1969年のドラフト会議の目玉だった「法政三羽烏」の一人、今は亡き富田勝氏

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田淵幸一氏、山本浩二氏と共に、法政大学時代は「法政三羽烏」と呼ばれていた富田勝氏。

で、この「法政三羽烏」のお三方、誰も高校時代は甲子園経験がない。

富田勝氏の興国は全国大会優勝経験もありますが、3年最後の夏も準々決勝で明星に9回逆転負け。法政一の田淵幸一氏も、3年最後の夏は準々決勝、日大一にサヨナラ負け。

一番、全国的には無名校、広島県廿日市高校でエースで4番だった山本浩二氏も、3年最後の夏は準決勝で、広陵に負けてます。

お三方の地元、大阪・東京・広島は全国に名だたる野球強豪校がひしめく地域ですから、本当に甲子園に出るということは、大変な事だと思いますねー。

そんなお三方が高校3年時の春の選抜の優勝投手は、徳島海南の尾崎将司氏。あの!ゴルフのジャンボ尾崎氏です。

高校時代は甲子園に無縁だった法政三羽烏と、甲子園の大スターだった尾崎将司氏と池永正明氏!

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決勝で徳島海南に逆転負けしたのが広島の尾道商でしたが、尾道商は夏の広島県大会決勝で、山本浩二氏の県立廿日市に準決勝で勝った広陵に負け、春夏連続出場はなりませんでした。

尾道商のエースの小川邦和氏は後に早大に進み「法政三羽烏」や、明大の星野仙一氏と対戦、社会人を経由し、読売ジャイアン ツに入団してます。

また、興国の富田勝氏が負けた明星は、きっちり甲子園に出場しています。

この年の春の選抜は、その後プロに進み活躍する選手が多く、下関商池永正明氏、平安の衣笠祥雄氏、報徳学園には水沼四郎氏と基満男氏と谷村智啓氏。

和歌山海南には山下慶徳氏、市和歌山商には藤田平氏、倉敷工には菱川章氏と、錚々たる顔ぶれ。

夏の大会は高知が優勝しますが、高知には1回戦でデッドボールをくらい、決勝戦を病院のベッドでみていたそうな有藤通世氏がいて、修徳には成田文男氏がおり、なかなか「法政三羽烏」世代は凄い。

そんな甲子園組と違い、甲子園に届かなかった明大の星野仙一氏同様、「法政三羽烏」も大学に入ってから台頭します。

3年秋、4年春と「法政三羽烏」の法大はリーグ連覇。

4年秋は甲子園準優勝投手・小川邦和氏の早大に屈し優勝を逃しましたが、「法政三羽烏」はこの年のドラフトの目玉になりました。

高校時代は甲子園に無縁だった法政三羽烏と、甲子園の大スターだった尾崎将司氏と池永正明氏!

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通算22本塁打東京六大学記録を打ち立てた(当時)、大スター!田淵幸一氏は別格にして、山本浩二氏は大学通算、打率.293、8本塁打、30打点。

富田勲氏は打率.302、8本塁打、43打点と、大学時代の成績では富田勝氏の方が山本浩二氏より勝ってました。

1年目からドラフト1位指名の三人は揃ってシーズン開始から一軍で、新人王をとった田淵幸一氏は打率は.226ながら、本塁打22本、打点56でセ・リーグ新人王を獲得。

山本浩二氏が打率.240、本塁打12本、40打点。

富田勝氏が入団した南海ホークスには、不動のサード!国貞泰汎氏がいたので、富田勝氏が一番試合出場が少なく、打率も.246、本塁打6本、打点も19。

大スター!田淵幸一氏と違い、山本浩二氏も富田勝氏も、1年目から大活躍したわけではないんですね。

ちなみに、同世代で既にプロ入りしていた高卒の池永正明氏は、この年18勝をあげており、既に通算99勝の西鉄ライオンズの若き大エース。

オリオンズの成田文男氏も、この年は22勝をあげており、既に通算64勝の大エースでした。

衣笠祥雄氏も、レギュラーを獲得して2年目。堂々!広島東洋カープの、クリーンナップの一角。

藤田平氏はレギュラーを獲得して3年目。阪神タイガースの、早くも名ショートと呼ばれていました。

一方、大スター!田淵幸一氏でも、当時の阪神タイガースには正捕手!辻恭彦氏がおり(もう一人の辻佳紀氏は1970年にトレード)、、、

田淵幸一氏はファーストや外野のコンバートも試され、怪我もあり、不動の4番キャッチャーになるまで、これから4年もかかってます。

中日ドラゴンズにドラフト1位入団した星野仙一氏も、1年目は8勝9敗。

甲子園出場組で高卒プロ入りの、既に大エースだった池永正明氏と成田文男氏と、当時の星野仙一氏では格が違いました。

法政三羽烏世代は、古の好選手だらけ!

