V9時代の『ONに次ぐ五番打者』候補者たち



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読売ジャイアンツは、1965年に東映フライヤーズから吉田勝豊氏、1966年には西鉄ライオンズから田中久寿男氏、1967年には同じく西鉄から高倉照幸氏を獲得。

このお三方が『ONに次ぐ五番打者』候補でした。

1965年の不滅のV9の1年目、吉田豊氏は133試合に出場し本塁打7本、44打点、打率.264と、そこそこの成績でしたが、『ONに次ぐ五番打者』候補としては物足りない感じだったのでしょうか。

翌年から試合出場は減り、1968年に西鉄にトレードされています。

また、田中久寿男氏は1966~1968年の3年間、100試合以上出場はなく、本塁打も3年間で9本と振るわず、1969年に、こちらも西鉄にトレード。

高倉照幸氏は1967年に73試合出場でしたが、本塁打は15本放っており、打点も44、打率.274と、当時の『ONに次ぐ五番打者』候補としては最高の成績を残しましたが、翌年には大幅に成績を下げています。




どうも当時は人気のなかった、球場もガラガラのパリーグから人気の読売ジャイアンツに移籍すると、1年目は活躍しますが2年目には燃え尽きてしまうようで、高倉照幸氏も1969年にアトムズにトレード。

最後にもう一人!『ONに次ぐ五番打者』候補で1969年に大洋ホエールズから獲得したのが、桑田武氏でしたが、僅かに13試合出場で本塁打0、打点0で1年でヤクルトにトレードされています。

まぁ〜『ONに次ぐ五番打者』候補で、最も強力だったのが桑田武氏で本塁打王1回、打点王1回含め、通算223本塁打大洋ホエールズの不動の4番でしたからね〜。

突然!1968年に桑田武氏は怪我含め極度の不審に陥り、別当薫監督とも揉めてトレードになったわけですが、実際にこの年以降、引退するまで桑田武氏は選手として復活することはなかったです。

あと、首位打者経験ある広島カープの主砲!森永勝也氏も『ONに次ぐ五番打者』候補として、1967年に読売ジャイアンツに移籍しましたが、好打者でしたが年齢的に『代打の切り札』という感じでしたね。

結局、読売ジャイアンツの『ONに次ぐ五番打者』候補は、1968年のドラフト会議で法政大の田淵幸一氏も逃した読売ジャイアンツは、生え抜きの末次民生氏と柴田勲氏がつとめるようになりました。


1968年は期待に応えた柴田勲氏が、キャリアハイの26本塁打放ちますが、大きいのを狙いすぎたためか三振が激増してしまい106三振で三振王。

翌年も柴田勲氏は打率、本塁打ともに落としてしまい、元のアベレージヒッター&盗塁王に戻るまで数年かかっているので、柴田勲氏の『ONに次ぐ五番打者』は成功だったとは言えなかったでしょう。

一方、柴田勲氏ほど活躍はできなかった末次民生氏なれど、V8の1972年には21本塁打、打率.283、打点63で『ONに次ぐ五番打者』として大活躍!

翌年の末次民生氏は13本塁打、打率.262、打点59と打撃三部門全て前年を下回りましたが、V9最後の年もV8に続いて、『ONに次ぐ五番打者』のつとめは果たしたと言えます。

ただV9時代、『ONに次ぐ』本塁打を最も放っているのは92本の柴田勲氏で、次がホームランバッターの印象が薄いのに、V4からの5年間で75本塁打放った高田繁氏。末次民生氏は72本で3位です。

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