29勝でも米田哲也投手は最多勝になれなかった、最後の30勝投手!皆川睦男氏

1968年のパリーグは5人の20勝超え投手がおり、振り返ると20勝こそがエースの証明の時代を感じる古のシーズンでした。

南海ホークス→皆川睦男投手 31勝10敗。

・阪急ブレーブス米田哲也投手 29勝13敗。

西鉄ライオンズ池永正明投手 23勝13敗。

近鉄バファローズ→鈴木啓示投手 23勝21敗。

東京オリオンズ→成田文男投手 20勝11敗。


パリーグ6球団のうち20勝投手がいなかったのは東映フライヤーズだけでしたが、東映の勝ち頭が森安敏明投手の16勝23敗で、まぁ〜少なくとも15勝しないとエースとは呼ばれなかった時代ですね。

皆川睦男投手の31勝は『最後の30勝投手』であり、現在の分業制、投球数制限のある野球では、もう二度と30勝投手は現れないでしょう。

結局、米田哲也投手は29勝しても最多勝になれなかったのですから、思えば凄い時代でした。

ちなみに第一号大リーガー(当時はそう呼んでいた)で有名な南海の村上雅則投手は18勝4敗で、20勝には届きませんでしたが最高勝率を獲得しており、皆川睦男投手と二人で49勝しています。

皆川睦男投手は防御率1,61で防御率1位で最多勝と共に投手二冠。最高勝率の村上雅則氏が防御率2,38で2位と、投手三冠部門は南海ホークスが独占しましたが、僅差で阪急がリーグ優勝しました。

で、長年!南海ホークスを率いた鶴岡一人監督が勇退し飯田徳治新監督になると、主力選手の相次ぐ故障もありましたが球団史上初の最下位に落ち込み、翌年から野村克也氏が選手兼任監督に就任。

ここから、長〜い野村克也監督の歴史はスタートしています。

 


南海を振り切り、1968年のシーズンを制した阪急ブレーブスでしたが読売ジャイアンツとの日本シリーズでは再び2勝4敗で敗れましたが、この年のドラフト会議の阪急が凄い!

1位指名が後の284勝エースの山田久志氏で、2位指名が後の2千本安打を達成した加藤英司氏。7位指名が1065盗塁、2千本安打の福本豊氏と、この後の阪急黄金時代を築く選手を3選手獲得しています。

結局、西本幸雄監督は1969~1971年まで3連覇。1971~1972年に2連覇。5度のリーグ優勝を成し遂げ、弱小チームだった阪急ブレーブスを強いチームにし、1973年の2位を最後に勇退しました。

西本幸雄監督時代の不動のエースだった米田哲也投手は、1957〜1974年まで18年連続二桁勝利を上げましたが、1975年のシーズン途中に志願して阪神タイガースに移籍。両チームで通算10勝して15年連続二桁勝利。

この年で連続二桁勝利は途切れ、1977年の近鉄バファローズを最後に引退していますが、史上2位の通算350勝の米田哲也氏の最多勝は1966年の25勝の一度だけ。最優秀防御率も晩年の1973年の一度だけ。

一方、皆川睦男投手も1954年から1971年に引退するまで18年間、南海ホークス一筋で12回の二桁勝利をあげ通算221勝あげておりますが、最多勝最優秀防御率を獲得したのはこの1968年の一度だけでした。

ちなみに、史上1位の通算400勝、14年連続20勝をあげた金田正一氏も最多勝は28勝、31勝、30勝の3回だけ。

当時の20勝が当たり前の時代の各球団のエースピッチャーにとって、最多勝というのは大変な仕事だったんだな〜と今更ながら思います。