映画「アメリカン・グラフィティ」は、何が!そんなに斬新で凄かったのか?





1962年夏の、とあるアメリカの地方都市の若者達の1日を描いた、言ってみれば他愛もない物語の映画「アメリカン・グラフィティ」。

おそらく多分、2023年現在の少年少女青年が、初めてこの映画を観て興奮したり感動したりすることは、100%ないでしょう。

何故なら、この映画で使われてた「古きアメリカ」をイメージさせる街並み他の映像や音楽の手法は、その後、多くの!映画で引用流用されてるので、新鮮さがもはやないからです。

また、繰り返しますが、物語は他愛もないですから。

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まぁ〜映画会社のお偉方も、若きジョージ・ルーカスが完成した「アメリカン・グラフィティ」を当時観せたところ、こんなもん当たるわけがないとボロカスに言われたとか。

そのぐらい「アメリカン・グラフィティ」は、アメリカ公開1973年時の時代背景、そして当時の若者の空気とは全く真逆な、風代わりな映画でしたから。

 当時の日本も、所謂「団塊の世代」の若者達が長髪にラッパのジーパン履いて、和製ふぉーくに陶酔していた、空前の「ふぉーくブーム」が吹き荒れていた時代。

一方、GSブームからのジュリー=沢田研二氏、新進気鋭の!郷ひろみ氏、野口五郎氏、西城秀樹氏のアイドル人気、女性では天地真理さん、南沙織さん、小柳ルミ子さんが人気のそんな時代に、、、

今で言う「オワコン」=短髪にして古いアメ車の話しをするとか、1960年前後のアメリカのヒット曲を聴くなんて、日本でも相当な!マニア以外いなかったですから。

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ここねっ!

この当時の時代背景、空気がわからないと、「アメリカン・グラフィティ」の何が偉かったのかが、わからないようになってるからこの映画は面倒くさい(笑)。

よって、当時無名のジョージ・ルーカス監督、出演者達も全く無名の映画「アメリカン・グラフィティ」は、実はアメリカ上映のリアルタイム日本で上映されていません。

当時の日本の配給会社も、こんな無名監督の今で言う時代に逆行したオワコン映画、ヒットするわけがないと、相手にしてなかったのは、商売人としては当然だったでしょう。

ところが!蓋を開けてみると「アメリカン・グラフィティ」は1973年の北米映画興行収益の3位を記録する大ヒット!(1位は「スティング」、2位は「エクソシスト」)。

一大ムーブメントを、無名のジョージ・ルーカスアメリカで起こしたわけです。

そうなると日本の配給会社も、このアメリカで起きている事は無視出来ないし、お金になるかもしれないので、アメリカ公開から1年以上後の1974年の年末に、やっと「アメリカン・グラフィティ」を公開。

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ところが!、、、

1973年にアメリカでは「アメリカン・グラフィティ」と興行成績を争った「エクソシスト」や「スティング」や「パピヨン」は、日本でも1974年に大ヒットしましたが、「アメリカン・グラフィティ」は不発。

当時の長髪が当たり前で、和製ふぉーくとアイドル歌手に熱心だった日本人には、「アメリカン・グラフィティ」は全く響かなかったんです。

そんな「アメリカン・グラフィティ」は、ロードショー不発後、各地の名画座で繰り返し他の作品との抱き合わせで上映され、コアな若者達の口コミで、じわじわと人気になったのは、既にアメリカで公開されてから2~3年経った1975〜1976年になってから。

だから、名画座で上映されてた1975~1976年頃の「アメリカン・グラフィティ」って、ある種のカルト映画だったんです。

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だから、私は「アメリカン・グラフィティ」以前、以降とよく話しをします。

アメリカン・グラフィティ」を今更観て、よくある「古きアメリカ」の映像、音楽だと感じたら、「アメリカン・グラフィティ」発表以前に、こんな映画が果たしてあったかどうか(リアルの50sは別にして)製作年度を検証して調べていただければと、私は思うわけであります。

