東海大硬式野球部が活動中止を公表しましたが、、、

 



東海大学が「ありがちな」、上級生による未成年の下級生への飲酒強要と暴行発覚で、硬式野球部の活動中止を発表しましたが、まぁ〜ほとぼりが冷めれば再活動するでしょう。

高校野球に限らず大学野球のこの手の話は、昔からよく聞く話で、これは野球部だけでなく運動部全般に言えるわけで、部活・学校運営のいい大人達も普通に黙認している、日本の悪しき伝統と言えます。

今や附属高校も大学も野球強豪校で有名な東海大ですが、1964年に東都大学リーグ準加盟だった東海大が同リーグの3部校、準加盟1部2部所属校を中心に新リーグ結成を呼びかけ、出来たのが首都大学リーグ。

1964年と言えば東京オリンピック開催の年でもあり、首都大学リーグ誕生などマスメディアの話題にもならなかったと伝わっているほど、東海大そのものが世間で知られる大学ではありませんでした。

また、結成に参加した成城大、日本体育大、東京教育大(現:筑波大)、武蔵大、明治学院大、東京経済大が東都大学リーグでも弱い大学だったので、関係各位は首都大学リーグ結成を軽視していたとか。

が、近年のYouTube江夏豊氏が高卒でドラフト1位指名を受け阪神タイガースに入団する時、事前に誘いがあった東海大の方が「条件はプロより良かった」と回想してるほど、東海大は本気だったようです。


まぁ〜日本人の大好きな野球で校名を売るのは、高校野球では全国ありがちですが、さして知られていなかった大学なのに、これほど野球で名前を売って有名になった学校は東海大ぐらいでしょう。

まず!東海大が注目され野球関係のメディアに取り上げられたのが、首都大学リーグ結成から4年目の1968年。明治100年の年でした。

この明治100年を記念して、全国の大学リーグから選抜チームが結成されトーナメント戦が開催。

当時の東京六大学は、4年に法政大の田淵幸一氏、山本浩二氏、富田勝氏、明治大に星野仙一氏、3年に早稲田大の谷沢健一氏、荒川尭氏等がいた、後にプロ野球で名を残す名選手揃い。


ある種、明治100年を記念した余興、酔狂のようなこの各リーグの選抜選手達による大会の優勝は、東京六大学で間違いない。唯一負けるとしたら東都大学にだろうと、誰もが思っていました。

下馬評通り、東京六大学選抜チームは、一回戦の広島六大学を19対1の圧勝。準決勝の西の強豪!関西六大学に2対0と僅差で勝ち決勝進出。

相手は順当に東都大学と思いきや、なんと!東都大学が首都大学に3対4で負けちゃって、決勝は東京六大学選抜と首都大学選抜。当時、首都大学野球リーグを知ってる人が、関係各位以外どれだけいたか?

試合は首都大学の先発、東海大3年の上田次朗投手(後の阪神タイガース)と東京六大学先発、明治大4年の星野仙一投手の投げ合いになり試合は0対0の投手戦。

8回表に首都大学が1点を取ると、なんと!上田次朗投手は東京六大学を完封シャットアウトで、よもやの!首都大学リーグ選抜が優勝しました。

それでも当時のスポーツ関係メディアは、大々的にはこの「事件」は取り上げなかったですね。繰り返しますが、この大会は明治100年を記念した余興、酔狂のようなものでしたから。

マスメディアが首都大学リーグ、東海大を無視できなくなったのが上田次朗投手4年時の翌1969年、全日本大学野球選手権に優勝し、真の大学日本一になった時でした(決勝相手は日大。後の南海ホークスの佐藤道郎投手)。

東海大学野球部が、全国に名を知られるようになるのはこの時で、更に!この年の夏の甲子園に、付属の東海大相模が神奈川県代表として初出場。

お笑いネタになっておりますが、『東海大相模』が当時の野球ファンは読めず、『東海大相撲』(とうかいおおずもう)と読まれるほど、東海大学東海大相模も、当時は全くの無名でした。