1964年4月、ザ・ビートルズが全米ビルボードチャート1位から5位までを独占!

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ザ・ビートルズはシングル「抱きしめたい」で1964年2月に、イギリス勢として初のアメリカのビルボード Hot 100シングルチャートで1位を獲得!

以降7週連続でトップを突っ走り、アメリカそして世界でザ・ビートルズ旋風が吹き荒れるとっかかりになり、4月には何と1位から5位までをチャートを独占。 その時の1位から5位までの曲は以下のとおり。

1位「キャント・バイ・ミー・ラヴ」
2位「ツイスト・アンド・シャウト」
3位「シー・ラヴズ・ユー」
4位「抱きしめたい」
5位「プリーズ・プリーズ・ミー」


当然ながらこの記録は、未だに破られておりませんが、ザ・ビートルズが凄かったのはトップ3独占は3月14日にも達成しており、その時の3曲が以下のとおり。

1位「抱きしめたい」
2位「シー・ラヴズ・ユー」
3位「プリーズ・プリーズ・ミー」


更に翌週の3月21日もトップ3独占!「シー・ラヴズ・ユー」と「抱きしめたい」の順位がひっくり返ってます。

1位「シー・ラヴズ・ユー」
2位「抱きしめたい」
3位「プリーズ・プリーズ・ミー」


更に更に!翌週の3月28日も、3週連続でトップ3を独占!

1位「シー・ラヴズ・ユー」
2位「抱きしめたい」
3位「ツイスト&シャウト」


そして4月4日のトップ5独占になっており、トップ5独占なんて前人未到の記録が凄すぎるので、こちらのトップ3独占が影が薄くなってますが、これだけでも凄いことです。しかも3週連続なんて、、、。

ですから、如何に1964年2月から4月の、アメリカにおけるザ・ビートルズ旋風が凄まじいモノだったのか?今更ながら思わされます。

さらにトップ5独占の同日の、100位以内にもザ・ビートルズの曲は他に7曲もチャートに入っています。

31位「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」
41位「フロム・ミー・トゥ・ユー」 
46位「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノゥ・ア・シークレット」 
58位「オール・マイ・ラヴィング」 
67位「ユー・キャント・ドゥ・ザット」
68位「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン
79位「サンキュー・ガール」 


初のザ・ビートルズ主演映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」の撮影は、トップ3独占前に開始。

ですから、映画制作する段階では、ザ・ビートルズも映画スタッフも、こんな大変なことがアメリカでこの後起こることを、全く知らなかった。

正に!映画撮影中に、これは起きた「事件」であり、ザ・ビートルズもマネージャーのブライアン・エプスタインも他スタッフも、来るニュース来るニュースが驚きと歓喜のニュースばかり!

まぁ〜普通に考えて夢心地、有頂天だったでしょう。

そして映画の撮影は4月下旬に終わったわけで、もーうそこの時のアメリカはザ・ビートルズ旋風の真っ只中!

同年イギリスで7月、アメリカで8月に上映されたこの映画も大ヒットし、主題歌の「ア・ハード・デイズ・ナイト 」も当然のように英米チャートで1位を獲得。

1963年からイギリスでは続いていた、そしてアメリカでは1964年に爆発したザ・ビートルズ旋風は、止まることを知らない勢いでした。

また、1964年2月はザ・ビートルズが初めてアメリカに上陸し、全米ネットテレビ番組の「エドサリヴァン・ショー」に出演。

視聴率は72%という脅威的な数字を記録し、このテレビ番組出演が、その後のチャートのトップ5独占に一役買ったと言えるでしょう。

一方、日本でザ・ビートルズのレコードが初めて発売されたのが同年2月、東芝からの「抱きしめたい」で、アメリカでの「抱きしめたい」のチャート1位に合わせた発売です。

というわけでイギリスは元より、アメリカよりも日本はザ・ビートルズのレコード発売は遅れていました。

なので、実際にイギリスやアメリカのように、リアルタイム1963~1964年当時、日本でザ・ビートルズはそこまで流行ってないです。

1964年の日本は、前回の東京オリンピック開催の年で、こちらの方が当時の日本人は大盛り上がりだったのは、若い人でも想像がつくでしょう。

1964年の日本レコード大賞受賞曲は、青山和子さんの「愛と死をみつめて」。新人賞は西郷輝彦氏と都はるみさん。これから「橋幸夫舟木一夫西郷輝彦」の御三家の時代になる、日本はそんな時代でした。

更には、1965年にはザ・ヴェンチャーズ、アストロノウツによる「エレキの夏」、空前のエレキブームが男の子の中で日本では起き、主役はザ・ビートルズではなくこちらのエレキインスト。