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ちなみに、同学年の衣笠祥雄氏と山本浩二氏は、この後、広島東洋カープの黄金時代のクリーンナップで大活躍しましたが、二人が仲良しこよしだったという話は聞こえてきませんでした。

 

これ、阪神タイガース藤田平氏と田淵幸一氏もしかり。

 

甲子園出場組で高卒プロ入り、甲子園には出てないけど大学で有名になった大卒プロ入り選手は、お互いプライドがあるので、同学年でも、仲良しこよしというのは、難しいのでしょう。


実際、既に大スター!の田淵幸一氏は別格にしても、星野仙一氏も人気のセリーグ

その後の処世術のうまさ、マスメディアを使った自らの宣伝の巧みさで、後世の人は池永正明氏、成田文男氏は知らなくても、星野仙一氏は知ってますからねー(監督としての実績は別にして)、、、。

プロ野球選手は、現役引退してからの人生の方が長いので、星野仙一氏は顕著ですが、社会人としてのサラリーマン的な処世術って、プロ野球選手もボクは大事だと思ってます。

で、話を「法政三羽烏」に戻して、、、

1970年、山本浩二氏の広島東洋カープに、富田勝氏の南海ホークスの不動のサード!国貞泰汎氏が、古葉竹識氏との交換トレードでやって来たので、富田勝氏は入団2年目で南海ホークスのサードに定着。

打率.287、本塁打23本、打点81と、「法政三羽烏」の2年目では、最も良い成績を富田勝氏は残しています。

国貞泰汎氏は広島出身なので、地元のカープでプレイがしたかったそうですし、古葉竹識氏も南海ホークスでの現役は2年で終わりましたが、その後コーチに就任。

野村克也監督兼選手の元、コーチ修業をやった後、古巣の広島東洋カープのコーチに戻り、監督になってるので、このトレードは三人が三人とも幸せになったトレードでした。

そんなドラフト1位獲得の富田勝氏を、南海ホークス野村克也監督(選手兼任)は4年でトレードに出してしまいます。
 
読売ジャイアンツ川上哲治氏から、力の衰えの著しい長嶋茂雄氏の代わりに、若い富田勝氏を欲しいと打診があったのでしょう。

入団2年目の好成績以降、富田勝氏は伸び悩んでいたのは確かですし、「富田・広瀬・門田・野村・ジョーンズ」と並ぶ南海ホークス打線は強力でしたが、投手陣がイマイチだったので、野村監督も投手が欲しかったと思われます。

富田勝氏との交換トレードで読売ジャイアン から獲得した、山内新一氏と松原明夫氏が1973年に大活躍!

山内新一氏は20勝、松原明夫氏が7勝を上げ、前年こちらも東映フライヤーズから獲得し、見事にエースピッチャーになった江本孟紀氏の活躍もあり、南海ホークスは見事リーグ優勝。

野村再生工場」と言われる元祖は、この3投手のことを指していましたし、このトレードも両者「幸せなトレード」のように思えました。

が、、、

読売ジャイアンツに移籍した富田勝氏は、とは言っても相手はMr.ジャイアン !、、、

富田勝氏は長嶋茂雄氏の控えのサード、そしてV9ナインのセカンド土井正三氏、ショート黒江透修氏の控えになっていたので、試合出場は減ってしまいました。

それでも古巣、南海ホークスとの日本シリーズには、長嶋茂雄氏怪我欠場のため、富田勝氏が出場。

 「法政三羽烏」で、リーグ優勝と日本シリーズ経験、そして日本一を最初に経験したのは、富田勝氏でした。

法政三羽烏の中でも人気、成績が抜群だった田淵幸一氏のプロ入り後の注目度は凄まじかった!

