野村克也氏のID野球のルーツ!阪急のダリル・スペンサー、南海のドン・ブレイザー

 


bb-supe-wa-173420170103-ogp_0

 

楽天市場で調べる

南海ホークス時代、野村克也氏とバッテリーを組んでいた江本孟紀氏が、野村克也氏で有名な日本のID野球のルーツは、ドン・ブレイザーとダリル・スペンサーの元大リーガーの二人だと断言しています。

江本孟紀氏によると、それまで万年Bクラスの弱小チームだった阪急ブレーブスが、前年の最下位から1964年にいきなり2位に浮上(優勝は南海ホークス)した謎を、捕手の野村克也氏が調べたとか。

この年から、阪急ブレーブスには元大リーガーのダリル・スペンサーが加入し打率.282、本塁打36本、打点94と大活躍しますが、大柄でマッチョな外見と異なりスペンサーは知的で緻密な男だったそう。

西本幸雄監督はスペンサーを「野球博士」と絶賛し、青田昇コーチはスペンサーの投手、捕手の癖を見抜く力に長けておりナンバーワン外国人とこれまた絶賛。

その相手投手と捕手の癖をノートに必ず記し、また、相手の打者の打球の行方までも守備陣に指示し守備位置を変えさせたそうで、南海ホークス野村克也捕手はその所謂『スペンサーメモ』こそが、阪急ブレーブスが急に強くなった原因だと調べたそう。

結局、有名な野村克也氏の「考える野球」「ID野球」の大元のルーツはこのスペンサーであり、もう一人直接のツールになるのは、こちらも元大リーガーで同僚になるドン・ブレイザーという事になります。

show_img.php



Yahooショッピングで見る

ブレイザーはスペンサーに遅れる事3年、1967年に南海ホークスに入団し、こちらはスペンサーと違い大きいのは打てませんでしたが、堅実なバッティングと守備力が持ち味で、その守備力は日本の野球を変えたとも言われています。

まぁ〜当時の日本のプロ野球は、まだアメリカ大リーグ(今で言うMLB)と格差があったのは事実で、読売ジャイアンツの不滅のV9も大リーグのドジャース戦法をかなり真似した成果とも言われています。

というわけで1967年、来日4年目で38歳になったスペンサーは30本塁打を放ち、チーム史上初のリーグ優勝に貢献。1972年に引退しますが、強い阪急ブレーブスを作った大功労者なのは間違いありません。

一方、スペンサーと違いブレイザーの日本での現役生活は3年と短く1969年に引退。35歳で選手兼監督を任された野村克也氏は、引き受ける条件にブレイザーのヘッドコーチを要請したそう。

これにてブレイザーの「シンキングベースボール」が、野村克也氏の「ID野球」に継承され、南海ホークスでリーグ優勝1度、ヤクルトスワローズで4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いたわけであります。