千葉ロッテマリーンズ オーナー・ロッテ財閥の在日韓国人、重光親子とプロ野球



 

日韓併合時の1941年、朝鮮半島から志を抱き、僅か83円持って関釜連絡船に乗ってやってきた19歳の青年、重光武雄氏。

1941年と言えば、真珠湾攻撃からの一斉攻撃に日本が出た年で、それから半年間は日本の圧勝時期です。

新聞・牛乳配達をしながら新宿の早稲田実業で学ぶ、真面目で誠実な若き重光武雄氏をみて日本人投資家が出資。重光武雄氏は、若くして切削油生産工場を設立してるのですから、たいしたもんです。

ところが次第に日本の戦争の形勢は悪くなり、工場が稼働する前にアメリカの空襲で、工場は灰になってしまった。

重光武雄氏は廃屋の工場で、石鹸を作り、投資家に1年半で借金を返済したそうですから、やはりやる奴はいつの時代でも、どんな環境でもやるもんだと、痛感させられます。

そして日本敗戦、日韓併合は終わりますが重光武雄氏は朝鮮半島に返らずに、日本に占領統治にやってきたアメリカ軍の噛んでるチューインガムに注目。

当時の敗線国の日本は甘美が入手しずらい状況で、老舗のお菓子メーカーが苦戦する中、ここで敗戦国の日本人でも戦勝国アメリカ人でもない、重光武雄辛格浩の第三国の在日の立ち位置が、役に立ったのでしょう。

ちなみに「三国人」が差別用語と騒いでる人で、こうした戦勝国でも敗戦国でもない、第三国の在日=「三国人」となった、その言葉の成り立ちを、ちゃんとわかってる人が少ないのを、ボクは知ってます。

差別用語でもなんでもない、ただの区別分類。サヨクは本当に無知なバカが多い。

若き重光武雄氏は、どうやってGHQにとりったんでしょうね〜?

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重光武雄氏、この時26歳です。

1965年、日韓基本条約により両国の関係が正常化すると、重光武雄氏は母国の韓国での事業に乗り出し、これが今の韓国のロッテ財閥の始まり。

さて、そんなイケイケどんどんの重光武雄氏に、親交のあった安倍元総理の爺様、岸信介氏が接近します。

重光武雄氏は、経営が行き詰まっていた大映永田雅一氏の持つ野球チーム、「東京オリオンズ」を買って欲しいと岸信介氏に持ちかけられます。

重光武雄氏は義理固いのでしょう、実は全く野球に興味がないのに球団を買うわけで、この重光武雄氏の野球ヘの興味のなさが、後々、問題が起きるわけです。

興味がないから金は出すけど球団経営は大映のままで、1969年、球団は「東京オリオンズ」から「ロッテオリオンズ」に名前が変わりスタートしました。

ボクは子供心に、お菓子屋が野球チーム?変なのと当時は感じました。

その後、ヤクルトや日本ハムが参入しましたが、当時のプロ野球は新聞社や鉄道会社が主なオーナーだったので、お菓子屋のロッテは異色でしたので。

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当時の「ロッテオリオンズ」は強く、1年目は3位で2年目には早くもリーグ優勝を決め、大映永田雅一氏の東京球場での胴上げは、新聞でも話題になりました。

が、日本シリーズでは有利と言われてましたが、無敵のV9継続中の読売ジャイアン に1勝4敗と負けてしまい、更に大映もいよいよ経営がアウト。

東京球場での永田雅一氏の胴上げが、氏の最後の晴れ姿でした。

というわけで、球団経営も完全にロッテに渡ったわけですが、なんと言っても重光武雄氏は野球に全く興味がないので、永田雅一氏と親交があり副オーナーだった中村長芳氏が、1971年はオーナーに就任。

前年のパリーグ優勝監督の濃人氏の審判への抗議の放棄試合が、責任とらされ二軍監督に降格。代わって二軍監督から、一軍の監督になったのが大沢啓二氏ですが、このへんは中村長芳氏の意向でしょう。

強いロッテはこの年リーグ2位でしたが、大沢啓二氏は中村長芳氏の命なのか?重光武雄氏の命なのか?ボクにはわかりませんが、シーズンオフに年棒の高い選手のリストラを始めました。

当時のパ・リーグは本当に人気がなかったので、強いので年棒も皆どんどんアップするので経営が圧迫されたのでしょう。

「打つだけでは阪急や巨人に勝てない」という大義名分で、主軸の「ロペス・榎本・江藤」を放出し1972年のシーズンに臨んだ大沢ロッテでしたが、結果はなんと5位。

金田正一監督の決断で、東京スタジアムは終焉!

