バブル時代にプロ入りを拒否した慶應大学の志村亮氏と鈴木哲氏

 


慶應大学時代がもろに!バブルど真ん中(1985~1988)で、大学通算31勝17敗、防御率1,82の好成績を残し、9球団からプロの誘いを受けるも頑なに拒否。三井不動産に入社した志村亮氏。

そんな志村亮氏は2023年現在、三井不動産リアリティ株式会社の常務執行役員をやられています。

ちなみに鈴木哲氏という、志村亮氏の1学年上の慶應大学の先輩もプロ入りを拒否し熊谷組に入社しており、慶應大学で一時代を築いた名投手二人が、揃ってプロ入りを拒否したのは当時話題になりました。

 

志村亮氏と鈴木哲氏は、1985年秋のリーグ戦で、慶應大学を13年ぶりに優勝された功労者で、直後の明治神宮大会も、西崎幸広投手擁する愛知工業大学を決勝で破って優勝しています。

 

また、志村亮氏の通算31勝は、慶應大の先輩にあたる藤田元司氏、早稲田大の斎藤佑樹氏等と並び東京六大学リーグ史上13位の好記録です。

それほどの好投手が、プロ野球よりも三井グループ三井不動産、大手ゼネコンの熊谷組の方が、慶應大卒のエリーとしては魅力的な世界に思えたのが、正にバブル時代だったわけです。



ただ、このお二人が違ったのが、志村亮氏は大卒後完全に硬式野球を辞め三井不動産のサラリーマン生活に入ったのに対し(軟式野球部は趣味でやっていたそう)、鈴木哲氏は熊谷組硬式野球を続けた所。

鈴木哲氏は都市対抗でも活躍し、1988年のソウル五輪メンバーにも選ばれ、新日本製鉄堺の野茂英雄氏、トヨタ自動車古田敦也氏等と共に銀メダルを獲得しています。

結局、社会人野球でも大学に続いて活躍した鈴木哲氏は、バブル時代真っ盛りの1989年のドラフトで、西武ライオンズに指名されプロ野球の世界に入っています。

ちなみに鈴木哲氏は慶應大時代、1学年下の志村亮氏と二枚看板のピッチャーとして活躍しましたが、2浪しての入学なので、プロ野球1年目は既に26歳。

年齢的にプロ野球の世界の最後のチャンスという思いが、あれだけ大学時代も社会人になってもプロ入りを拒否していた、鈴木哲氏の心が揺れ動いた原因ではないか?と思ったりします。

そしてバブル時代の1989年のドラフトで問題だったのが、大学時代にプロ入りを早くも拒否していた志村亮氏と鈴木哲氏と違い、プロ入りの意思もあったのにそれを覆した立教大学の黒須陽一郎氏。

黒須陽一郎氏は、長嶋一茂氏の立教高校(現:立教志木)→立教大学の2学年後輩に当たり、立教高校では甲子園出場もありましたし、大学時代も11本の長嶋一茂氏を上回る15本の本塁打を放っています。

正に!バブル絶頂期の1989年は前出のソウル五輪銀メダルメンバーの、あの!野茂英雄氏が8球団から重複指名されたドラフトで、黒須陽一郎氏はヤクルトスワローズから3位指名を受けました。


ちなみにヤクルトの1位指名は、野茂英雄氏を外して西村龍次氏。2位指名が古田敦也氏。

が、黒須陽一郎氏は、当初は入団の意向だったようですが、既に日本興業銀行(現:みずほ銀行)の内定が決まっており、結局はプロ入りを拒否。

プロ野球を拒否し、志村亮氏のように三井不動産、鈴木哲氏のように熊谷組、そして黒須陽一郎氏のように日本興業銀行というその不動産業に銀行という選択肢が、正に!バブルです。

結局、諸々あって黒須陽一郎氏は立教大学の先輩のヤクルトの片岡宏雄スカウト部長の顔を潰す結果になったようで、片岡部長は立教大野球部と縁を切りOB会も脱退。

以降、ヤクルトは立教大在学生をドラフト指名したことはありません(2023年現在)。

が、日本興業銀行バブル崩壊後は色々あり、黒須陽一郎氏も現在は東光電気工事株式会社に勤務されているようです。

そんな大学時代にプロ入りを拒否した3人の中で、唯一プロ入りした鈴木哲氏は、プロ通算(1990~1996)7勝13敗1セーブ。

引退後は西武でスカウト→二軍ディレクター→編成部を歴任後、独立リーグ群馬ダイヤモンドペガサスの監督に就任しています。

人に歴史あり、、、。