矢沢永吉氏より年下だったキャロルの3人と、同い歳の相沢行夫氏と木原敏雄氏、、、


1972年6月に結成し、同年12月にシングル「ルイジアンナ」でレコードデビューしたキャロルはシンデレラボーイです。

レコードデビューのきっかけは同年10月、テレビ番組「リブ・ヤング」の「ロキシー・ファッション出演者募集」に、ジョニー大倉氏が応募。

ところが、そういうファッションの若者を募集しているけど、バンドはいらないと断られたのを、矢沢永吉氏がテレビ局に電話し必死に食い下がり出演が決まったのは、ファンの間では有名なエピソードです。

というわけでキャロルは結成後、ライブハウスやキャバレーに出演していましたが、僅か4ヶ月でテレビ出演し、とんとん拍子にレコードデビュー話が進んでます。

ですから、キャロルはバンドの下積みはなかったに等しいです。

なので、矢沢永吉氏とジョニー大倉氏、そして内海利勝氏は、お互いが「どんな奴なのか」よく知らないうちに、レコードデビューが決まってるのは、その後の諸々に影響があったと思いますね〜。

で、10月のテレビに出演しているキャロルを観て一番悔しかったのは、矢沢永吉氏がキャロル結成前に解散したバンド、「ヤマト」のメンバーだった木原敏雄氏でしょう。

矢沢永吉氏の著書「成りあがり」に書かれてますが、大学卒業時期になるとメンバーがこれからの進路を考えるのは昔はよくあった話で、矢沢永吉氏以外は堅気の仕事につくためにヤマトは解散。

勿論、矢沢永吉氏だけはヤマトを続けヤマトでレコードデビューしたかったので、解散したくなかったのもファンの間では有名な話です。

矢沢永吉氏は、解散したヤマトの他のメンバーに「残念な人」と思われてたかもね、、、

矢沢永吉氏だけが、世帯持ちで(のちに離婚)子供もいる地方出身の労働者で、自分たちは絶対に売れると息巻いてる。

例えば、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童氏のように、既に音楽業界でマネージャー経験もあり、親戚に大手事務所のお偉いさんがいました。

なので、メンバー達も周りも(まぁ〜レコードデビューも、ありえない話でもないけど)と思うでしょうが、矢沢永吉氏は唯の地方出身の労働者兼バンドマン。音楽業界に知り合いもいなければコネもない。

時はグループサウンズブームも終焉し、ニューロックは全く売れてなかったエレキバンド受難の時期。

当時から矢沢永吉氏は「あの!矢沢」だったと思いますが、メンバー達は当時の矢沢永吉氏が「あの!矢沢」になるとは思ってないです。

なので、もしかしたら木原敏雄氏含め、ヤマトのメンバーはそんな矢沢永吉氏を見て、今の言葉でいう「残念な人」と思っていたかもしれない、、、。

ところが「ヤマト」解散から僅か数ヶ月で、矢沢永吉氏はキャロルとして夕方枠の若者向け情報番組の「リブ・ヤング」に登場し、それをきっかけにレコードデビューが決まっちゃった。

