ザ・タイガース、PYGのジュリー=沢田研二氏が、ソロになって9枚目のシングル「恋は邪魔者」(1974年3月発売)。
作詞:安井かずみさん、作曲:元ザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦氏のコンビは、5枚目の「あなたへの愛」、6枚目「危険な二人」、7枚目の「胸いっぱいの悲しみ」に続いて4曲目の提供になりました。
編曲は元ザ・スパイダース、PYGで一緒だった大野克夫氏ですが、意外な事にこれが初めての編曲で、演奏はPYGを経由した井上堯之バンドで、4曲目の「死んでもいい」以来2曲目。
ギタリストの速水清司氏は、シングルレコーディングでは初参加。PYGからはドラムが大口ひろし氏から原田祐臣氏に変わってますが、井上堯之氏、大野克夫氏、岸部修三氏のメンバーはまだ不動でしした。
同1974年8月に福島県郡山で行われた「ワン・ステップ・フェスティバル」に、沢田研二氏はこの井上堯之バンドと共に出演しています(ドラムが原田祐臣氏から田中清司氏に変わっています)。
この日本初の大規模野外フェスには、39組の日本ミュージシャンに加え、アメリカからはヨーコ・オノ&プラスティック・オノ・スーパー・バンドとクリス・クリストファーソン&リタ・クーリッジも参加。
まぁ〜日本側は圧倒的人気、商業的成功者の沢田研二氏を別格にすると、あとは話題性抜群だったキャロルぐらいしかお客さんが呼べない、まだ皆さんヒット曲も人気もないグループばかりでした。
が、今にして思うと沢田研二氏と矢沢永吉氏(キャロル)、宇崎竜童氏(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)、山下達郎氏(シュガーベイブ)、加藤和彦氏(サディスティック・ミカ・バンド)、、、
つのだひろ氏(スペースバンド)、上田正樹氏(サウス・トゥ・サウス)、そして元ザ・ゴールデンカップスのメンバー、クリエイション、四人囃子、サンハウス、イエロー等の集まったこのフェスは凄い!
内田裕也氏はご本人の言動も原因と思われますが、色々と誤解の多い方ですが、この辺の当時のプロデュース力、センスには今更ながら脱帽ですね。こんな事他の誰も出来なかったですから。
で、シングル第9弾で、日本レコード大賞を狙ったのでしょうか?同じく安井かずみさん作詞、加瀬邦彦氏作曲の大オーケストラによる壮大なバラード「追憶」を発表後の、第11弾シングルがまた面白い。
再びロックテイスト溢れる、しかもファンキーな「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」。そしてなんと英語詞!
それもその筈、この後発売される全曲イギリス人作家による楽曲と、イギリスレコーディングの同名タイトルアルバムからの先行シングル発売で、このアルバム、シングルはヨーロッパ全域で発売されてます。
まぁ〜当時の沢田研二氏の人気の凄さでしょうね〜。英語詞なのに「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」もオリコン最高位12位と、沢田研二氏にしては低いランクですがヒットしました。
この後、1975年5月発売のシングル第13弾の「巴里にひとり」は、再び作詞・作曲・編曲は外国人でしたが、今回は山上路夫氏による日本語訳詞で、日本語でシングル発売されオリコン最高位5位。
そして日本盤とは別に!フランス語で歌った「MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE」が、フランスでもシングル発売され、フランス国内のRTLというラジオチャートで最高位4位を獲得してます。
フランスでの約20万枚のヒットに伴って、スイス、カナダ、オーストリア、ギリシャ、ノルウェー、ベルギー、オランダなどヨーロッパ他各国で、このシングルはリリースされました。
お茶の間の人気者で商業的に大成功していた沢田研二氏と、一方でヨーロッパ圏で世界進出を狙っていた沢田研二氏。私的にこの頃の沢田研二氏はとても興味深かったです。
時代的にイギリスレコーディングの英語詞「愛の逃亡者」発表が1974年11月で、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった井上陽水氏の、こちらはロサンゼルス録音のアルバム「二色の独楽」発表がその一ヶ月前の10月。
井上陽水氏のアルバムは当時、元ザ・モップスの星勝氏が手がけていましたから、同じ元グループサウンズ出身の沢田研二氏や井上堯之氏、大野克夫氏、岸部修三氏が知らなかったとは考えずらい。
ましてや沢田研二氏は圧倒的人気者でしたが、アルバムセールスにおいては井上陽水氏の前作「氷の世界」が圧勝!(オリコン年間アルバムチャート1位)。
ちなみにレコード会社は、井上陽水氏も沢田研二氏も当時はポリドールで同じ。レコード会社も、人気者の沢田研二氏にも海外レコーディングさせようって声が上がったとしても、おかしな話じゃない。
更に!商業的には全く成功していなかったサディスティック・ミカバンドも、同年11月発売のアルバム「黒船」は、ザ・ビートルズやピンク・フロイドを手がけるクリス・トーマスがプロデュース。
沢田研二氏はお茶の間のアイドルという自覚はあったでしょうが、自分はロックシンガーという自尊心も強くあったでしょう。ですから1974~1975年は思うところが多かったと思います。