人になってたので(笑)、原宿の教会がラフォーレになる頃までしか、原宿のことは正直わからないので、ローラーは詳しくないです、、、。

1970年代半ばの、まだ今とは風景が全く違った原宿は、熱かったな〜という、お話しは、このへんで。