原辰徳(東海大相模)と共に大人気だった酒井圭一(海星)

1976年、人気抜群の東海大相模原辰徳氏3年最後の夏の全国高校野球選手権大会は、ほぼ無印だった西東京代表、初出場の桜美林が初優勝した年でした。

しかし、原辰徳氏の東海大相模は、2回戦で選抜準優勝の栃木県の小山に0対1で負けてしまい、人気No.1の原辰徳氏が2回戦で消えてしまったので、マスメディアは焦ったでしょうね〜(笑)。

ここで、大会前より原辰徳氏と共に超高校級と賞賛されていた、西九州代表の海星のエース、酒井圭一投手にマスメディアは一本被りになりました。

注目の酒井圭一投手は、長崎・西九州大会の7試合を一人で投げ抜き、失点は西九州大会決勝での佐賀県龍谷で失った1失点のみ。特に長崎県大会での海星の圧勝ぶりは目を見張ります。

長崎県大会
一回戦 ⭕️ 海星 7-0 猶興館
二回戦 ⭕️ 海星 9-0 川棚
三回線 ⭕️ 海星 13-0 島原中央

準々決勝  ⭕️ 海星 12-0 長崎東
代表決定戦 ⭕️ 海星 5-0 長崎工

・西九州大会
準決勝 ⭕️ 海星 1-0 佐賀商
決 勝 ⭕️ 海星 3-1 龍谷 

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海星の酒井圭一投手は、51イニング連続無失点70奪三振の記録を引っ提げ甲子園にやって来て、「怪物江川二世!」、ネス湖ネッシーから「怪物サッシー」とマスメディアが命名しました。

そして『怪物サッシー』ほどではなかったですが、もう一人の話題のピッチャーが、昨年の選抜準々決勝で、準優勝した原辰徳氏の東海大相模に9回ツーアウトから逆転負けの、沖縄の豊見城の赤嶺賢勇投手。

海星の酒井圭一投手は春の選抜は出場してないですが(九州大会一回戦で、鹿児島実に0対2で敗退)、豊見城の赤嶺賢勇投手は九州大会で準優勝し、春の選抜にも出場しています。

3年生になる赤嶺賢勇投手は、昨年の選抜ベスト8と違いこの年の選抜大会は、一回戦で四国は高知の土佐に4対3で敗退でしたが、夏は甲子園3度目の出場。超高校級投手と呼ばれて当然でした。

更にもう一人が、春の選抜で小山を決勝でやぶって初出場初優勝し、春夏連覇を狙う広島の崇徳のエース、黒田真二投手。

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で、この超高校級の好投手3人は順当に勝ち進み、3回戦は崇徳と『怪物サッシー』の海星の対戦。

これは大いに盛り上がり、両投手の投げ合いは1対0で海星が勝利。崇徳の春夏連覇の夢は消え去り、これにて二試合連続2安打シャットアウトの『怪物サッシー』は、更にマスメディアの寵児になりました。

そして同じ3回戦で、こちらも注目の豊見城の赤嶺賢勇投手が選抜準優勝の小山を2対1でくだし、ベスト8進出。人気の酒井圭一投手、赤嶺賢勇投手が勝ち上がっています。


ところが、海星は4対2で東北をくだし準決勝進出しましたが、豊見城の赤嶺賢勇投手は、2年生ピッチャー星稜の小松辰雄投手(後の中日ドラゴンズ)との投げ合いの末、1対0で敗退。

いよいよ、マスメディアの頼りは『怪物サッシー』、酒井圭一投手一人だけになりました。

・全国大会
一回戦 ⭕️ 海星 2x-1 徳島商(延長10回)
二回戦 ⭕️ 海星 8-0 福井
三回線 ⭕️ 海星 1-0 崇徳
準々決勝 ⭕️海星 4-2 東北


準決勝のその海星の相手は、夏はこの大会で5回目の出場のPL学園で、1970年に決勝で東海大相模にやぶれ準優勝しましたが(初)、まだそれほど当時のPL学園には強豪イメージはなかったですね〜。

大方の予想は、優勝候補!『怪物サッシー』=酒井圭一投手擁する海星の勝ちでしたが、PL学園に延長11回、2対3で海星はさよなら負けしてしまいました。

勝戦は、準決勝で星稜をやぶった全くの無印だった西東京代表初出場の桜美林と、夏の決勝進出は二度目のダークホースだったPL学園の東京対大阪対決になりました。

この大会の2年後に「逆転のPL」なんて言われましたが、この時の決勝戦桜美林が2点差を追いつき延長戦の末、PL学園を4対3でくだし、あれよあれよで初出場初優勝!

というわけで、同年のドラフト会議で桜美林は夏の大会の優勝チームだったのに指名選手は0。注目の!東海大相模原辰徳氏は、早々に大学進学を表明していたので指名はなし。

人気の海星『怪物サッシー』=酒井圭一投手は、ヤクルトスワローズに堂々1位指名。春の選抜優勝投手の崇徳の黒田真二投手も日本ハムファイターズから1位指名。

豊見城の赤嶺賢勇投手も、読売ジャイアンツの2位指名を受け、広島希望だった黒田真二投手は入団を拒否し社会人にすすみましたが、酒井圭一投手と赤嶺賢勇投手は高卒でプロ入りしています。

で、この時、黒田真二投手の指名を逃した広島東洋カープは、同じ崇徳の内野手山崎隆造氏を指名。山崎隆造氏は後に広島の中心バッターになったのは、野球ファンなら誰もがご承知の通りです。

また、この年の読売ジャイアンツの3位指名が社会人の角盈男氏、5位指名が早大松本匡史氏ですから(1位指名が社会人の藤城和氏)、高校生の赤嶺賢勇投手の人気と期待が如何に凄かったかわかります。


が、しかし、、、

プロ野球の世界は厳しく、酒井圭一投手は1990年まで現役を続けましたが、怪我もありプロ通算は6勝12敗4S。引退後もヤクルトに残り打撃投手、スカウトを務めていました。

黒田真二投手は社会人入りしてから紆余曲折あり、1982年にドラフト外で酒井圭一投手と同じヤクルトスワローズに入団しましたが、こちらも怪我に悩まされプロ通算4年間で0勝7敗2S。

赤嶺賢勇投手も7年間のプロ野球生活で、この方もまた故障に悩まされ1軍登板数は僅かに4試合。通算0勝0敗で1983年に引退しています。

1977年のドラフト会議で、赤嶺賢勇投手が甲子園で投げ合い惜敗した1学年下の星稜の小松辰雄投手が、中日ドラゴンズに2位指名され入団すると、1979年には一軍に定着。豪速球投手として大人気。

1980年のドラフト会議では、こちらも甲子園で対戦し大学に進学した原辰徳氏が、ドラフト1位の鳴物入りで読売ジャイアンツに入団。プロとしては先輩だった赤嶺賢勇投手、何思うって感じですね。
 
毎年、毎年、春夏の高校野球で、マスメディアは超高校級とする選手を沢山排出しますが、2,3年するとだいたいのその選手の動向は、大学野球プロ野球で活躍しない限り忘れ去られていきます。 

でも、1976年夏、海星の酒井圭一投手は、東海大相模原辰徳氏と双璧の!大人気の!超高校級投手でした。



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