勿論、それなりのザ・ビートルズファンは当時からいたと思いますが、リアルタイムでザ・ビートルズが日本で本当に盛り上がったのは1966年の来日時で、少しイギリスとアメリカと熱狂の時期がズレてます。

日本でも当時は洋楽ヒットに日本語詞をのせる「和製ポップス」が流行っていたので、東京ビートルズスリーファンキーズが、ザ・ビートルズの楽曲をカバーしてますが、ヒットしてません。

イギリス、アメリカのビッグバンだったザ・ビートルズなれど、当時の日本ではそうでもなかった、、、

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なので日本の場合、イギリスやアメリカと違いちょっと特殊で、1965年のインストのエレキブームから、1966~1968年の歌を唄い演奏するグループサウンズブームになっており、イギリスとアメリカとは様相が違うんです。

というか、今では当たり前ですが自分たちで曲を作り演奏し歌うザ・ビートルズのスタイルは、当時の日本の歌謡芸能の世界を仕切っていた「ジャズの人たち」には、営業妨害以外のなにものでもない。

当時は作詞作曲者と歌手、そしてその歌手のレコーディングをしたりテレビや公演で演奏するのはジャズのビッグバンドと、分業制で日本の歌謡芸能の世界は成り立っていましたから。

ザ・ビートルズのようなスタイルが流行ったら、彼らは飯の食いあげになっちゃう(結局、長い歴史の結果そうなりましたが)。

だから当時の日本では「噂のザ・ビートルズ」に対する風当たりは相当!強く、イエーイエーと叫んでるガチャガチャうるさいだけの素人音楽をやる、長髪のイギリス乞食というのが、当時の日本の大人の評価でした。

おそらく歌謡芸能の世界を仕切ってた「ジャズの人たち」が、意図的に流したこれは情報だったと思います。

今も昔も日本人は自分がバカだと周りに思われたくないので、すぐ権威象徴の情報に擦り寄りそれを復唱する国民性ですから、すぐにこういう情報は広まっちゃう。

敗戦後、占領軍アメリGHQ相手に演奏しギャラをもらい稼いだ金で築いた、彼らジャズマンの「マネーマシン」=歌謡芸能の世界を、ザ・ビートルズは壊しかねない商売敵、厄介な存在。

結局、この空気が1966年のザ・ビートルズ初来日の頃にも蔓延しており、今も伝説になってるすったもんだがあったわけで、また、グループサウンズブームも、ジャズの人達は良くは思ってなかったでしょう。

唯一、ジャズの人達の仲間、歌手のバック演奏やレコーディングをやっていたジャキー吉川とブルーコメッツだけは、オリジナル曲を作って自分たちで歌って演奏しても認めてやる。

でも、あとの「素人の小僧達」のバンドなど、断じて認めない。

これが、グループサウンズブームのジャズの人達や大人の定説でしたから、あれだけ圧倒的な人気があってもレコードが売れまくっても、ザ・タイガースレコード大賞も無縁で紅白歌合戦も呼ばれなかった。

また、グループサウンズザ・ビートルズの影響と伝わっておりますが、彼等がやってた曲はザ・ローリングストーンズの方が多く、ザ・ビートルズのカヴァーをやってるグループは、殆どいませんでした。

巨匠!渋谷陽一氏の意見をいつも引用流用させてもらってますが、私も「日本にビートルズ世代なんていない」論者で、いるとしたら2024年現在、70代前半の爺さん婆さんの筈。

若者や青年達の完全な後追いビートルマニアの方、身内含めそこらの70歳前後の爺さん婆さんに、ザ・ビートルズの思い出を聞いてみると良いです。びっくりするぐらい何も知らないですから(笑)。

なので、後世の若いザ・ビートルズファンや古のロックファン達は、当時のイギリスやアメリカのザ・ビートルズ現象を、日本には当てはめない方が良いと思います。

日本は、調べればすぐわかりますが、ちょっと違ってましたから。

日本でザ・ビートルズが正当に音楽や演奏力が評価され、ロックバンドと普通に今のように認知されるのは解散して数年後、所謂「青盤・赤盤」が発表されたあたりからで、そして今に至っています。 

私も解散頃からの遅れてきたビートルマニアですが、自分と年の近い女性で熱狂的なザ・ビートルズファンなんて一人も会った事ないですし、男も今の今まで数えるほどしかいません。

吉田拓郎教信者」「ユーミン崇拝婆さん」「永ちゃん最高爺」なら、石投げればすぐあたりますけど(笑)。