この時の木原敏雄氏の胸中は、複雑だったでしょうね〜。

ヤマトが解散しても、自分だけは「矢沢について行けば良かった」と後悔したんじゃないですかね〜?私が木原敏雄氏だったら、後悔しますから(笑)。

しかもキャロルの他のメンバーは、矢沢永吉氏と木原敏雄氏より全員年下。

キャロルは、シンデレラボーイです♪

キャロルは結成後、ジョニー大倉氏のアイデアで革ジャン・リーゼントの公式デビュー前のザ・ビートルズスタイルにしています。

でも、ジョニー大倉氏の著書によると矢沢永吉氏は革ジャンは良いけど、リーゼントは最後まで嫌だったとかで、なんと!矢沢永吉氏の初リーゼントは「リブ・ヤング」出演時。

で、その時に矢沢永吉氏の髪を整えたのはジョニー大倉氏だったそうで、キャロル解散もしかりですが矢沢永吉氏の人生の分岐点に、ジョニー大倉氏がいたのは否めない。

なので、あのままヤマトを続けていたら、矢沢永吉氏のレコードデビューのきっかけはなかったかもしれないので、この辺は「神のみぞ知る」の領域ですね〜。


そして、キャロルレコードデビュー時は二十歳だったジョニー大倉氏、19歳だった内海利勝氏は紛れもないシンデレラボーイで共に独身。

一方、既に妻帯者で子持ちの23歳の「音楽で飯を食って行こう」と決意している矢沢永吉氏とでは、最初から音楽やバンドに対する考え方が、全く違っていたのは当然と言えば当然でしょう。

そしてヤマト時代の知り合いで、矢沢永吉氏と同い年の相沢行夫氏は、神奈川大学の同級生達とのバンド「ノラ」で、キャロルの「ルイジアンナ」発売から3ヶ月後にレコードデビューしています。

ノラは当時の若者では当たり前だった全員が長髪で、世はフォークブームの最中ですから、フォークグループっぽいので売れそうでしたが、実際にはそうはいかなった。

一方、矢沢永吉氏が嫌がったリーゼント(というか長髪オールバック)に革ジャンスタイルで、しかもR&Rを奏でるキャロル。

他にそんなバンドが当時はいなかったし、ミッキー・カーチス氏、内田裕也氏の推しもあり、小さいマーケットでしたがニューロックシーンで注目を集めました。

話題性はあったけど、歌謡芸能の世界でのヒットに比べると、キャロルのレコードは現役時代はそれほど売れていなかった、、、

今も昔も最大公約数側より、他にいない側の方が注目はされやすい。ノラとキャロルは同じ時期に活躍したバンドでしたが、注目度はキャロルの圧勝でした。

ノラのレコードデビューの経緯はわかりませんが、矢沢永吉氏が凄かったのは、自分を音楽業界の人間がどんな形でも見つけてくれれば、絶対にレコードデビューできる!と信じて疑ってなかった事。

そして、実際にそうなった事です。

木原敏雄氏はヤマト解散後は、型通り堅気の仕事についたようですが、自分と同い歳で知り合いの相沢行夫氏と矢沢永吉氏が、共にレコードデビューしたんですから、心中穏やかではなかったでしょう。

一方、矢沢永吉氏より年下のジョニー大倉氏と内海利勝氏は、話題のキャロルが「当たり前の生活」だったので、その日常にありがたみは感じていなかったと思われます。

更にジョニー大倉氏と内海利勝氏はキャロル解散後も、普通にソロアルバムも発表できるネームバリューが、キャロルでついていました。

片や矢沢永吉氏と同い歳の相沢行夫氏のノラは、それほど注目もされず解散。熱烈なファン以外、相沢行夫氏の事を、当時は誰も知らないのでソロアルバムの話などくるわけもない。

木原敏雄氏も堅気の生活を送っていても、音楽への未練はあったでしょうから、キャロル解散時期のこのお二人は青春の崖っぷちの25歳。三十路はす〜ぐきちゃう。

キャロル解散時、矢沢永吉氏だけが成功を約束されていたわけではなく、やはり地道なライブツアーの成果♪

おそらくキャロル解散当時は、相沢行夫氏もジョニー大倉氏も内海利勝氏も、あそこまで!矢沢永吉氏がソロになって売れるとは夢にも思ってなかったでしょう(当の矢沢永吉氏は思ってたでしょうけど)。

