甲子園のスター揃い踏みだった、1987年の読売ジャイアンツ


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1987年の読売ジャイアンツは、王貞治監督の元リーグ優勝。日本シリーズ西武ライオンズに敗れましたが、強力打線と強力投手陣のシーズンでした。

まずこの年は、江川卓投手が13勝を挙げながら引退表明。日本シリーズは第三戦一試合だけの登板で、これが公式戦最後の登板でした(8回2失点)。

 

チームの勝ち頭は、入団2年目の桑田真澄投手で15勝。2,17で最優秀防御率も獲得し沢村賞も受賞した年で、『江川・桑田』が揃って活躍したのは、この1987年が最初で最後。

 

更に、江川卓投手と共にジャイアンツ投手陣を支えた西本聖投手が、翌年を最後に中日ドラゴンズに移籍しており、『江川・西本』と次世代の『桑田・槇原・水野』各投手が揃って活躍したのもこの年だけ。



そしてPL学園桑田真澄投手と共に、高校時代は甲子園の人気者だった池田の水野雄仁投手は1987年がキャリアハイの10勝4敗、防御率2,61。

 

桑田真澄投手と水野雄仁投手が揃って二桁勝利したのもこの年だけで、1989年からは斎藤雅樹投手が大成長し、若き三本柱は『桑田・槇原』に斎藤雅樹投手になっています。

しかし、思えば作新学院江川卓投手、東海大相模原辰徳氏、池田の水野雄仁投手、PL学園桑田真澄投手と、高校時代から甲子園を沸かせたスター選手が、当時のジャイアンツは見事に揃っていました。

 

この年、ヤクルトスワローズで10勝を挙げた早実荒木大輔投手が、もし1982年のドラフト会議でジャイアンツがくじを外さず獲得していたら、甲子園のスター選手だらけでしたね〜。

 

ちなみに荒木大輔投手のハズレ1位が、後に平成の大エースと呼ばれた斎藤雅樹投手(市立川口)でしたが、1987年までの通算勝利数は『荒木25勝、斎藤23勝』。

 

荒木大輔投手は翌1988年故障してしまい、1989~1991年を棒に振ってしまったのに対し、斎藤雅樹投手は1989~1990年に連続20勝、連続最多勝、連続防御率1位と大化けしています。

 



また1987年は、4年連続100試合以上出場&打率3割超え、本塁打も30本を放ち(自身最多)、原辰徳氏と共にジャイアンツ打線の核になっていた吉村禎章氏が、1988年には不運な怪我で選手生命が危うくなりました。

 

1987年の吉村禎章氏は、本塁打30本は原辰徳氏の34本に次いでチーム2位。打率.322は.333で首位打者を獲得した篠塚利夫氏に次いでチーム2位。打点86も『原・クロマティ』に次いでチーム3位。


この年のジャイアンツ打線は『クロマティ・原・吉村・篠塚・中畑』と、3番から7番まで3割バッターで、8番の山倉和博氏も22本塁打と、かなりの強力打線でした。

 

そんな連覇を狙うジャイアンツでしたが、1988年7月の吉村禎章氏の不運な怪我での欠場以降、チームは首位に浮上する事なく結果は2位で王貞治監督は責任をとって辞任。

 




更に!江川卓投手と清原和博氏が日本シリーズで対戦したのも、この1987年の1度だけで、結果は3打数ノーヒット1三振の、引退する江川卓投手の圧勝でした。

その江川卓氏も、あれだけ日本中を騒がせジャイアンツに入団しましたが、日本一になったのは1981年の日本ハムファイターズに4勝2敗で勝った一度だけ。

さりとて、ジャイアンツ自体が不滅のV9最後の1973年以降、1987年の江川卓投手引退までに日本一になったのも、この1981年の一度だけなのですから、これはしょうがないですね。

繰り返しますが、当時の読売ジャイアンツには高校時代からのスター選手が揃っており、人気はまだまだダントツでしたが、ジャイアンツ1強時代は、既に終わっていたと言えます。

最後になりますが、後楽園球場が取り壊され、今やお馴染みの東京ドームになったのも翌1988年からで、後楽園球場最後の年も1987年でした。