キャロルは現役時代より解散後に伝説になった理由!

2023年現在、爺さん婆さんでも、矢沢永吉氏の長い音楽歴の礎になったキャロルのシングルデビュー「ルイジアンナ/最後の恋人」発売の1972年12月、そして1973年の時代背景がリンクしない人が多い。

理由は簡単で、リアルタイムにキャロルの名前は知っていたけどファンではなかった。或いは1975年の解散ライブ以降、ファンになった人が爺さん婆さんは圧倒的に多いからです。

実際にジョニー大倉氏の著書にも書いてありますが、キャロルは解散してからレコード(ベストアルバムと解散ライブアルバム)が売れてますし、それはオリコン調べでもわかります。

あの!火事になった日比谷野音での解散ライブ、そして警備を担当したクールスの姿とバイクがショッキングで、あれが解散してからキャロルのレコードがバカ売れした、突然ファンが増えた理由でした。

さてキャロルのデビューシングル「ルイジアンナ/最後の恋人」が発売された11日後、日本レコード大賞があり、大賞はちあきなおみさんの「喝采」、最優秀新人賞は麻丘めぐみさんの「芽ばえ」。

そしてキャロルも歌謡ヒットがあれば対象になっていた翌1973年の最優秀新人賞は、桜田淳子さんの「私の青い鳥」でした。

1972年12月のキャロルの「ルイジアンナ」レコードデビューは、山口百恵さんの「としごろ」と同じ!


他の新人賞は浅田美代子さん、安西マリアさんあべ静江さん、アグネス・チャンさんで、キャロルは彼女たちと同期。

ちなみにデビュー当時のキャロルは、レコード会社が同じだったからでしょう。当時人気絶頂のガロのボーカル=大野真澄氏が友達とよく宣伝されてました。

ガロが「学生街の喫茶店」を大ヒットさせるのは、キャロルデビュー半年前の1972年6月以降で、プロデュースはミッキー・カーチス氏でキャロルと同じ。

1975年4月の、日比谷野音でのキャロル解散ライブのゲスト紹介でも、ボーカル=大野真澄氏は内田裕也氏、ザ・ゴールデンカップスデイブ平尾氏、なぎら健壱氏、武田鉄矢氏と共に紹介されています。

ちなみに、キャロルと言えばクールスイメージの強い爺さん婆さん多いので、このゲスト、特になぎら健壱氏と武田鉄矢氏に違和感を感じる方もいると思いますが、当時の時代背景はこんなもん。

キャロルが年末にレコードデビューする1972年は、吉田拓郎氏の「結婚しようよ」「旅の宿」がメガヒットした年で、空前の和製ふぉーくブームの幕開けの年でもあったからです。 

キャロル現役時代は、空前の和製ふぉーく&アイドルブームだった!

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で、キャロルはデビュー当初、毎月シングルレコードを発売しており、やっと7枚目にして少し売れたのが「ファンキー・モンキー・ベイビー/コーヒーショップの女も娘」。

この曲が発売された1963年6月頃は、ガロの「君の誕生日」がバカ売れしてました(オリコン1位)。

少し前にはチューリップの「心の旅」、同時期には天地真理さんの「恋する夏の日」が大ヒットし、9月発売のかぐや姫の「神田川」が、秋口にかけこれも空前の大ヒット!

キャロルのシングル「ファンキー・モンキー・ベイビー/コーヒーショップの女も娘」が少し売れたリアルタイムはこんな時代。和製ふぉーくとアイドルブームで大盛り上がりだった時期です。

だから、キャロルとクールスを一緒に聴くのは楽しいですが、キャロル現役のリアルタイムを感じるなら、クールスではなく和製ふぉーくとアイドルを一緒に聴くのがお薦め(笑)。

そしてそれと、キャロルの風貌とサウンドのギャップを感じる。これがリアルタイムを知るには一番良いです。

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吉田拓郎氏のバカ売れアルバム「元気です」は、キャロルレコードデビューの5ヶ月前の1972年7月発売。キャロル現役時代に井上陽水氏のメガヒットアルバム「氷の世界」「二色の独楽」が発表されてます。

空前の和製ふぉーくブームだけではなく、他にも野口五郎氏、郷ひろみ氏、野口五郎氏の新御三家天地真理さんに浅田美代子さん、山口百恵さんや桜田淳子さんはじめとしたアイドルブーム。

キャロル現役時代はそんな時代背景でした。

日本のR&Rもハードロックも今で言うインディーズ以下、ちょっとした人気のあるYouTuberにも及ばないほど、極めてコアでマニアックな市場だったんです(その中ではキャロルは知名度は高かった)。

 

よく当時の暴走族はみんなキャロルが好きだった伝説がありますが、これも眉唾で、実際に当時の暴走族は流行りの和製ふぉーくやアイドル好きが多かった。

ちょいと洒落た連中で、ソウルやファンクです(踊り場好きの流れで)。

 

実際のリアルタイムのキャロルファンはニューロックの長髪系が多く、暴走族や不良はキャロルをバカにしており(少なくとも東京都心では)、暴走族がキャロルに憧れてたなんて聞いた事がなかった。

そんなキャロルが、暴走族に好まれるようになったのは、あの!解散ライブがテレビ放映され、キャロルとバイクに黒ずくめの衣装のクールスの映像にびっくりしてからです。

レコードが突然!売れ出したのと同じで、それも1975年4月のキャロル解散以降なんです。

キャロル現役時代、クールスは唯のバイカーでバンドでも何でもなかった!


