V9最強ON砲なれど、4歳違いの長嶋茂雄氏と王貞治氏は選手のピーク時期が若干ずれていた

 


今だに破られない不滅の読売ジャイアンツV9。そのV9時代を支えたスラッガー王貞治氏と長嶋茂雄氏をON砲と呼んでいました。

東京六大学リーグ、立教大学の花形スター選手、長嶋茂雄氏の読売ジャイアンツ入団1年目は1958年。

春夏合わせて4季連続甲子園出場、2年春の選抜では優勝投手になった高校野球のスター選手、王貞治氏の1年目はその翌年の1959年ですが、大卒、高卒のお二人は年齢が4歳違います。

長嶋茂雄氏は1958年の一年目、開幕からレギュラー出場し、ルーキーにして29本塁打、92打点で本塁打王打点王を獲得。

打率も2位で1年目にして三冠王を逃したものの、見事に二冠王で新人王を獲得しています。

また若き長嶋茂雄氏は足も効いていて盗塁37。あと1本、本塁打を放っていたら1年目から3割、30本、30盗塁のトリプルスリーを1年目にして記録していた事になります。

更には最多安打、最多二塁打、最多得点も記録しており、多くのファンを魅了したグランドを駆け回る若き長嶋茂雄氏の、颯爽とした姿が想像できます。

ちなみに長嶋ファンは多けれど、中でも熱狂的な!狂信的な!長嶋ファンは、東京六大学時代からプロ入り1年目のこの躍動感ある若き長嶋茂雄氏を知ってる方で、2023年現在70歳以上の方が多いです。

そんな長嶋茂雄氏は入団2年目には.334で首位打者を獲得。本塁打王打点王は逃しますが相変わらず最多安打、最多得点を記録し盗塁も21と足も効いていました。

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一方、長嶋茂雄氏の入団2年目の1959年が、高卒ルーキー王貞治氏の1年目。王貞治氏はプロ入り後は投手ではなく一塁手、バッター専任になり、1年目から一軍で試合に出ています。

王貞治氏は94試合に出場し打率.161、本塁打7本、打点25と、後の「世界の王」としては物足りない数字で終わっていますが、普通の高卒ルーキーは一軍登録もない人が殆どなので、まずまずの成績だと思われます。

翌1960年も長嶋茂雄氏は打率.334で連続首位打者本塁打、打点と数字を落としますが、最多安打は三年連続で、この年は最多三塁打12、盗塁も31と相変わらずグラウンドを走り回っていた事が想像できます。

余談ですが、近鉄バファローズを球団買収しようとした堀江貴文氏は、長嶋茂雄氏の人気でプロ野球人気は火がつき今に繋がっていると分析されてますが、私もそう思っております。

プロ野球OBの方も、2023年現在70歳以上の方は皆「長嶋さんに憧れて野球を始めた」「ジャイアンツというより長嶋さんが好きだった」と言ってますから、間違いないでしょう。

そんな長嶋人気爆発の1960年に、高卒2年目にしてレギュラーに定着した王貞治氏も打率.270で本塁打も初の二桁の17本、打点も71を記録。長嶋茂雄氏の本塁打16本、打点64を上回る記録を残しております。

定説では、一本足打法になる前の王貞治氏の成績は惨憺たるものというのがありますが、あれは都市伝説で、高卒2年目でこの数字はご立派で、後の「世界の王」になる才能は垣間見れてます。

更に1961年の長嶋茂雄氏は、打率.353で3年連続首位打者本塁打28本で二度目の本塁打王を獲得。入団1年目に次ぐ二冠王を達成しており、最多安打も入団以来4年連続、最多二塁打も記録。

まだテレビが高価で偉かった時代、当時の若者、おっさん達はブラウン管で観る打って走って守って投げる長嶋茂雄氏が、とてつもなく輝いて見えた事でしょう!

方や3年目の王貞治氏は、打率も本塁打も打点も前年を下回り伸び悩んでおりますが、結局、長嶋茂雄氏と王貞治氏が格差があったのがこの年が最後になります。

翌1962年、高卒入団4年目の王貞治氏は有名な一本足打法を取り入れ38本塁打、85打点で二冠王を獲得。打率こそ.272でしたが、これにて大スター!長嶋茂雄氏に王貞治氏が並んだと言える年でした。

長嶋茂雄氏はこの年はプロ入り以来初の無冠。入団以来続く最多安打と2年連続の最多二塁打は記録しますが、打率は初めて3割を切り.288。

それでも!Mr.ジャイアンツ、長嶋茂雄氏は王貞治氏の台頭に心で燃えていたのでしょう!

翌1963年には打率.341で4度目の首位打者を獲得。打点も112で打点王も獲得の三度目の二冠王に返り咲いており、2度目の最多三塁打(6)も記録。見事に復活しています!


