「荒木大輔世代」の西崎幸広氏、阿波野秀幸氏、川相昌弘氏も皆、高校時代は殆ど無名!

 

 


1982年、春の選抜は甲子園大会4季連続出場の早実3年生になる「大ちゃん」、荒木大輔氏の人気でもちきりでした。

勿論!優勝候補はその早実

で、早実は2回戦で岡山南を3対0でやぶりましたが、この時の岡山南の川相昌弘投手こそが、後に読売ジャイアンツ中日ドラゴンズで通算533本の犠牲バントの世界記録を樹立した、あの川相昌弘氏でした。

川相昌弘氏は夏は岡山県大会で敗れ甲子園出場はならなかったので、甲子園出場はこの1回だけ。

が、同年のドラフト会議では4巡目で読売ジャイアンツヤクルトスワローズ近鉄バファローズに重複指名され、抽選で読売ジャイアンツが交渉権を獲得しています。

この選抜大会、荒木大輔氏の早実は次の準々決勝で、翌年春夏連続準優勝する2年生の三浦将明投手擁する横浜商に1対3で敗れ、その横浜商を準決勝で敗ったPL学園が優勝。

PL学園のエース!榎田健一郎投手は同年のドラフトで、阪急ブレーブスに1位指名されましたが、残念ながらプロでは勝ち星なく引退しています。

一方、PL学園に準決勝で負けた横浜商の外野手、荒井幸雄外野手は早実荒木大輔氏に次ぐ!同年ドラフト2位で ヤクルトスワローズに指名され、プロ通算15年、中堅選手として活躍しました。

早実荒木大輔投手と投げ合って負けた川相昌弘投手と違い、一回戦で大敗した背番号10の西崎幸広投手!

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岡山南の川相昌弘氏よりも更に!この選抜大会で目立たなかったのが、後にプロ通算127勝22Sをあげた滋賀県代表の瀬田工の西崎幸広投手。

瀬田工は一回戦で明徳(現:明徳義塾)に0対10で負け、二枚看板で背番号10だった西崎幸広投手は全く注目されず、当然ドラフトにもかからず愛知工業大学に進学後、大学生になって大化けしています。

リーグ通算37勝をあげ、明治神宮大会でも3年時の1985年には東都の駒澤大、関西の近畿大をやぶり初の決勝進出。

当時、大学野球愛知工業大学など誰も知らなかったので、決勝で東京六大学慶應大に敗れ準優勝でしたが、西崎幸広投手は快挙だったと言えます。

そして、更に4年生になった西崎幸広投手は1986年には、決勝でこちらも東都の駒澤大をやぶって初優勝の大学日本一!同年のドラフト会議で、日本ハムファイターズに1位指名されました。

早実時代は荒木大輔投手の控え投手、法大時代もエース猪俣隆投手の二番手だった石井丈裕投手!

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そして早実荒木大輔氏の控え投手だった石井丈裕投手も、ドラフトにかかることなく法政大学に進学。

石井丈裕投手は西崎幸広投手と違い、大学時代も堀越OBで甲子園出場経験のない猪俣隆投手の控えで、石井丈裕投手が化けたのは社会人のプリンスホテルに入ってからでした。

結果、1988年のドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受けた石井丈裕投手は、プロ通算68勝10セーブ。

荒木大輔世代」の甲子園大会出場投手の中では西崎幸広投手に次ぐ、ピッチャーでは好成績を残しています。

石井丈裕投手と違い、法大のエースだった猪俣隆投手は1986年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。

プロ通算は43勝3Sと、猪俣隆投手は大学時代がピークだったかもしれないですね(全日本大学選手権優勝投手、2年連続日米大学野球の日本代表)。

当時、荒木大輔投手と並び1982年の春の選抜では「超高校級投手」と呼び名が高かった千葉県の千葉商大付高のエース、平沼定晴投手も尾道商に一回戦負け。

夏も地方大会で敗退してますが、同年のドラフト会議では中日ドラゴンズから2位指名を受け、プロ通算18勝5セーブなれど、貴重な中継ぎ投手として1998年まで活躍しました。

ちなみに平沼定晴氏は、ロッテオリオンズから中日ドラゴンズ落合博満氏を獲得した、牛島和彦氏・上川誠二氏・桑田茂氏との1対4のトレード相手としても名を残しています。

1982年夏の大会で、ノーヒットノーランを記録した佐賀商新谷博投手のプロ入りが1991年のドラフトだった長い道のり、、、

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荒木大輔世代」の、こちらもドラフトの目玉だったのが、夏の大会で優勝候補の早実を14対2でやぶって、そのまま勢いに乗り優勝した徳島池田の畠山準投手。

