「江夏・田淵」の黄金バッテリー?江夏豊投手は辻恭彦捕手との方が、、、

 

 

当時の東京六大学リーグ記録、通算22本塁打を放った法政大学の田淵幸一氏は、1968年のドラフト会議の目玉でした。

そして1968年と言えば、プロ入り2年目の阪神タイガース江夏豊氏が25勝をあげ、奪三振401の今も破られる事のない世界記録を樹立した年。

熱烈な読売ジャイアンツ志望だった田淵幸一氏なれど、ドラフトで阪神タイガースに1位指名。すったもんだがあったことは、今の60代以上のオールドファンの方なら記憶にあると思います。 

あの!「空白の1日」の「江川事件」以前に、田淵幸一氏を一度阪神タイガースに入団させ、トレードで読売ジャイアンツに移籍させるなんて話も、当時はスポーツ新聞や週刊ベースボールで囁かれました。

結局、田淵幸一氏は阪神タイガースに入り、ファンも阪神球団も、若手の大エースの江夏豊氏に次いで、東京六大学のスター!田淵幸一氏の入団は、大喜びでした。

が、、、

喜ばなかったのが江夏豊氏。

これは田淵幸一氏も以前、インタビューで述べてましたが、江夏豊投手の投げる球が速すぎ、剛球すぎて、田淵幸一捕手はミットが捕球と同時にブレる。

ミットがブレると、ストライクでもボールと判定されるから、これに当然のように江夏豊投手はクレームをつけ、それから田淵幸一氏はミットがブレないよう、リストを強くする筋トレを開始したとか。

image

 

ちなみに西武ライオンズ移籍後の田淵幸一氏は、DHが多かったし、太っていたので「打つだけの人」イメージが強いですが、入団当時は痩せており、大学時代は強肩でも知られた名キャッチャーでした。

しかし当時の阪神タイガースには二人のレギュラー捕手がいて、一人は辻恭彦氏、もう一人も「辻」の辻佳紀氏。

1968年の江夏豊投手の快投時のキャッチャーは、主に辻恭彦氏でした。

結局、辻佳紀氏は自身の希望で1969年を最後に近鉄バファローズにトレードされ、あちらで正捕手になってますが、田淵幸一氏が入団しても若きエースの江夏豊投手は辻恭彦捕手推し。

それでも新人王を獲得した田淵幸一氏ですが、正捕手として開幕から大活躍のプロ入り2年目のシーズン、アクシデントが起きました。

それまで快調にホームランを飛ばしていましたが、夏の対広島カープ戦で外木場義郎投手から頭部にデッドボールをくらい、血まみれになり担架に乗せられ退場。

一時は生命の危機、助かっても再起不能とまで伝わった田淵幸一氏、結局2年目は89試合の出場で終わり、辻恭彦氏は62試合に出場しています。

1970年の江夏豊投手は二度目の20勝(21勝)をあげており、デッドボールの重症による田淵幸一氏の欠場もあり、1970年も「江夏・田淵」の黄金バッテリーと、「江夏・辻」のバッテリーの併用でした。

ちなみに、バッターのヘルメットに今のように耳当てがついたのは、この田淵幸一氏の頭部デッドボールが大元なのです。

田淵幸一氏は1年目は117試合に出場し本塁打22本でしたが、2年目の1970年は89試合で21本塁打だったので、このデッドボールは本当に悔やまれます。

後遺症も残っていたでしょうし、3年目の田淵幸一氏は更に腎臓炎で入院。

1971年の田淵幸一氏は、出場試合数も80試合で、本塁打も18本、打率も.228と、阪神タイガース在籍中最低の成績でした。

ですから1971年は、実は辻恭彦氏が正捕手として130試合フル出場していますが当時の阪神タイガースは貧打線で、辻泰彦氏もキャッチングは定評があっても打率は1割台。

やはり大きいのが打てる人気選手の田淵幸一氏の復活を、球団もファンも望んでいましたし、江夏豊投手もこの年は15勝14敗と不調で、「黄金バッテリー」のお二人には悪い年でした(チームも5位と低迷)。