なんたってそんな前例がないですし、思っていたらジョニー大倉氏も内海利勝氏もユウ岡崎氏も、キャロルは継続したでしょうから。

いや、多くの証言にありますが、矢沢永吉氏の例の「矢沢節」はキャロル時代からバリバリ。

ですから、キャロルの他のメンバーもそれを聞いていて、矢沢永吉氏を「残念な人」と思っていたから、解散したがっていたのかもしれない。

それほど当時はあの!「矢沢節」は、時代背景を考えると、現役のミュージシャン達にも途方もない夢物語。大言壮語にしか聞こえないそれだったでしょうから。

勿論、ソロになってレコードが出せるぐらいの矢沢永吉氏もネームバリューはキャロルで作ってました。

ですから、ノラ解散後の無名の相沢行夫氏にとって、そんな矢沢永吉氏に作詞担当とサポートギタリストとして声をかけられたのは、有り難かったでしょう。

でも、当時の相沢行夫氏も「矢沢節」をマに受けてたわけではなく、せっかく入った音楽業界で失業しないで済んだ程度の、最初は喜びだったと思いますが、、、。


でも、ここで例えば!矢沢永吉氏と相沢行夫氏は同い年ですし旧知の仲なので、相沢行夫氏が「矢沢、どうせ一緒にやるならバンドでやろうぜ」と要求したら、お二人の仲はそこで終わってたかもしれない。

矢沢永吉氏はバンドはキャロルで相当懲りているのは、後の著書「成りあがり」でも書かれてましたから。

でも、「ボス矢沢」とそのファミリーという発想は、キャロル解散前後、相沢行夫氏に矢沢永吉氏が声をかけた時はまだなかったと思います。

後に「矢沢ファミリー」と命名するのは、矢沢永吉氏がソロになって暫くしてからの事で、そういう積み重ねの既成事実の結果、そういう固定したメンバーとスタッフになったから、そう命名したのでしょう。

で、矢沢永吉氏に限らずキャロルは話題性はあったので、解散後ソロアルバムを出せるネームバリューのあった元キャロルのジョニー大倉氏と内海利勝氏。

更には役者としても声をかけられたジョニー大倉氏と、ノラが商業的に成功とは言えなかった、当時はほぼ無名だった相沢行夫氏の立場は、相当!キャロル解散当時は違っていました。

キャロルのレコードが爆発的に売れたのは、皮肉な事に解散後、、、


で、ジョニー大倉氏の著書にもありますが、キャロルのレコードが爆発的に売れたのは解散後です。

それは夕方枠の若者向け情報発信番組「ぎんざNOW!」の特番で、その後ビデオ・DVDになった、あの!解散ライブが放映されてからのブレイク。

あの番組で、キャロルは名前とメンバーの顔は知ってるし知ってる曲もあるけど、別にそれほど興味はないかな〜。

ってな連中が、あのテレビ放映を観て、一気にキャロルのべストアルバム「ゴールデンヒッツ」と、解散ライブの「燃えつきるキャロル」を買ったわけです。

なので下世話な話ですが、矢沢永吉氏だけでなく、作詞担当(自身の曲は作曲も)のジョニー大倉氏にも、キャロル解散後は相当な印税が一気に入っていた筈。

でも、私的には好きでしたがジョニー大倉氏のソロアルバム「JOHNNY COOL」「JOHNNY WILD」、内海利勝氏の「GEMINI PARTI」「GEMINI PARTⅡ」は、けっして商業的に成功したとは言えませんでした。

矢沢永吉氏のソロアルバム「I LOVE YOU,OK」だけが、それなりに売れたので、全12曲中7曲作詞を担当した相沢行夫氏には、ノラ時代は想像もできなかった印税が入ったと思われます。

とにかく精力的なライブツアーは矢沢永吉氏はソロになって最初からで、キャロル解散から約1年3ヶ月後、矢沢永吉氏は今度はソロで日比谷野音を満員にした「スター・イン・ヒビヤ」を成功。

矢沢永吉氏が「あの!矢沢」になるとっかかりは、ここからだったと記憶しております。

その後は日本武道館、後楽園球場・東京ドームでライブをやるのが、矢沢永吉氏は当たり前になってますが、当時は日比谷野音をロックバンド、ロックシンガーがピンで満員にするというのは凄い事でしたから(今もですが)。