だから!この層はキャロルとクールスなんです。でもクールスはキャロル現役時代、バンドでもなんでもないしレコードデビューもしてない(笑)。

クールスが原宿で結成されたのは1974年12月で、キャロルは解散声明だし、ラストシングル「ラストチャンス/変わりえぬ愛」を発表した月。当時、キャロルとクールスに接点は全くないです。 


又、「ファンキー・モンキー・ベイビー」がやっと少し売れたので作詞担当のジョニー大倉氏は休みたくなり遊びたくなり、作曲担当のやっと売れたからガンガン行きたい矢沢永吉氏と溝ができてしまった。

というわけで、実質キャロルがレコードデビューから一糸乱れぬ活動をしたのは、最初の7~8ヶ月だけで、7~8ヶ月後には早くも不協和音が起きていました。

だから、キャロルが全員で気合入れ作ったスタジオアルバムは1973年3月発売の「ルイジアンナ」と7月発売の「ファンキー・モンキー・ベイビー」の2枚だけと、私は断言しちゃいます。

せっかくシングル「ファンキー・モンキー・ベイビー」が小ヒットしたのに、キャロルは次のシングルがちっとも発表されない異常事態が起きていたわけです。

が、この異常事態を感じていたのは少数のキャロルファンだけで、殆どの当時の和製ふぉーくとアイドル好きだった若者達はキャロルなんぞ興味がない(笑)。

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当時からキャロルは矢沢永吉氏がスポークスマンで、あのお得意の喋りで宣伝してましたが、当然キャロルに都合の悪い事実など、矢沢永吉氏は当時から良い意味で商売人ですから言うわけもない。

シングル「ファンキー・モンキー・ベイビー」の小ヒットが忘れ去られようとした1973年12月、ここで発表されたのがシングルではなくキャロル3枚目のアルバム「ライブ・イン・リブ・ヤング」。

フジテレビで収録したスタジオライブアルバムで、新曲はなし。

なんと!次の新曲シングル「涙のテディボーイ/番格ロックのテーマ」発売は、翌1974年の2月までずれ込んでいます。

ソングライターコンビのジョニー大倉氏と矢沢永吉氏の間に、何らかの不協和音があったので新曲など発表できるわけがなかったわけです。

キャロル初の小ヒット「ファンキー・モンキー・ベイビー」で、皮肉にも作詞:大倉洋一、作曲:矢沢永吉コンビに亀裂が入った!


だから「涙のテディボーイ」は、作曲のみならず結果的に矢沢永吉氏初の!作詞ナンバーになっており、おそらくこのレコーディングにジョニー大倉氏は参加してないでしょう。

一聴でジョニー大倉氏だとわかる声・ハーモニーもリズムギターも、「涙のテディボーイ」では聴くことができませんから。

後年、ジョニー大倉氏のキャロル時代の曲をリメイクしたアルバムを作る時、ジョニー大倉氏失踪中だった、矢沢永吉氏作詞作曲の「涙のテディボーイ」と「夏の終わり」の使用許可はおりませんでした。

おそらく「夏の終わり」もジョニー大倉氏は、レコーディングに参加してないのでしょう。だから矢沢永吉氏はこの2曲の使用許可が降りなかったのでしょう。

この辺も「永ちゃん最高!」ファンではない、コアな昔からのキャロルファン、そしてジョニー大倉ファン以外、知らない逸話だと思いますが(だから、自称昔からのキャロルファンは信用できない。笑)。

ちなみに「涙のテディボーイ」のB面「番格ロックのテーマ」は、ジョニー大倉氏失踪前に東映映画用に録音されたものなので、ジョニー大倉氏がリードボーカル

矢沢永吉氏とミッキー・カーティス氏、レコード会社はジョニー大倉氏と矢沢永吉氏の間の不協和音、ジョニー大倉氏の失踪を隠蔽しようとしたのが、「番格ロックのテーマ」起用と私的には思っています。

「涙のテディボーイ」のシングルジャケットにジョニー大倉氏が写ってなくても、それはトリミングの問題で、新曲シングルのB面にジョニー大倉氏の声が入ってれば、誰もがキャロル健在と思いますから。

まぁ〜結果的には乱魔堂から加入したサミー=猿山幸夫氏が、キャロルの正式メンバーとして紹介されジョニー大倉氏は解雇と発表されました。

が、わりとすぐジョニー大倉氏は復帰していますし、繰り返しますがリアルタイム当時キャロルはそんなに人気がなかったので、ここら辺の逸話は特に大きな話題にもならなかったです。