 畠山準投手も同年のドラフトで荒木大輔投手同様、南海ホークスに1位指名されましたが、ピッチャーとしては通算6勝止まりで、野手として1999年まで現役選手として活躍しています。

そしてこの夏の大会、一回戦の木造戦でノーヒットノーランを達成した佐賀商新谷博投手が同年ドラフトで、荒木大輔氏に次ぐ2位でヤクルトスワローズに指名されました。

が、入団を拒否し駒澤大学に進学。新谷博投手は大学時代は3年生までに16勝しましたが、怪我で4年生の1年を殆ど棒に振りドラフトにかからず、社会人の日本生命に入社しています。

社会人野球でも結果が出ないまま3年が過ぎますが、1990年になると絶好調期に戻り、社会人野球を代表する投手になり1991年のドラフトで西武ライオンズに2位指名を受け、遅咲きのプロ入り。

荒木大輔世代」の早実石井丈裕投手とは同じチームになり、1995年には二人揃って二桁勝利をあげています(チームで二桁勝利は二人だけ)。

1995年、荒木大輔投手は戦力外通告を受け、1996年に横浜ベイスターズに無償トレードに出され同年で現役を引退。1991年より横浜に移籍していた畠山準氏と、1年だけ一緒のチームでした。

荒木大輔氏のプロ通算は39勝2S。怪我に泣かされたプロ生活だったのは、誰もが御承知の通りです。

一方、1983年に高卒プロ入りした荒木大輔氏に遅れること9年、1992年にプロ入りした新谷博氏は2001年まで活躍しプロ通算54勝14Sでした。

荒木大輔世代」でプロ入り後、ダントツに最高の成績だったのは、甲子園不出場組の斎藤雅樹投手!

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荒木大輔世代」で甲子園不出場組には、ドラフト会議で荒木大輔投手を外した読売ジャイアンツに1位指名された市立川口の斎藤雅樹投手がいます。

斎藤雅樹投手は3年最後の夏の大会では、埼玉県大会の決勝で負けて甲子園出場はなりませんでした。

が、無名の西崎幸宏投手や阿波野秀幸投手と違い、埼玉県大会のピッチングが注目され「市立川口に斎藤あり」と超高校級投手としてドラフトの目玉の一人。

荒木大輔投手と夏の甲子園優勝投手の畠山準投手、春の選抜優勝投手の榎田健一郎投手が1位指名ですから、甲子園不出場組で1位指名の斎藤雅樹投手が、どれだけ高い評価を受けていたかわかると思います。

プロ通算180勝11S、最多勝5回・最優秀防御率賞3度受賞と、平成の大エースと呼ばれた斎藤雅樹氏が「荒木大輔世代」ではナンバーワン選手だったのは、誰も異論はないでしょう。

そして、1982年の3年生時には甲子園出場はなりませんでしたが、その前年の春の選抜では準決勝まで勝ち上がり、準優勝した千葉の印旛に負けた大阪の上宮には苫篠誠治氏がおりました。

苫篠誠治氏は、1982年のドラフトで西武ライオンズに2位指名され、長きに渡り中堅打者として活躍。

公立校だったので甲子園には無縁だった、阿波野秀幸

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甲子園大会には全く無縁だった「荒木大輔世代」の投手にもう一人、プロ通算75勝5Sの阿波野秀幸氏がいます。

阿波野秀幸氏は激戦区神奈川県の高校に通っていましたが、私立の野球有名校ではなく公立の市立桜丘高校だったので甲子園出場もなく、高校時代は無名も無名でした。

亜細亜大学に進学した阿波野秀幸氏は、大学通算32勝をあげ注目され、1986年のドラフトでは読売ジャイアンツ横浜大洋ホエールズ近鉄バファローズに1位重複指名を受け、抽選で近鉄に入団しました。

ちなみに大卒ルーキーの阿波野秀幸投手と西崎幸広投手は、1987年は共に15勝をあげる大活躍。

プロ入り5年目の荒木大輔投手も同年は10勝しており、私的には同世代の大卒ルーキーに荒木大輔投手は刺激されたのではないか?と思っております。

同じく甲子園不出場組では、近鉄バファローズに所謂「一本釣り」で1位指名された宮崎日本大学校の加藤哲郎氏がおりました。

加藤哲郎氏はプロ通算17勝6セーブでしたが、日本シリーズ3連勝後「巨人は(パリーグ最下位の)ロッテより弱い」発言で、その後、読売ジャイアンツが4連勝して逆転優勝したので、歴史に名を残してます。

同じく同年中日ドラゴンズに6位指名された、日大三時代は甲子園出場はなく、中学時代は荒木大輔氏と同級生だった宮下昌己投手。

宮下昌己投手もプロ通算は9勝3Sでしたが、読売ジャイアンツクロマティへの危険球に対しての殴打事件で、名前と顔をよく知られています。