1975年 太平洋クラブライオンズの江藤慎一選手権監督の山賊打線!





1975年、選手兼任監督江藤慎一氏率いる太平洋クラブライオンズは、前後期通算3位!

1968~1982年の長〜い暗黒時代を経験してるライオンズは、親会社が西鉄太平洋クラブ→クラウンライター→西武と4回かわっており、この暗黒の14年間で唯一の!Aクラスがこの1975年でした。

結果、選手兼任監督になった江藤慎一氏を大洋ホエールズから、白仁天氏を日本ハムファイターズから、土井正博氏を近鉄バファローズから獲得した太平洋クラブライオンズの、この年の打線はかなり強力!

まぁ〜その後の西武が会社を上げてライオンズを強くしたので、なんとなーくその前のクラウンライターや太平洋クラブの印象は薄いですが、太平洋クラブは「チームを強くしよう!」としてました。

前年、結果は怪我で1試合しか出場しなかった大外れでしたが、MLB通算382本塁打を放っていた、当時の言葉の『現役大リーガー』、フランク・ハワード太平洋クラブは巨額で獲得してます。

また、その前年にもMLB通算93本塁打ドン・ビュフォードを、こちらも巨額で獲得しており、ハワードと違いビュフォードは丸3年活躍、1975年の強力打線でも活躍しました。



というわけで、外人に限らず国内でもトレード補強は続いて1975年、通称『山賊打線』の太平洋クラブライオンズパリーグのチーム打率1位。通算本塁打・打点は優勝した阪急ブレーブスに次いで2位。

そして首位打者白仁天氏、本塁打王土井正博氏の新加入のお二人が獲得し(共に初受賞)、打撃10傑には9位に基満男氏、10位のマティ・アルー太平洋クラブから3人も入りました。

更には、ビュフォードも21本塁打竹之内雅史氏も19本塁打白仁天氏も16本塁打と打ちまくった1975年の太平洋クラブライオンズの開幕オーダーは以下↓。

1 三 ビュフォード
2 遊 基満男
3 一 アルー
4 右 土井正博
5 左 江藤慎一
6 指 竹之内雅史
7 中 白仁天
8 二 国貞泰汎
9 捕 西沢正次

投手 東尾修

選手兼任監督江藤慎一氏は、セパ両リーグで3度首位打者に輝いている、この打線は相手ピッチャーからすると、息が抜けなかったと言えます。

 

まぁ〜、後の近鉄バファローズの『いてまえ打線』の大元って感じだったでしょうかね〜?

一方、投手陣はチーム防御率は3,73とリーグ5位で、投手陣がもう少し頑張っていたら、あの打線だったら大袈裟ではなく優勝してたかもしれないです。


それでも、エース東尾修氏は23勝15敗で最多勝を獲得しており、防御率も2,38で3位。広島カープから獲得した木原義隆氏が10勝9敗、防御率2,76で7位。

阪急ブレーブスから獲得して3年目の石井茂雄氏も9勝9敗2S。東尾修氏と共に西鉄時だからの生え抜き!4年目の加藤初氏が8勝11敗。この4人がローテーションピッチャーでしたが、後が足りなかった。

ところが!太平洋クラブは、Aクラスの大功労者の江藤慎一選手兼任監督の残留は決めますが、新たに!アメリカから、MLBで選手・監督として実績あるレオ・ドローチャーを監督に招聘。

この辺が繰り返しますが、太平洋クラブは積極的にチームを強くしたい、不人気のパリーグでも(当時は)話題を作りたいという強い思いのあるスポンサー会社でしたが、これが裏目に出てしまいます。

江藤慎一氏が新たに選手権打撃コーチを要請されますが、監督として成果を出していた江藤慎一氏はこれを固辞しなんと!退団。選手としてロッテオリオンズへ復帰。

更には!この時71歳のレオ・ドローチャーは、来日直前に病で倒れてしまい太平洋クラブは招聘を断念。

更に!更に!1975年はセリーグでは、長嶋茂雄新監督の読売ジャイアンツが球団初の最下位に落ち込む大事件が起きてしまい、太平洋クラブは、加藤初氏をトレードで読売ジャイアンツに放出してしまいます。


結果、伊原春樹氏と共に、関本四十四氏と玉井信博氏との2対2のトレードでしたが、1976年は関本四十四氏は1勝4敗、玉井信博氏は3勝13敗2Sと期待を裏切ったのに対し、加藤初氏は15勝4敗8S。

加藤初氏は日本ハムファイターズから獲得した張本勲氏と共に、読売ジャイアンツの最下位からリーグ優勝に大貢献しています。

まぁ〜太平洋クラブにしては、人気の読売ジャイアンツから選手を獲得すれば話題性もあるし、特に玉井信博氏は加藤初氏と同い年のまだまだ若い投手だったので、大きな期待もあったでしょう!

しかし、このトレードは太平洋クラブ側の大失敗で、加藤初氏は1976年から1990年まで15年間大活躍したのに対し、関本四十四氏は1年で大洋ホエールズに出されますが、勝ち星なきまま1978年に現役引退。

玉井信博氏は翌1976年も1勝8敗と振るわず、西武に球団が変わってからも残留してますが、1976年以降は勝ち星なく1980年に現役引退しています。

結局、すったもんだの末、ヘッドコーチから監督に究極なった鬼頭政一氏率いる1976年の太平洋クラブライオンズは、1972年以来の最下位転落。

太平洋クラブはこれにてスポンサーをやめ、太平洋クラブは4年で球団経営から撤退し、新たにクラウンライターがライオンズのスポンサーになりますが、2年で球団経営から撤退。西武に身売りしました。