ロッド・スチュワート&フェイセズの初来日公演を観ていた西城秀樹氏と矢沢永吉氏

image



ロッド・スチュワートロン・ウッド所属のフェイセズの初来日は1974年。このフェイセズ初来日の目玉は、日本人ベーシスト山内テツ氏の凱旋帰国でした。

山内テツ氏はマイク真木氏のバンドを経由し、ミッキー・カーチス&サムライで欧州ツアーを経験後、1971年初来日したフリーのメンバーと意気投合。彼らの帰国の際、一緒にイギリスに渡っています。

フリーは直後に解散し、山内テツ氏はフリーのメンバーのポール・コゾフ(G)、サイモン・カーク(Dr)の二人と、ジョン・"ラビット"・バンドリック(Key)とアルバムを製作。

1972年、ポール・コゾフとサイモン・カークはフリーのオリジナルメンバーによる再結成に参加しますが、ベースのアンディ・フレイザーが脱退してしまい、山内テツ氏が代わりのメンバーになりました。

 


山内テツ氏はフリー二度目の来日で凱旋ライブを行いましたが、今度はフェイセズのメンバーとして二度目の凱旋!

フリーでポール・ロジャース、フェイセズロッド・スチュワートという世界のロックシーンのトップシンガーのバンドでベースを弾く山内テツ氏は、当時の日本のロックキッズには憧れの存在でした。

で、1974年のこの山内テツ氏の二度目の凱旋ライブ、2月の東京の日本武道館公演をキャロルの矢沢永吉氏と内海利勝氏が観に行っていたそう(内海利勝氏の回想インタビューによる)。

そしてもう一人、日本武道館の客席で観ていたのが人気に火のつき出した若き西城秀樹氏でした(日本武道館公演は二日間行われたので、別々の日かもしれませんが)。

まぁ〜わかる方はわかってますが、ソロになってからの矢沢永吉氏と西城秀樹氏のマイクスタンドを使った歌唱パフォーマンスは、この時のフェイセズロッド・スチュワートを観て真似たのでしょう。

ロッド・スチュワートの大元は、彼の大好きなエルヴィス・プレスリーでしょうけど。

で、フェイセズオープニングアクトジョー山中氏で、この時ギターを弾いていたのが芳野藤丸氏だったそうで、客席で観ていた西城秀樹氏は後日、自身のバンドに芳野藤丸氏をスカウトしています。

この後、西城秀樹氏のライブ公演でバックをつとめ、長い付き合いになる「藤丸バンド」の誕生です。

西城秀樹氏は元々ドラマーだったそうですから、バンド思考が強かったのと、当時、西城秀樹氏よりもっと人気だった沢田研二氏と井上堯之バンドのような形態を、ご自身も望んだのでしょう。



ちなみに山内テツ氏の二度目の凱旋になった、このフェイセズの日本公演は先に大阪で二日行われる予定でしたが、二日目はロッド・スチュワート急病のため中止になっています。

こちらもオープニングアクトはクリエイションだったそうですが、客入れ後に中止発表になったそうで、それはそれは大混乱だったとか。

内田裕也氏が観客をなだめ、クリエイションが演奏し、当然、入場料は全額払い戻しという、呼び屋さんはえらい目にあった1日だったそう。

一説では初日公演後の乱痴気騒ぎの影響で、ロッド・スチュワートが声が出なくなってしまったとか。

何にしても当時の外国のバンド来日公演は、こうして日本のバンドがオープニングアクトをつとめる事が殆どで、この辺は日本のロックを日本でも世界でも広めたいという内田裕也氏の尽力だったのでしょう。