1973年 4月発売の沢田研二氏のシングル「危険なふたり」は、ソロになって初のオリコンNo.1人になった曲。
沢田研二氏は1971年1月のザ・タイガース解散ライブ後、ザ・タイガースの現在の岸辺一徳氏とともにPYGに参加しましたが、PYG はメンバーや事務所の思惑通りの人気バンドにはなりませんでした。
PYGは解散声明は出してなかったと思いますが、同年11月には事務所の意向で沢田研二氏はソロシングル第一弾「君をのせて」を発表。
ツインボーカルが売りだった、もう一人の元ザ・テンプターズの萩原健一氏をメインにした『萩原健一+PYG』名義のシングル「もどらない日々」を、沢田研二氏抜きのPYGは同じ日に発表しています。
如何なる歴史にも「たられば」「if」はありませんが、もしこちら「もどらない日々」がヒットしていたら、ソロの沢田研二氏と『萩原健一+PYG』の活動になっていたでしょうね。
でも「もどらない日々」は売れず、実質的に PYGはなんだか影が薄くなっていった記憶がありますし、また、沢田研二氏の「君をのせて」も、事務所の思惑通りに行かずオリコン最高位23位。
PYGのシングル第二弾「自由に歩いて愛して」が同最高位24位でしたから、人気者!天下の!ジュリー=沢田研二氏にしては、このPYG時代とソロデビュー時は、デビュー以来始めての苦境だったと言えます。
岩谷時子さん作詞、宮川泰氏作曲の「君をのせて」は、当時のフォークブームに乗ってヒットさせようと事務所はしていたような曲で(名曲ですが)、沢田研二氏も当時はあまりお気に入りではなかったとか。
そして1972年3月発売のシングル第二弾は、作曲にグループサウンズ時代の仲間、元ザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦氏作曲の和製プログレっぽい曲・サウンドの「許されない愛」。
この曲がオリコン最高位4位を記録する大ヒットになり、やっとザ・タイガース時代の成功に戻ったわけですが、その後シングル3〜5弾まで、全てトップ10入りするも1位は獲得できませんでした。
で、有名な話ですがザ・タイガースは、あれほど!売れたのに、あれほど!人気があったのに、紅白歌合戦に出場できなかったわけで、ソロになっても1971年はダメ。
同じようにザ・スパイダース時代は紅白歌合戦に出れなかった堺正章氏が、沢田研二氏より先に「さらば恋人」(オリコン最高位2位)が大ヒットしたので、1971年に紅白歌合戦に初出場しています。
でも、1972年に「危険なふたり」の大ヒットのおかげで、やっと沢田研二氏は紅白歌合戦に出演しましたが、この年の日本歌謡大賞を「危険な二人」は獲得するも、確実だと言われたレコード大賞はダメ。
まぁ〜当時のNHK、TBSの「人気はあっても沢田だけはダメ、嫌だ」的な空気があったのは否めないですね〜。
というわけで、この年の紅白歌合戦には沢田研二氏のバックバンドとして『井上バンド』名義で出演してたのが、まぁ〜萩原健一氏のいないPYGの、井上堯之バンド。
既にドラムは元ザ・テンプターズの大口ひろし氏は脱退というか解雇というか、原田裕臣氏に代わっていたので、当初のPYGとは元ザ・テンプターズのお二人はいなかったわけですが、原型はPYGでした。
また「危険なふたり」のドラムを叩いてる田中清司氏は、1974~1975年に原田裕臣氏に代わって井上堯之バンドのドラマーになっています。
また、あの印象的なギターは松木恒秀氏で、この方はスタジオ仕事は勿論、バンド活動もやっていましたが、有名なレコーディングはこの後の山下達郎氏のアルバムでしょうかね?(当時は売れなかったが)。
というわけで、沢田研二氏のテレビやライブでのバックバンドとして有名だった井上堯之バンドですが、当時はまだレコーディングはスタジオミュージシャン。
まぁ〜この辺は、沢田研二氏がソロ歌手が本当は嫌だった、バンドの中のシンガーが希望だったので、テレビやライブでは井上堯之バンドが担当したのでしょう(岸辺一徳氏との旧知の仲もあったでしょう)。
井上堯之バンドが沢田研二氏のレコーディングを行うのは、シングル第9弾「恋は邪魔もの」が初めてでした。