1973年の春の選抜高校野球は、練習試合含め栃木県大会、関東大会と、秋の新チーム以来、全勝、無失点、防御率0,00で甲子園に乗り込んできた「作新の怪物・江川」で湧きに湧いた大会でした。
まあ「作新の怪物・江川」は噂に違わず、甲子園でも快刀乱麻のピッチングを披露し、甲子園のスタンドは勿論、全国のテレビ中継をみていた野球ファン達の度肝を抜いていたわけです。
で、その「作新の怪物・江川」の連続無失点を止めたのが、準決勝の広島商、作新学院1-0のリードで迎えた5回裏の攻撃。
既にツーアウトなれど四球で出塁の達川氏(後に広島カープ)をセカンドにおき、エース佃正樹氏のフルスイングで当たったボールは、振り遅れのどん詰まりのフライなれど、ライト前へのポテンヒット↓(これがチーム初安打)。
ツーアウトだった事も広島商には幸いし、セカンドランナーの達川氏はフライがあがった状態で全力疾走でサードを回りホームイン。
「作新の怪物・江川」、甲子園大会は勿論、秋の新チーム結成以来、これが初失点!
結局、8回裏に広島商は四球と内野安打のランナーがツーアウトからダブルスチール。
「作新の怪物・江川」は次のバッターを三振にとればスリーアウトになるから、キャッチャーに投げるなと指示したそう。
ですが、結果的にキャッチャーがサードに悪送球。
セカンドランナーがホームを踏んで、これが決勝点になり、「作新の怪物・江川」は打たれたヒットはポテンヒットと内野安打の、僅か2本で(ただし死四球は8)、広島商に2-1で負けます。
で、
あまりにも「作新の怪物・江川」の快刀乱麻のピッチングと、この「これぞ広商野球」と言われた「作新の怪物・江川」が散った印象がこの大会は強いので、決勝戦も実は熾烈な戦いだった事を、殆ど今や語られないですが、、、
広島商と横浜の決勝戦は9回を終って0対0。
佃正樹氏は全5試合を投げ、ここ迄の失点は準決勝での作新学院の1点だけ。
しかし広島商のその佃正樹氏と横浜の永川英植氏(後にヤクルト)の投げ合いは、延長10回に両校1点ずつをとりあった11回。
連投の佃正樹は力尽きツーランホームランを浴び、3-1で横浜が初出場初優勝(横浜というと後の松坂大輔氏の頃が有名なれど、横浜を初めて有名にしたのはこの時)。
1973年の広島商、佃投手は春準優勝、夏優勝投手だった!
が、横浜が夏は神奈川県予選で敗退したのに対し広島商は夏も県予選を突破、甲子園に出場、堂々!優勝しています。
1973年の広島商、佃正樹氏の甲子園成績は10勝1敗。
まあ、広島商と言えば全国でも屈指の野球名門校。
その中でエースになるというのは並大抵の事ではないわけですが、更に!春は甲子園準優勝投手、夏は優勝投手の佃正樹氏。
どのようなプライドを当時もっていたか? 、知りたかったですね。
江川氏は阪急ブレーブスにドラフト指名されますがこれを拒否。慶應大を受験しますが不合格。
で、甲子園の春準優勝、夏優勝投手の広島商の佃正樹氏はドラフトでプロからの声はかからず法政大に進学。
ここで 慶應大を不合格になり法政大の二部に合格した江川卓氏と佃正樹氏は同級生になるわけで、当時の野球ファンなら誰もが!このお二人が、この後の法政大黄金時代を間違いなく築くだろうと思ったわけです。
甲子園大会で通算10勝以上して、プロ入りしてないのは広島商の佃投手だけ、、、
が、、、
結局、東京六大学通算47勝(歴代2位) の江川卓氏に対し佃正樹氏の大学通算成績は0勝1敗。
当然、佃氏はプロの誘いはなく、郷里の広島に戻り、三菱重工広島で野球を続けるも、残念ながら成績はパッとせず、いつしかボクの記憶の中からも佃正樹氏は消えてしまいました。
で、、、
佃氏の名前が久しぶりにマスメディアに登場したのは、2007年52才の若さで癌でお亡くなりになった時でした。
ネット情報によれば結婚もされお子様も3人おり、三菱重工勤務をし続け少年野球の指導もしていたそう。
なので、社会人として充実した人生を送られていたそうですし、東京のわりとボクなんかには身近な所にお住まいだったと知りましたが、、、
しかし52才で他界とは、あまりに早過ぎでしたね。
ちなみに春の選抜決勝で佃氏と投げ合い、ヤクルトスワローズに入団した横浜の永川氏も(プロではぱっとしなかった)、1991年に35才の若さで肝臓癌で他界されてます。