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元プロ野球選手のジャイアント馬場氏、元柔道界の星!坂口征二氏と違い、アントニオ猪木氏はプロレスラーになる前の華々しい経歴はありません。
アントニオ猪木氏は、巡業中の力道山氏に少年時代サンパウロでスカウトされた、ブラジル移民一家の子(出生は神奈川県横浜市鶴見区)。
アントニオ猪木氏は、22歳でプロレスの世界に入った5歳年上のジャイアント馬場氏と1960年同期入門で、デビュー戦も同じ日。
デビュー戦で馬場氏は勝ち、猪木氏は負けています(相手は入門が1年先輩の大木金太郎氏)。
更には元プロ野球選手で名前も知られていた馬場氏は、最初からスター候補で通いの練習生だったのに対し無名の猪木氏は力道山氏の付き人で、プライベートもない厳しい毎日だったとか。
入門1年目、馬場氏と猪木氏は5試合戦い全て馬場氏が勝っており、馬場氏は入門2年目の1961年には早くもアメリカ遠征。
馬場氏のアメリカ武者修行は後に漫画「ジャイアント台風」に描かれておりますが、1963年に凱旋帰国するまで、馬場氏はアメリカで次々と大物レスラーと対戦する活躍ぶり。
一方、アントニオ猪木氏は、毎日のように力道山に理不尽に殴られる付き人生活だったのは、ちょいとした昭和プロレスファンには有名ですね。
男なら誰もが経験あると思いますが、思春期時代、若い頃の5才の年齢差というのはかなり大きい。双方の感覚は、おっさんと若造って感じでしょう。
アントニオ猪木氏の本名は猪木寛至。プライベートではお互いを「寛ちゃん」「馬場さん」と呼んでいたそうで、5歳の年齢差はライバル関係にはなりずらい。
全盛時代、最強と謳われていたジャンボ鶴田氏はアントニオ猪木氏とやってみたいと思っていたようですが、馬場氏同様団体も違うし、年齢が8歳違いますからアントニオ猪木氏がうけるわけがない。
全日本プロレスと新日本プロレスの団体の壁というのは相当!厚く、例えば馬場氏が猪木氏に負けたら、猪木氏が鶴田氏に負けたら、どちらも団体は終わっていたでしょう。
いちプロレスファンとして、どちらも見てみたい一戦でしたが、残念ながら実現しなかったのは、やはり大人の事情があっての事だったと思われます。
ちなみに、ジャイアント馬場氏が年齢的にも体力的にも、これから絶頂期に向かう頃、アントニオ猪木氏はまだ若造で、前座時代の『馬場vs猪木戦』は馬場氏の16戦全勝。
アントニオ猪木氏が年齢的にも体力的にも絶頂期の頃、ジャイアント馬場氏はピークを過ぎており、ジャンボ鶴田氏が年齢的にも体力的にも絶頂期の頃、猪木氏はピークを過ぎていた。
これが事実だったと思います。
で、プロレスファンなら誰もがご存知の通り、猪木氏は新日本プロレス時代は日本人レスラーと多く対戦しています。
特に話題沸騰だったのが、新日本プロレス旗揚げからまだ時間もたってもいなかった1974年の3試合!
