1971年2月のミル・マスカラス初来日時、テレビ放映の後、きっと日本中の小中学校で、フライング・クロスチョップが飛んでたんじゃないでしょうか?(笑。オレか、、、)。
が、その後日本でも何度も来日し抜群の人気レスラーになったミル・マスカラスですが、1971年の初来日時はスパイロス・アリオンの二番手。
今にして思うと来日前は、スパイロス・アリオンが何故に?あそこまで日本のプロレスファンに人気があったのか?不思議な感じです。
が、当時、国際プロレスが行ったファンが選ぶ未来日レスラー招聘公募企画で、スパイロス・アリオンはミル・マスカラス を抑え堂々1位!
でも、日本プロレスの妨害によってこの企画での国際プロレスでの来日はならず、日本プロレスのリングにミル・マスカラスと共にスパイロス・アリオンは登場。
共に大喝采の初来日でした。
でも、肉体美で華麗なる試合をするミル・マスカラス と違い、スパイロス・アリオンは「腹の出たデブな白人」でカッコ悪いし、なんか試合運びも怠慢。
当時テレビ中継のプロレス観戦はもちろん、雑誌「ゴング」「別冊ゴング」「プロレス&ボクシング」を定期購読してたプロレスファンは、大人も子供も目がこえてました。
なので(えっ?これが噂のスパイロス・アリオン?よえーじゃん)と期待が大きかっただけに、日本での人気はガタ落ち。
このへんは1975年、「長嶋監督のジィアンツ」1年目、現役大リーガーの看板をひっさげ助っ人として来日したデービー・ジョンソンと、スパイロス・アリオンは似てますね。
期待が大きかっただけに、デービー・ジョンソン が大不振に陥ると「ジョン損」と新聞で叩かれまくって、ファンも大ブーイング。
日本人はその期待が大きければ大きいほど、外人にそれを裏切られると掌を返す習性があるようです。
ミル・マスカラスは、プロレスファンじゃなくても名前と顔(覆面)は知ってる人多いと思いますが、スパイロス・アリオンを知る人は、プロレスファンでも、あの当時のファン以外いないでしょう。
で、残念なのは、ミル・マスカラスは初来日時、 スパイロス・アリオンと共に「G馬場・A猪木」のGI砲のインターナショナルタッグ選手権に挑戦し、アントニオ猪木氏と当然のように対戦しています。
が、この後、日本プロレスのお家騒動の結果、アントニオ猪木氏は会社乗っとりのかどで日本プロレスを追放。
1972年に、アントニオ猪木氏は新日本プロレスを立ち上げ、その後、日本プロレスを放映していたテレビ朝日が、日本プロレスと縁を切り新日本プロレスをバックアップしました。
一方、日本テレビも日本プロレス放送を打ち切り、ジャイアント馬場氏を担いで全日本プロレスを立ち上げさせます。

というわけで、多くの外人レスラーの招聘興業権は当時、日本プロレス経由で全日本プロレスが握っていたので、全盛時代のアントニオ猪木氏とミル・マスカラスの試合が、その後観れなくなりました。
これはプロレスファンには痛恨。
体格的にもアントニオ猪木氏とミル・マスカラスのお二人はマッチしてたし、スピーディーで技巧派のお二人の対戦は、もっともっと観たかったですからねー。
なので、アントニオ猪木氏とミル・マスカラスの対戦が観れたのは、ミル・マスカラス初来日のみです。
試合は前出のインターナショナルタッグ選手権のほか、ミル・マスカラスとアントニオ猪木氏は60分3本勝負をやっており、2対1でアントニオ猪木氏が勝利してます。
後にも先にも、お二人の対決はこのミル・マスカラス初来日時だけでした。