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そして長嶋茂雄氏引退の1974年には、川上哲治監督は富田勝氏を併用して起用。

富田勝氏は122試合に出場し、打率.265の成績を残し、128試合出場で打率.244の、打率だけなら長嶋茂雄氏より上回り、翌年のサードレギュラーを大いに期待されたものでした。

ところがV10を逃した(2位)川上哲治監督も勇退、現役引退し監督になった1975年の長嶋茂雄氏、自分の代わりのサードは大リーガー!とばかりに、デービー・ジョンソンを獲得。 

セカンドが本職のデービー・ジョンソンに慣れないサードをやらせたため、デービー・ジョンソンは大不振に陥り、打率は.197。

併用された富田勝氏も打率.189で、なんと長嶋巨人の1年目は最下位。

この年のシーズンオフ、日本ハムファイターズから張本勲氏獲得の為、高橋一三氏と共に富田勝氏はトレードに出されちゃう。

まぁ〜天下の張本勲氏ですから、エース球のローテーション投手とレギュラークラスの野手ということで成立したトレードでしたが、長嶋茂雄氏と富田勝氏は、ソリが合わなかったという話もあります。

そして、この長嶋巨人最下位の1975年、山本浩二氏の広島東洋カープが初のリーグ優勝。

 

 

監督は南海ホークスから戻ってきた古葉竹識監督で、山本浩二氏も首位打者を獲得、その後は衣笠祥雄氏と共に広島東洋カープ黄金時代の、押しも押されぬ主砲になりました。

同年、前年優勝の中日ドラゴンズと優勝の広島東洋カープと、7月までは熾烈な優勝争いをしていた阪神タイガース田淵幸一氏も、王貞治氏の連続本塁打王記録を阻止し本塁打王を獲得、打率も3割を超える大活躍。

遅ればせながら「法大三羽烏」の山本浩二氏と田淵幸一氏はこの頃、セ・リーグを代表する大打者になりました。

そして「法政三羽烏」の中で唯一!優勝に縁のなかった田淵幸一氏も、西武ライオンズ移籍後、富田勝氏が引退後の1982~1983年、広岡達朗監督の元、初めてのリーグ優勝・日本1を経験。

晩年に花を咲かせています。

そして「法政三羽烏」のもう一人の富田勝氏、、、。

日本ハムファイターズの1番バッターとして5年野球を続け、1981年の中日ドラゴンズを最後に引退しますが、プロ通算13年で4チームを渡り歩きました。

そんな富田勝氏は、セパ交流戦前の完全にシーズンはセパで分かれていた時代に、全球団からホームランを打った選手は、富田勝氏の他は江藤慎一氏、加藤秀司氏の3人しかいないという記録を持っています。

高卒でも大卒でも有名無名問わず、入ったプロ野球チームのその時のチーム事情で、その選手の人生は左右される!

プロ野球は入った球団のチーム事情、監督・コーチとの相性で、その選手のプロ生活は決まってしまうと言っても過言ではないと思います。

もし!下馬評通り、1969年のドラフト会議で大阪出身の富田勝氏を阪神タイガースが指名し、読売ジャイアンツ田淵幸一氏を指名していたら、よくも悪くも、お二人の人生は相当変わっていたと思われます。

もし富田勝氏が阪神タイガースに入団していたら、数年後には掛布雅之氏とのサード争いになっていたでしょう。

田淵幸一氏も読売ジャイアンツに入っていたら、キャッチャーには不動の正捕手!森昌彦氏がいたので、やはり外野にコンバートされていたかもしれないし、当時のジャイアンツの外野は「柴田・高田・末次」のV9ナイン。

森捕手の座を奪うも、外野のポジションをとるも、田淵幸一氏は容易ではなかったでしょう。

と、プロ野球選手も楽じゃないなーと思う、耄碌爺でした。
 
最後になりますが「法政三羽烏」世代で、監督になったのは田淵幸一氏、山本浩二氏、星野仙一氏、有藤道世氏、鈴木啓示氏、藤田平氏の6人で、優勝経験のあるのは、山本浩二氏と星野仙一氏の二人。

有藤道世氏は3年やり5位が1度で最下位が2度、鈴木啓示氏も3年やって4位→2位→6位。

田淵幸一氏も3年やり6位→5位→4位で、藤田平氏が2年やって共に最下位。

皆、二度と監督として声がかかる事はありませんでしたし、山本浩二氏も優勝経験は1度あれど、10年やってBクラス7回ですから、名監督とは、お世辞にも呼べません。

中日、阪神楽天と3球団で監督をやり、3球団全てでリーグ優勝してる(中日では2度)星野仙一氏だけが、監督として成功者だったと言えますが、、、

前出の通り、星野仙一氏は甲子園は無縁、大学時代も優勝には無縁でしたし、プロ現役時代も、そして中日・阪神の監督時代も日本シリーズで全て負け。

晩年、最後に楽天ゴールデンイーグルスの監督で、日本一になってますから、そのへんは神様がうまくバランスをとってるんだなーと思いますねー。