まずは3月の国際プロレスのエース、ストロング小林氏との対戦。これは国際と新日本のエース同士の頂上対決ですから、それはそれは大盛り上がりでした。
熱戦の末、結果は猪木氏が原爆固めで勝ち、敗れた3歳年上の小林氏はこれから新日本プロレスに参入しています。
同年4月、猪木氏は今度は坂口征二氏と対戦。柔道界での活躍が長かったのでプロレス入りが遅れた坂口氏にとって猪木氏はプロレスの先輩ですが、年齢は猪木氏より坂口氏が1歳年上。
坂口征二氏は新日本プロレスに移る前は、馬場・猪木なき崩壊寸前の日本プロレスのエースでしたので、この試合も大いに話題になり盛り上がりましたが、決着はつかず30分引き分け。
同年10月には、猪木氏のデビュー戦の相手で馬場氏同様一度も猪木氏が勝っていない、日本プロレスの最後を見とった大木金太郎氏と対戦。
大木氏の頭突き攻勢に苦戦するも、猪木氏はバックドロップで勝ちますが、大木金太郎氏は猪木氏より14歳も年上で、当時既に45歳。馬場氏どころではないピークを過ぎたレスラーでした。
この新日本の猪木氏による国際の小林氏、元日本プロレスの坂口氏、大木氏の各団体のエース、頂上対決は、それはそれは当時は話題沸騰で、そこに参戦しない全日本の馬場氏を猪木氏は煽ってる所もありました。
が、しかし、、、
この日本人対決は、当時の新日本プロレスは全日本と違い「有名外人レスラーを呼べない」契約上の致命的な弱点があった、実は苦肉の策から生まれたアイデアだったと言えます。
これは、76年6月の有名なモハメド・アリ戦に始まった異種格闘技戦もしかりで、新日本はタイガー・ジェット・シンという自前の人気悪役外人レスラーを作りましたが、人気外人レスラーの招聘には、当時は相当苦労してました。
一方、全日本はエースの馬場氏もピークを過ぎた自覚はあったのでしょう。
レスリング界から若きジャンボ鶴田氏をスカウトし、鶴田氏が育つまで人気外人レスラー!ザ・デストロイヤーが日本に移り住み、全日本と馬場氏をサポート。
悪役レスラーとして一世を風靡したザ・デストロイヤーの、この「全日本と馬場の味方」の転身ぶりは大いに話題でしたし、更に全日本は人気外人レスラーを呼びまくれたので、新日本の猪木氏のような、奇を衒う必要性が全くなかったとも言えるわけです。
最後になりますが『馬場VS猪木』戦が実現しなかった最大の理由は、日本テレビとテレビ朝日の放映権問題が一番大きかったんじゃないでしょうかね〜?
1974~75年当時に『馬場VS猪木』戦を放映したら、視聴率50%超の可能性はあったでしょう。馬場氏の全日本は日本テレビ、猪木氏の新日本はテレビ朝日が放映権を持ってました。
どちらもこの黄金カードの放映をしたかったに決まってますが、どちらも譲るわけがない。
しかもどちらかが負けたら、団体もテレビ局もその後は大打撃。団体運営もテレビ放映もままならなかったでしょう。
1プロレスファンとしては、負けた側が吸収合併され、昔の日本プロレスのように統一してもらった方が楽しかったのですが、全日本も新日本も興行が成立していたしテレビ放映も成り立っていた。
そんな危険を犯す必要が、団体もテレビ局もあるわけがない。
また、セメントではなく合計2試合、1試合ずつ日本テレビとテレビ朝日で放映し、共に引き分けという決着のシナリオを事前に作っていたとしても、試合になったらその契約を猪木氏は破ったでしょう。
猪木氏は馬場氏に勝った日本一のレスラーという冠が欲しかったから、莫大な違約金を支払ってでも、契約を反故にしてそれを実現しようとしたでしょう。
そしてそんな猪木氏の目論みを、馬場氏も全日本も日本テレビもテレビ朝日もわかっていたでしょうから、特に馬場氏と全日本、日本テレビが猪木氏の挑発に乗るわけがない。
こう書くと、当時の馬場氏がセメントでは猪木氏に負けると私が思ってると思われそうですが、こればかりはやってみなければわかりませんし、そもそもプロレスを興行、ビジネスと割り切ってるジェントルマンの馬場氏がセメントを受けるわけがない。
そして繰り返しますが、事前にシナリオありきの引き分け興行にしようと契約しても、猪木氏は試合になったらそれを生放送、生中継の場で破り、セメントに持って行くのは見え見えでした。
それを受けた馬場氏が、どう猪木氏と戦ったかは想像の域を出ませんが、全日本で有名外人レスラーも呼べるだけ呼べ、興行も成功させていたビジネスマンの馬場氏。
また、レスラーとしても若きジャンボ鶴田氏に時代のエースの座を譲る気満々だった馬場氏に、野心あふれる猪木氏と対戦する理由が何もなかったのは、誰でもわかりますね。