ライオンズの東尾修投手の、ピッチャー人生は壮絶だったと思うね〜

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最近は名前を聞く事もなくなりましたが、私が若い頃は高校野球の強豪、名門校として名を馳せた和歌山県の箕島。

そんな箕島が初めて全国的に名を知らしめたのが、1968年の春の選抜に東尾修投手が率い初出場した時でした。

 

箕島はベスト4迄勝ち進み優勝した大宮工に敗れましたが、校名も東尾修投手も名を馳せています。

夏の大会は、和歌山県大会決勝で桐蔭に9回に逆転され甲子園出場はなりませんでしたが、東尾修投手は超高校級投手として、この年のドラフト会議で西鉄ライオンズに1位指名されました。

そんな東尾投手の1969年のシーズン1年目は0勝2敗。チームは5位。超高校級の速球投手と謳われた東尾修投手なれど、プロの世界では自分の真っすぐは二軍でも通用しないと、すぐに悟ったそう。

この若くしての悟りと、この年におきたプロ野球選手の八百長事件、所謂「黒い霧事件」で西鉄ライオンズの主戦投手、18勝の池永正明投手↓、8勝の益田昭雄投手、7勝の与田順欣投手が永久追放になった事が、この後の東尾投手の人生が激変したと言えるでしょう。


エースとローテーションピッチャー二人を失った1970年の西鉄ライオンズの結果は、当然最下位。

前年、既に大エース池永投手に続く12勝を挙げた川原明投手が13勝19敗、2年目の東尾投手が11勝18敗。この年1年目、ドラフト一位のルーキーイヤーの三輪悟投手が7勝14敗。

この年の西鉄ライオンズは43勝78敗9分け。優勝したロッテオリオンズと34ゲーム差の最下位で、この3投手とシーズン5月に永久追放になった池永正明投手の4勝で、43勝のうち35勝しています。

ちなみに川原明投手も高卒3年目で、プロ1〜3年目の3投手のこの成績。如何に当時の西鉄ライオンズが投手不足だったか?、誰でもわかると思います。

そんなボロボロの状態の西鉄ライオンズに、読売ジャイアンツから高橋明投手がトレードで移籍し、1971年に勝ち頭の14勝13敗をあげました。

が、3年目の東尾修投手が8勝16敗。三輪悟投手も川原明投手も共に4勝と数字を落とし、チームは38勝84敗8分けで、昨年より勝率を下げ、優勝した阪急ブレーブスに43,5ゲーム差をつけられる連続最下位。

結局、三輪悟投手も川原明投手もこの後、なんとなーく忘れさられていった投手でしたが、ここが東尾修投手の非凡なところで、これからエースとして頭角を表していくわけです。

1972年は、社会人からドラフト外で獲得した加藤初投手が17勝16敗で新人王になりましたが、勝ち頭は東尾修投手で18勝25敗。

チームは47勝80敗3分けで、優勝した阪急ブレーブスと32,5ゲーム差の3年連続最下位で、加藤初投手と東尾修投手二人で47勝のうち35勝をあげています(高橋明投手は1勝8敗で、この年で引退しました)。

まぁ〜3年連続最下位のうえ、シーズン終了後には西鉄太平洋クラブへの身売りが決定し、まだ一般的には大卒1年目ぐらいの年齢の、若き東尾修氏のプロ生活は本当に波瀾万丈でした。

太平洋クラブライオンズの1973年は、阪急ブレーブスから移籍してきた石井茂雄投手が12勝13敗。引退した高橋明氏と共に読売ジャイアンツから移籍してきた田中章投手が11勝10敗、南海ホークスから移籍してきた三浦清弘投手が8勝5敗。

加藤初投手が8勝11敗と数字を落としましたが、勝ち頭はやはり!東尾修投手で15勝14敗で、そこそこピッチングスタッフが充実した事もあり、ライオンズは4位のBクラスとはいえ最下位を免れています。

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ところがチームは1974年も連続4位でしたが、太平洋クラブが今度はクラウンライターに身売りし、又ライオンズは親会社が変わってしまい、1975年には東尾修投手と両エースだった加藤初投手が読売ジャイアンツに移籍。

1978年には又!クラウンライターが西武に球団を身売りするという、ライオンズ史の中でも激動の時代を、若き東尾修投手はエースとして活躍していました。

ちなみに私の口の悪い友達は当時、「東尾は他にピッチャーがいないから出れるだけ。他のチームだったら2軍のピッチャー」と苦笑いしてましたが、これは当たらずとも遠からずの辛口コメントだったと思います。

私も、当時は新聞での活字の数字情報しかパリーグの情報は入ってこなかったので、当時の東尾修投手の印象は(よく打たれて負けるピッチャーだな)しかなかったですから。


ちなみに私の口の悪いその友人は(大洋ファン)、よほど東尾修投手が嫌いだったのか、「東尾はビーンボール投げてる」と、東尾投手のデッドボールの多さを当時から指摘してました。

私もプロ野球好きでしたが、そこまでパリーグには興味を持ってなかったので、彼に言われる迄、その事実も知らなかったですが、活字の数字を見ると確かに死球が多かったですね。

まぁ〜、今も東尾投手の与死球165は通算でワースト1位ですから、ビーンボールとは言わない迄も、相当!東尾修投手は内角の厳しい所に投げ続けていたのは、紛れもない事実でしょう。



というわけで、そんな東尾修投手をエースとしたライオンズ(西武)が強くなるのは、1982年に広岡監督が就任、即!優勝してから。

結果的に勝ちより負けの方が多くても長年地道に投げ続けた東尾修投手は、この強くなったライオンズ時代の自身晩年に通算勝利数と敗北数をひっくり返し、最終的な通算成績は251勝247敗23セーブ。

 

生涯で勝ちが4つ上回りました。

1982~1983年に2連覇、1985~1988年まで4連覇と6度のリーグ優勝に5度の日本一。そして二度のシーズンMVPと一度の日本シリーズMVPと、現役晩年に光が当たった選手でした。