が!しかし!、お二人は「スター」の星の下に生まれてきているのでしょう。

有名な!オールスターゲームの「江夏・田淵」の「黄金バッテリー」による、江夏豊投手のパリーグの猛者相手の9人連続三振は、この1971年にやってるんですね〜。

正に!オールスターならではで、繰り返しますがこの年の阪神タイガースの正捕手は辻恭彦氏で、田淵幸一氏はファーストとライトの兼用だったので、これはセリーグ川上哲治監督の粋な計らい。

 

夢の球宴という事で、「江夏・田淵」の「黄金バッテリー」を組んだんです。

 


明けて1972年、デッドボールの後遺症も回復に向かい、昨年はファースト・ライトへのコンバートを真剣に考えていた阪神球団・首脳陣も、田淵幸一氏を正捕手として起用する方針になったのでしょう。

 

田淵幸一氏は128試合に出場し、34本塁打をかっ飛ばしています。

江夏豊投手も1972〜73年と連続20勝をあげ、1973年、これも「江夏豊伝説」の1つ、延長戦を一人で投げ抜きノーヒットノーランで自らさよなら本塁打を放った試合のキャッチャーは、辻恭彦氏。

まだ当時の江夏豊投手は、田淵捕手より辻捕手を好んでおり、1972年には58試合、1973年には24試合、辻捕手はマスクを被っています。


が、1973年も田淵幸一氏は37本塁打をかっ飛ばし不動の4番は勿論、ほぼ正捕手にもなり、更にこの年はチームが最終試合まで読売ジャイアンツと優勝を争う大健闘!

江夏豊投手もこの年は4度目の20勝にして最後の20勝。24勝(防御率2.58)で最多勝を獲得しており、「江夏・田淵」の「黄金バッテリー」は1973年がピークだったと言えます。

そして1974年の田淵幸一氏は45本塁打を放ち、49本塁打でホームラン王の王貞治氏と4本差。

一方、江夏豊投手は1974年は12勝14敗8Sと不調で、もう江夏豊投手の我儘も通らなくなったのかもしれないです。辻恭彦氏は1974年を最後に大洋ホエールズにトレードされました。

show_img.php


そして1975年、不動の「4番キャッチャー田淵」は43本塁打本塁打王を獲得すると、打率も人生初の3割超えと、選手としてのピークを迎えました。

が!しかし、、、

江夏豊投手は病気もあり、1975年も12勝12敗6セーブと、かつての剛球剛腕、バッタバッタと三振をとるピッチングができなくなっており、後世の人が思う「黄金バッテリー」の二人は、選手としては若干ピークがずれてます。

そして2年連続で不調だったとは言え、当時は青天の霹靂だった大エース、一番の人気者だった1975年暮れの「江夏トレード」のニュースに、ファンは激震が走りました。

結果的に江夏豊投手も、南海ホークスに移籍したことで、、野村克也氏によってストッパーとして蘇ったわけですから良いトレードでしたが、当時は誰もが驚いたものでした。

田淵幸一氏にしたら2歳年下なれど、プロ入りは先の大投手江夏豊氏より、2対4の大型トレードの4の方の南海ホークスからやってきた、大学の1つ後輩の江本孟紀投手は気楽だったでしょう(笑)。

image

 

江本孟紀投手は移籍した1976年、15勝をあげ江夏豊投手の抜けた穴を完全に埋めましたし、「若虎」掛布雅之氏の台頭もあり、この年も阪神タイガース読売ジャイアンツと優勝争いをして2ゲーム差の2位。

1977年にはラインバック、ブリーデンの両外国人も活躍しましたが結果は4位のBクラスで、2年前「江夏放出」を黙認した吉田義男監督が、今度は責任をとって辞任。

新監督に後藤次男氏が就任しましたが、当時は球団史上初の最下位に阪神タイガースは落ち、後藤監督は1年で解雇されています。

そして問題のドン・ブレイザー監督が新たに就任し、田淵幸一氏の運命が変わります。

ブレイザーは田淵幸一氏を嫌い、今度は田淵幸一氏が江夏豊氏に続いて1978年を最後に西武ライオンズにトレードされました。

結果的に田淵幸一氏も、西武ライオンズに移籍したことで、阪神タイガースでは叶わなかったリーグ優勝・日本一を二度経験してますから、江夏豊氏同様、良いトレードだったわけですが、、、

当時は「江夏に続いて田淵とは、阪神タイガースというのは何て!不人情な球団なんだ」と、誰もが思ったものでした。