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代行から5年契約を結んだ大沢監督、たった1年でクビ。

中村長芳氏も1972年、こちらも球団経営が難しくなっていた西鉄ライオンズの新たな買い手が見つからないので、自らが買い上げオーナーになった為、協約上ロッテのオーナーを辞めてしまいます。

更に、ロッテのホームグラウンドだった東京球場は、永田雅一氏と親交のあった小佐野賢治氏がオーナーになってましたが、とにかく繰り返しますが当時のパ・リーグは不人気で、どの球場も閑古鳥。

小佐野賢治氏は重光武雄氏オーナーに、球団と球場は一本化した方が良いと売却しようとしますが、とにかく重光武雄氏は野球に興味のない実直な経営者。

球団経営だけでも大赤字なのに(広告宣伝費代わりにはなる)、球場まではと躊躇し、更に新監督に招いた金田正一氏が、「東京球場は狭いから本塁打が出やすい。投手泣かせ」の一言で球場の閉鎖が決定。

いくら野球に興味のない重光武雄氏でも、同じ在日韓国人で野球界のスーパースター、大投手の金田正一氏ぐらいは知っていたでしょうから、正に!鶴の一声だったのでしょう。

ここにプロ野球史上初の!ホーム球場を持たないジプシーチームが誕生したのは、ひとえに! 重光武雄氏が野球に興味がなかったのと、金田正一氏の決断が理由です。

ちなみに1972年は、2年前に銀座1号店を出店以来、怒涛の快進撃を続けていたマクドナルドにロッテが対抗し、ロッテリア日本橋高島屋松坂屋上野店に出店した年。

なんだかんだで2020年現在、球団は半世紀以上、ハンバーガーも半世紀弱とロッテの歴史は長いです。

 

そして!、、、

いくら強くても、それまで人気もなければ注目もされなかったロッテでしたが、その言動も面白がられた、天下の!金田正一氏が監督になってから、ロッテの注目度は格段にアップしました。

大投手でありスターの金田正一監督はロッテ商品は勿論、テレビCMにも積極的に出、マスコミ陣にもリップサービス一杯で、金田ロッテは話題になり、そして何と!金田ロッテは2年目にして日本1。

残念ながらこの年、1973年のシーズン終盤は、長嶋茂雄氏の引退一色だったので、セ・リーグの優勝チーム、中日ドラゴンズを倒した金田ロッテの日本1の印象は、薄くなってしまいました。

が、それにしても見事なものでした。

これも繰り返しますが、本当にこの頃のロッテは強かった!濃人ロッテのリーグ優勝から、金田ロッテの日本一までの5年間の後の3年も、大沢ロッテの5位の他は2位と3位とAクラスキープしてますからねー。

当時のパ・リーグの優勝候補は、阪急ブレーブスか?ロッテオリオンズ、はたまた南海ホークスか?ってぐらい、ロッテは強かった。

落合博満氏、村田兆治氏等、個性的な選手が多かったロッテ!

1977年になると、新設された横浜球場への移転が決まっていた大洋ホエールズのホーム球場、川崎球場のロッテの本拠地が決定。ジプシー生活にロッテは終わりを告げます。

当時のパリーグ は前期後期の二期制だったので1980年、1981年とロッテは2年連続で前期優勝しますが、後期優勝の近鉄日本ハムプレーオフで負けてリーグ優勝ならず。

その後は、3度の三冠王に輝いた落合博満氏、レロン・レオンのリー兄弟や村田兆治氏などで、ロッテは川崎球場で一時代を築きました。

が、しかし、、、

リーグ優勝から遠ざかるも、まだまだ!強いロッテが弱くなったのが、Mr.ロッテと謳われた有藤通世氏の現役引退後、即監督になっての3年間。

有藤ロッテの1987年は5位、そして1988~1989年は屈辱のチーム史上初の連続最下位。

ドラフト 1位でロッテに入団以来、Mr.ロッテとして活躍してきた有藤通世氏は、重光武雄氏が球団を買ってから初の生え抜き監督でした。

如何に野球に興味のない重光武雄氏とはいえ、Mr.ロッテの有藤通世氏が可愛くないわけがない。それまでの3年間、2位、2位、4位だった稲尾和久監督を解任しての有藤通世監督でしたが、、、

かつて大沢啓二監督時代と同じ、機動力野球・守りの野球を大義名分に、落合博満氏のトレードとレロン・リーは使わないことを条件に監督を引き受けましたが、大沢啓二氏と同じ過ちを犯し3年で解雇。

その後、再び金田正一氏を呼び戻したり(5位、6位)こちらも「東京オリオンズ」からの生え抜き、八木沢荘六氏を監督に据えますが(6位、5位、5位)、ロッテの弱体化は止まらずになってしまいました。



韓国で「ロッテジャイアンツ」も作りましたが、本音は野球に興味のない重光武雄氏と違い、ロッテが激変したのは、重光武雄氏の次男、昭夫氏が1991年に球団社長代行に就任してからでしょう。

この時、重光昭夫氏36歳!