けっして商業的に成功しなかったノラの相沢行夫氏と、ヤマト解散時、一度は矢沢永吉氏を見捨てた木原俊雄氏の葛藤と喜び♪

一方、相沢行夫氏と違い、木原敏雄氏は一度ヤマトで矢沢永吉氏を見捨ててますし堅気の仕事をしていたので、矢沢永吉氏と仕事をするのは少し遅れ、相沢行夫氏を経由し「矢沢ファミリー」になっています。

そんな木原敏雄氏の作詞家デビューは、矢沢永吉氏のサードアルバム「ドアを開けろ」からで、もう、あの!「矢沢」になってからでした。

矢沢永吉氏が当時は公表されていた「芸能人長者番付」の歌手部門で、9位で初登場したのは1976年。「スター・イン・ヒビヤ」をやったキャロル解散の、なんと翌年!

1977年には常勝の井上陽水氏に次いで2位になり、1978年には遂に1位を獲得。矢沢永吉氏のこの「成りあがり」伝説は、世間の注目の的になりました。

そしてその1978年、スタジオ録音4枚目にしてオリコン1位を獲得した「ゴールドラッシュ」では、木原敏雄氏は4曲作詞(相沢行夫氏は1曲)。

これまた下世話な話ですが、木原敏雄氏にもかなりの印税が入ったと思われます。

レコーディングも、後藤次利氏・坂本龍一氏・村上(ポンタ)秀一氏・つのだ☆ひろ氏・藤井章司氏・高橋幸宏氏・斉藤ノブ氏と言った一流ミュージシャンと、相沢行夫氏とともにギタリストとして参加。

まぁ〜相沢行夫氏と木原敏雄氏の1976~1980年の音楽人生は、矢沢永吉氏によって、それ以前とは雲泥の差の「我が世の春」を謳歌していたと思われます。

ヤマト解散で一度は矢沢永吉氏を見捨てた木原敏雄氏、ノラでデビューしたけど、けっして商業的には成功しなかった相沢行夫氏。

お二人は、ヤマト時代の労働者をやりながら音楽をやっていた矢沢永吉氏を知ってるわけですから、(あの矢沢が、あの永ちゃんが、まさかこんなになるとはね〜)と感慨に耽った事でしょう。

生前、ジョニー大倉氏が冗談まじりに、キャロルで後1,2枚アルバム出してたら、(印税で)もっと生活は楽だったろうと話してたことがありましたが、その印税は相沢行夫氏と木原敏雄氏が得たわけです。

「クリエイター矢沢」は、「作詞家:矢沢永吉」を評価してないのが凄いのです!

 

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で、「クリエイター矢沢」の凄いところは「作詞家:矢沢永吉」を評価してないところで、自分で作曲した曲に作詞もしていたら、矢沢永吉氏の印税は単純計算で倍!

でも、「クリエイター矢沢」は「作詞家:矢沢永吉」を評価してないので、常に「誰か」に作詞を頼んでいます。良い作品を作るには、売るためにはそれが最善と「クリエイター矢沢」は思っているからです。

エンターティナーとしては勿論ですが、私はこの「矢沢永吉」を売るための、「クリエイター矢沢」「プロデューサー矢沢」、客観的に「矢沢永吉」という商品を自分で見れる矢沢永吉氏って凄いと思います。

そして木原敏雄氏と相沢行夫氏が凄いのが、矢沢永吉氏がアメリカに移住して矢沢ファミリーを解散した後に、二人で結成した作詞・作曲ユニット「NOBODY」も商業的に成功させてる所です。

有名なところではアン・ルイスさんの「六本木心中」、吉川晃司氏の「モニカ」等、「NOBODY」は多くのヒット曲を世に送り出してます。

矢沢ファミリー解散後、木原敏雄氏と相沢行夫氏は多くのミュージシャンがそうですが、人のバックバンド、サポートで飯は食っていきたくなかったそう。

ですから、これは私の憶測ですが矢沢永吉氏と過ごした日々で、印税のありがたみを知ったからではないでしょうかね〜。

ちなみに相沢行雄氏の奥様は、売れっ子作詞家の竜真知子さんです。