手塚治虫氏、石津健介氏、亀倉雄策氏が手がけた新生!アトムズ


1965年、シーズンが開幕した時はチームは引き続き『国鉄スワローズ』でしたが、シーズン中に国鉄が2年前から資本提携していた産経新聞とフジテレビに球団を譲渡。

5月から『サンケイスワローズ』にチーム名が変わり、結果的に優勝した読売ジャイアンツに45.5ゲーム差つけられる、ぶっちぎりの最下位で終わっています。

前年、国鉄スワローズ最後の年になった金田正一投手の27勝12敗に続いて、10勝13敗でチーム二人だけの二桁勝利だった佐藤進投手が13勝17敗と奮闘しましたが、サンケイの二桁勝利投手は一人だけ。

同じく国鉄スワローズ時代から、金田正一投手に続くローテーションピッチャーだった村田元一投手が6勝11敗、渋谷誠司投手が8勝22敗とリーグ最多の敗北数。

国鉄スワローズ時代は、勝ち星0だった石戸四六投手が8勝18敗と負け数は多かったですが頭角を現しましたが、チーム防御率はリーグ最下位。チーム打率も5位、本塁打はリーグ最下位で課題は山積みでした。





新たに球団の親会社になったフジサンケイグループは、球団のイメージアップのため、球団名を手塚治虫氏の人気漫画・アニメの「鉄腕アトム」から『アトムズ』に変更。

ユニフォームも国鉄時代から一新。若者向けのファッションブランド「VAN」創始者石津謙介氏が新ユニフォームを手掛けています。

また、球団ロゴも東京オリンピックのロゴデザインを手掛けた、グラフィックデザイナー亀倉雄策氏が手掛けており、フジサンケイグループはかなり本気で球団改革に乗り出してました。

チーム本塁打リーグ最下位の打線強化に、外国人のルー・ジャクソンを獲得。ジャクソンは期待に応え20本塁打を放ちましたが、新生『サンケイアトムズ』の1966年も、大洋ホエールズと並ぶ同率5位。

そう簡単にチームは強くならないのは、今も昔も同じですね。


で、1966年は1回目の第一次・第二次ドラフト会議で、『サンケイアトムズ』は16人指名し、高校生の進学含め10人に入団拒否されるも、このドラフトで武上四郎氏、浅野啓司氏、加藤俊夫氏を獲得。

1966年はルー・ジャクソンに続いて、MLB経験あるデーブ・ロバーツも獲得。西鉄ライオンズから金銭トレードで城戸則文氏を獲得と、フジサンケイグループは本当に新生球団に力を入れてました。

2年目のルー・ジャクソンは打率.296、本塁打26本、打点79。新外国人のデーブ・ロバーツも打率.270、本塁打28本、89打点と二人とも期待に応え大活躍!武上四郎氏も打率.299で新人王を獲得!

浅野啓司投手も新人で8勝10敗の好成績でしたが、1967年もチームは5位。南海ホークス国鉄スワローズで通算1978安打の名選手!飯田徳治監督は、2年目のシーズン途中で休養。そのまま辞任しました。

フジサンケイグループが球団経営に参加して4年目の『サンケイアトムズ』は、新監督にフジテレビの専属解説者だった300勝投手!別所毅彦氏を招聘。


1968年のシーズンは一時3位に上がりますが、最終的には4位。とはいえ、1年目は0勝1敗でしたが後のエース!松岡弘投手が入団しており、石戸四六投手も20勝14敗と活躍し明るい兆しは見えてきました。

そして、ここで!ヤクルトがフジサンケイと共同経営になったので、1969年は球団名は『アトムズ』に変わり、期待の大きい新戦力も揃いつつありましたが再びチームは5位に低迷。

この辺はベテランの村田元一投手が救援主体で8勝と健闘しましたが、佐藤進投手と渋谷誠司投手が共に0勝。打者も豊田泰光氏、小渕泰輔氏が年齢的限界を迎え、この年は新旧交代の時期でした。

で、サンケイはこれにてヤクルトに球団経営を完全譲渡。この辺はヤクルトとサンケイでどんな話があったのでしょうかしらね〜?サンケイが挫折したのか?ヤクルトが「俺らに任せろ」と言ったのか?


そして1970年、現在の『ヤクルトアトムズ』に球団名を変更していますが、国鉄スワローズからヤクルトスワローズになるまで、10年で球団名が5回変わってます。


サンケイスワローズ(1965年)
    ↓
サンケイアトムズ(1966~1968年)
    ↓
アトムズ(1969年)
    ↓
ヤクルトアトムズ(1970~1973年)
    ↓
ヤクルトスワローズ(1974年~)


そして同年、後に正捕手になる初優勝時のメンバー!大矢明彦氏が入団。1971年には若松勉氏、1972年には安田猛投手、水谷新太郎氏、杉浦亨氏、1973年には鈴木康二朗投手が新たに加入しています。

更には1972年、読売ジャイアンツ西鉄ライオンズで活躍していた船田和英氏を金銭トレードで獲得。1975年からは大杉勝男氏をトレードで獲得。

アメリカから1976年にチャーリー・マニエル、1978年にデーブ・ヒルトンを獲得。1978年の広岡達朗監督の元初優勝した時のメンバーは、こうして揃いました。