チームは八木沢荘六氏のもと低迷を続けていましたが、川崎球場から今の千葉マリンスタジアムにロッテの本拠地を移転。

球団名も今の「千葉ロッテマリーンズ」と、千葉の地元密着型、海をイメージさせる球団名に変えたのは重光昭夫氏です。

埼玉所沢のライオンズ、横浜のベイスターズの成功を鑑みての決断でしょうが、重光昭夫氏のこの大英断は一大プロジェクトでした。

既に千葉県浦安の東京ディズニーランドはオープンし大人気でしたし、マリンスタジアムのある幕張も近代都市として注目されていたとはいえ、千葉は千葉(笑)。

36歳の重光昭夫氏のこの大英断は、リスクも大きかったと思います。

2代目の重光昭夫氏は兄と共に「お坊っちゃま君」で、日本一学費の高いと言われた渋谷の松濤幼稚園から、青山学院初等部入学。

そして青山学院大の二部卒ですから、きっと若い頃は遊び人だったのではないでしょうか?(笑)。

コロンビア大学の大学院に留学後、野村証券のロンドン支店で6年勤務後ロッテ商事に入社。また、在日2世なので幼い頃から韓国と日本を行き来してたのは日常生活だったでしょう。

ですから、重光昭夫氏は国際感覚はかなりある若者だったと思われます。

が、しかし、当時の弱いマリーンズに対し、弱くてもベイスターズを応援し続ける横浜市民と違い、千葉県民はやや冷淡。

パリーグ会長に、球団社長代行の重光昭夫氏は「もっと頑張って欲しい」と注意されています。

二代目、重光昭夫氏の葛藤、、、

 

結局、有藤道世氏が監督になる条件で放出した落合博満氏は、トレード先の中日ドラゴンズで1988年に優勝。FA取得で読売ジャイアンツ移籍後は、1994年、1996年と3度もリーグ優勝しています。

そんな3度の三冠王を取得した落合博満氏とのトレードは、牛島和彦氏、上川誠二氏、平沼定晴氏、桑田茂氏との1対4でした。

ロッテにやってきた牛島和彦氏も、1987~1988年と連続セーブ王を記録するほど大活躍。上川誠二氏もレギュラーとして定着したので、このトレードは大失敗だったわけではありません。

また、、、

ディアズ、愛甲猛氏、初芝清氏と大きいのを打てる選手もいたし投手陣も粒は揃っており、足のある西村徳文氏など、当時のロッテには魅力的な選手もいたのに、ロッテはBクラスが定位置になってしまった。

その原因は、その後は二度とどこからも声がかからない有藤道世監督と、ピッチングコーチとしては各球団で実績は残せど、監督としてはやはり二度とどこからも呼ばれない八木沢荘六監督の責。

と、考えるのはファンも球団フロントも同じだったと思われます。

そして1995年、代表取締役に昇格した重光昭夫氏、球界初のゼネラルマネージャーを設け広岡達朗氏を招聘、外人監督のボビー・バレンタインを監督に据えました。

するとなんと!この年は10年ぶりのAクラス(2位)。

翌年の優勝を大いに期待されますが、またまた!ロッテ名物とも言えるお家騒動が起きます。

外人のバレンタイン監督と、日本人のコーチ陣の間では不協和音があったそうで、ヘッドコーチだった江尻亮氏が辞任を申し出ると、重光昭夫氏はオーナーの父、重光武雄氏に裁定を任せます。

結局、重光親子はバレンタインの解雇を決定し、10年ぶりAクラスの功労者の監督解任は、かなりのニュースになりました。

結果、江尻亮氏が監督に昇格した1996年でしたが、チームは再びBクラスに戻り5位。

広岡達朗氏は契約を残しここで解雇され、弱小だったヤクルト、そして最強西武を築いた広岡達朗氏にとっては、屈辱の解任だったと思います。

更には、エースの伊良部秀輝氏はアメリカに行く行かないで大揉めの末、ニューヨークヤンキースに移籍。2年連続二桁勝利をあげたヒルマンも、巨人に金銭トレードで移籍。

バレンタインも解雇、ゼネラルマネージャーの広岡達朗氏も解雇、そして二人のエースをお家騒動で失なったロッテは、この後また!9年連続のBクラス。

野球に興味のなかった重光武雄オーナー、熱意たっぷりの若き重光昭夫代表取締役、どうもこの頃、プロ野球界の中で重光親子は、浮いた存在だったのは否めなかったです。

とはいえゼネラルマネージャーは、今はわりと普通に導入されていますし、巨人に移籍したヒルマンは結局、故障で殆ど登板しないまま、渡辺恒雄オーナーに「金やるから出てってくれ」と激怒され日本から去ってます。

伊良部秀輝氏のMLB移籍も、その後の多くのMLB移籍を思えば、どうってことのない話なので、当時の重光親子は、それほど間違ったことをしてたわけではないですね。

ただ、空回りしてた。

結局、万年Bクラスの弱小チームになり下がったロッテは2004年、再び!バレンタイン監督を招聘。

バレンタイン監督復帰2年目の2005年、なんと31年ぶり、金田ロッテ以来のリーグ優勝!そしてセ・リーグ優勝の阪神タイガースを、ストレートの4連勝で下し、こちらも31年ぶりの日本1。

かつて、広岡達郎氏とバレンタインは確執もあったそうですが、ここで和解したとか。

で、残念ながら今のところ、これがロッテの最後の優勝で、また優勝から遠ざかってます。

今や、千葉といえばロッテマリーンズと人気も定着しているので、ここらでまた!強いロッテに戻ってもらいたいものです。

余談ですが、重光昭夫氏と兄が通っていた松濤幼稚園は、今は閉園になり、楽天の三木谷会長邸になっています。