そんな映画、1本もないですから。

更に!そんなカルト映画だった「アメリカン・グラフィティ」がテレビで初放映されたのは、1980年のフジテレビ「ゴールデン洋画劇場」で、70年代じゃないんです。

おそらくこの後、代々木公園でラジカセ鳴らしてツイスト踊ってた連中は、このテレビ放映ではじめて「アメリカン・グラフィティ」を観て、感化されたのでしょう。

その間の1970年代後半、おそらくカルト映画だった「アメリカン・グラフィティ」を映画館で観たのでしょう。黒澤久雄氏、近田春夫氏、林ゆたか氏等が六本木のレストランでツイストパーティを開催。

その店のオーナーがその盛況ぶりに感化して、今も健在の「ケントス」をオープンしたのは1976年で、アメリカで「アメリカン・グラフィティ」が上映されてから、既に4年もたってからの事でした。

ちなみに近田春夫氏は、1975年のクールスのデビューアルバムのプロデュースをやっており、今でもクールスファンには人気の「シンデレラ」は、近田春夫氏の作曲です。

 

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なんたって、フィクションですが1962年のアメリカの地方都市の若者の1日を、1973年に「アメリカン・グラフィティ」は映画として観せたわけです(アメリカでは)。

アメリカン・グラフィティ」は、たった11年でアメリカはこんなに激変してしまったとわからせるほど、1960年代半ばから後半のカウンターカルチャーがいかに凄かったって話なんです。

例えば今現在、11年前の話なんて今とさして変わってないので面白くないですよね(笑)。

で、、、

無名時代の若きリチャード・ドレイファス演じるカートが、友人のロニーの車の後ろに乗って街を彷徨ってる時、たまたま隣に止まった車に乗ってる美女に!一目惚れしてしまい、彼女と連絡をなんとか取りたいと翻弄する夜。


70〜80年代の東京の繁華街でも、車やバイクに乗って夜な夜な彷徨してた助平少年達なら、身に覚えのあるシーンで、(あーアメリカも昔から男なんざ〜同じなんだなー)と思った男多かったでしょう(笑)。

そして極め付けは!DJのウルフマン・ジャックでしょうねー。彼のDJなしには、この映画は成り立たなかったでしょう。

これ全て、今はどうって事ない「あー、よくある昔のアメリカの光景だね」と、誰もが思うと思います。

が、1970年代になって「アメリカン・グラフィティ」が、これら所謂「古き良きアメリカ」を、初めて!映像化した映画だったから、当時はやたらと!ソレが新鮮だったのであります。

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だから、、、

製作のフランシス・F・コッポラが、1973年アメリカでこの映画が公開された時34才、監督のジョージ・ルーカスが29才。

彼等二人は1963年のケネディ大統領暗殺、1964年のイギリスのザ・ビートルズ旋風からベトナム戦争の泥沼化で、アメリカのそれまでの正義や文化を若者達が否定し、新しい若者文化を構築していった、正に!ヒッピー、フラワームーブメントの時代は20代の青年でした。

そのムーブメントのど真ん中にいたのに、彼等二人はその時代を、「アメリカン・グラフィティ」で否定したわけです。

「でもさー、オレ等がティーンエイジャーの頃のアメリカも良かったじゃん。楽しかったじゃん」という事を、映像と音楽で示した映画が「アメリカン・グラフィティ」。

だから!設定は、ケネディ大統領暗殺の前年、ザ・ビートルズがイギリスでデビューする直前の、1962年夏なわけで、この時代設定はとても意味があるんですねー。

ちなみに「アメリカン・グラフィティ」の成功がなかったら、ジョージ・ルーカスは「スター・ウォーズ」は撮れなかったでしょうし、「スター・ウォーズ」の成功がなかったら「エイリアン」は作られなかたでしょう。