一方、入団以来初の打率3割を記録した(.305)王貞治氏は、本塁打も40本放ち2年連続本塁打王と、初めて三冠をON砲が独占したのがこの年になります。

が、しかし、長嶋茂雄氏が二冠を獲得するのはこの年が最後で、6年連続最多安打もこの年で途切れ(後に4度記録しますが)、走る長嶋も年齢的に徐々に薄れ最多二塁打、最多三塁打はなくなり、盗塁数もこの後、減少していきます。

ですから、ある種の選手としての長嶋茂雄氏のピークは、V9以前のこの1963年の入団6年目までだったのではないか?と数字を振り返ると思ってしまいます(勿論、並の選手以上の活躍はこの後もしますが)。
 
1964年、V9が始まる1年前の長嶋茂雄氏は打率314、本塁打31本、打点90の好成績でしたが無冠に終わっており、王貞治氏が本塁打55本、打点119で二冠を達成。 打率も.320と長嶋茂雄氏を上回りましたが、中日ドラゴンズ江藤慎一氏の.323に僅かに及ばず三冠王を逃しています。

というわけで長嶋ファンには恐縮ですが、V9が始まる前には既に長嶋茂雄氏と王貞治氏の成績は逆転しおり、V9時代の長嶋茂雄氏はピークを超えていた時期で、王貞治氏こそピークのど真ん中の時代だったと言えます。

不滅のV9は、1965年から長嶋茂雄氏引退の1974年までで、王貞治氏はその後6年現役で活躍しており、長嶋茂雄氏晩年の1973年と74年に2年連続三冠王を獲得。

V9後も本塁打王2回、打点王4回獲得しており、長嶋茂雄氏に比べ王貞治氏は選手としてのピークは、もの凄く長かった選手だったと言えます(王貞治氏が特別に別格なのですが)。


とは言え!

やはりV9時代のON砲は素晴らしく、1965年から1974年の9年間で、王貞治氏は本塁打王を9回全て、打点王も6回、首位打者を4回獲得。

長嶋茂雄氏も打点王を3回、首位打者を2回獲得しており、三冠✖️9年=27冠のうちONはなんと!24冠を獲得しています。

打点王は9年間ON独占。本塁打王王貞治氏の独占。首位打者だけ江藤慎一氏、中暁生氏(共に中日ドラゴンズ)、ヤクルトの若松勉氏の3人に譲ってますが後の6回はONという驚異的な数字を残しています。

これは長嶋ファンには不愉快な記録ですが、V9時代、既に足が効かなくなっていた長嶋茂雄氏は不名誉な併殺打王を5回も記録しており、相手チームは3番王を敬遠し4番長嶋勝負というのは実は多かったんです。

ですから印象的には3番王、4番長嶋なのですが、逆に併殺打を嫌った川上哲治監督は3番長島、4番王というオーダーも結構多く、王貞治氏はV9の1年前から引退する1980年の1年前まで16年連続敬遠王。

一方、長嶋茂雄氏はV9以前には3回敬遠王になってますが、V9時代は敬遠王になったことはありません。

如何にV9時代、相手チームが『3番王敬遠、4番長嶋勝負』が多く、そして注文通り併殺打長嶋茂雄氏は打ち取られた事が多かったか、当時を知らない方でも想像がつくと思います。

私的にも外角のボール気味の球を泳いで引っ掛け、併殺打に打ち取られた長嶋茂雄氏の印象はわりと強いです(勿論、ヒット、本塁打も打っていますが!)。

ちなみに長嶋茂雄氏は生涯で併殺打は257で、これは鈍足で有名だった野村克也氏の378から数えて史上ワースト4位です(衣笠2位、大杉3位)。

一方、王貞治氏は生涯で併殺打は159と長嶋茂雄氏の半分もありませんが、代わりに三振が多く(ただしシーズン三振王は一度もなし)、生涯通算1319三振。長嶋茂雄氏は逆に三振数は729と少ないです。

ですから、ジャイアンツにとってチャンスの場面、王貞治氏は敬遠か三振か本塁打のイメージがとても私的にも強く、それがピッチャー対バッターの1対1の対決っぽくて、観る者は痺れたものでした。 


最後になりますが、長嶋茂雄氏は大試合に強いという伝説が残っておりますが、日本シリーズの通算打撃成績は68試合出場、打率.343、本塁打25本、打点66と抜群の成績を残しています。

一方、王貞治氏も77試合出場、打率.281、本塁打29本、打点63と、打率は3割を切ってますが王貞治氏が大試合に弱かったわけではありません。長嶋茂雄氏が日本シリーズで目立っていたという事です。

王貞治氏はこれだけの好成績を日本シリーズでも残しておりますが、シリーズMVPを獲得したことがないのに対し、長嶋茂雄氏はV9時代に3度、それ以前に1度の計4度のMVPを獲得してます。

これは今現在も獲得数最高記録で、他の選手は2回が6人(2022年現在)ですから、大舞台、大試合に強い、記録よりも記憶に残る男!長嶋茂雄伝説は嘘ではなかったわけです。