阪神タイガース暗黒時代、唯一優勝争いをした1992年!

1992年の阪神タイガースは、オールスターゲームまでの前半戦終了時、首位ヤクルトスワローズに1ゲーム差の2位でした。

1985年に吉田義男監督率いる阪神はリーグ優勝、日本シリーズ制覇し日本一になりましたが、その2年後の1987年に最下位に転落。2003年の星野仙一監督がリーグする迄の16年間の阪神は、暗黒時代でした。

その16年間でBクラスが15回、何と最下位が10回の球団創立以来最悪の時代だったわけですが、唯一!その暗黒時代に優勝争いをして2位だったのが、この1992年でした。

中村勝広監督になり2年連続最下位の3年目に、このある種の『珍事』が阪神では起きますが、この時の強さはなんだったのか?また、翌年から再びBクラスに低迷してしまった失敗、間違いは何だったのか?

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まず強さは、1991年に獲得した2年目のトーマス・オマリーと、大洋ホエールズから移籍してきたジェームズ・パトリックの両外国人の活躍。

 

そして、亀山努氏と新庄剛志氏の若手の台頭、大活躍があげられます。

更には村山実監督時代から、将来を見据え使い続けていた八木裕氏が3年連続本塁打20本超え、打点も3年連続60超えと、若き大砲としての才能が花開いたと思われた打線が魅力でした。

また、投手陣も高卒8年目の未完の大器!仲田幸司投手が14勝、2年目の湯舟敏郎投手が11勝、中込伸投手が9勝、野田浩司投手が8勝と、若手投手が安定してきたのが強さの要因だったと思われます。

勿論、最大の貢献者は1991年には50試合登板、1992年も24登板で5勝14Sの大活躍をした中継ぎ、抑えのエースの田村勤投手だった事に、異論のある方はいないでしょう。この頃の田村勤投手は凄かったです。

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そんな阪神は、9月11~13日の首位ヤクルトとの三連戦を2勝1引き分けで勝ち越し首位に立ち、この前後、引き分けを挟んで阪神は7連勝のイケイケドンどんどんで、結果的に2位に3ゲーム差をつけました。

ここで、阪神の優勝を疑わなかったファンはいなかったでしょうし、他のチームの多くのファンも「今年は勢いがあるから、阪神の優勝だろう」と思ったものでした。

が、しかし、、、

同月22日の対ジャイアンツ戦から25日の2位ヤクルト戦で、阪神は4連敗してしまい首位陥落。翌日勝利し首位に返り咲き、1ゲーム差の首位のまま10月6日から2位のヤクルトとの2連戦を迎えます。

初戦は仲田幸司投手、ヤクルトは岡林洋一投手の投げ合いで7回表を終わって0対0でしたが、その裏にヤクルトは主砲!広澤克己氏がバックスクリーンに本塁打を放ち、待望の1点を先取!

試合はそのまま1対0でヤクルトは勝ち、これで阪神とヤクルトは同率1位に並びました。

そして翌日の第二戦は、9回裏のヤクルトの攻撃まで3対1と阪神が優勢、阪神の勝利目前から好投の中込伸投手が1死1,3塁のピンチを招いていまい、ピッチャー交代。

 

抑えの切り札、田村勤投手は怪我で戦列離脱していたので、湯舟敏郎投手を登板させるも2四球の押し出しで1点差。交代した中西清起投手が打たれ、なんと!4対3でヤクルトは9回逆転サヨナラ勝ち。

 

単独首位になったヤクルト・スワローズを、そのまま阪神はひっくり返す事が出来ず、結局、読売ジャイアンツと共に2ゲーム差で2位でシーズンを終えています。


ヤクルトの野村克也監督も阪神中村勝広監督同様、ヤクルトの監督になって1992年は3年目のシーズンで、見事に1978年の広岡達朗監督以来の二度目のリーグ制覇を果たし、この後、黄金時代を築きます。

そんな野村克也監督と優勝争いをした中村勝広監督の、この後のキャリアの差はなんだったのか?二人の監督の明暗はなんだったのか?

 

中村勝広監督も阪神球団も、1992年の最後の最後に負けた敗因を真面目に真摯に究明し、優勝を目指してチーム改革をしたのですが、これが大失敗でした。

チーム防御率はリーグ1位なのに、チーム打率が5位で本塁打数がリーグ最下位だったのを重く見た中村勝広監督は、主戦投手の野田浩司投手を放出し、阪急ブレーブスから松永裕美氏をトレードで獲得。

開幕オーダーの『3番松永・4番オマリー・5番パチョレック』は強力打線を感じさせましたが、松永裕美選手は開幕3試合目に負傷してしまい、パチョレックも持病の腰痛が悪化し思うように活躍できません。

それでも松永裕美選手は80試合に出場し、打率.294、本塁打8本打ちましたが、なんと!シーズンオフにFA宣言しダイエーホークスに移籍してしまい、パチョレックはシーズン途中で現役引退。

前年131試合出場、ハッスルプレーで阪神ファンを熱狂させた亀山努氏もダイビングキャッチで肩を脱臼。僅か44試合出場に終わり、八木裕選手も本塁打9本、打率.235と大きく成績を落としました。

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オマリーは快調で首位打者を獲得しましたし、新庄剛志氏は打率を落としましたが23本塁打、62打点と活躍しましたが、でも、そんなこんなで打線の繋がりは悪かったですね。

安定したと思った投手陣もそうではなく、仲田幸司投手が3勝12敗と大誤算。猪俣隆投手、湯舟敏郎投手が共に二桁勝ちましたがチームは4位に低迷。再びBクラスに沈んでしまいました。 

一方、阪急=オリックスに移籍した野田浩司投手は17勝5敗で最多勝を獲得したこともあり、随分と球団も中村勝広監督もファンに攻められたものでした。 

1994年も、今度はFAでオリックスから移籍してきた石嶺和彦氏が期待に応えられず、MLB通算200本塁打ロブ・ディアーも全くの期待外れで8月に退団。

投手陣も新人の藪恵市投手が9勝と奮闘しますが、これがチームの勝ち頭で二桁勝利投手0で、チームは2年連続4位に低迷してしまいました。



更には!私的には八つ当たりとしか思えなかった、4年連続3割超えの孤軍奮闘のトーマス・オマリーも、長打力不足を理由にシーズンオフにヤクルトに放出してしまいます(高額年棒も問題だったとか)。

ところが、中村勝広監督6年目の1995年、新外国人のグレン・デービス、スコット・クールボーを獲得するも期待に応える事はできず、石嶺和彦氏も全盛期代の活躍はもはや出来ず、チームは低迷。

 

トーマス・オマリーの移籍先、ヤクルト・スワローズは優勝。オマリーはシーズンでも日本シリーズでもMV Pの大活躍。また、阪神はトレードで赤っ恥をかいてしましました。

結局、1995年の中村勝広監督は前半を終わって休養(事実上の解任)。藤田平監督代行が指揮をとりますがチームは4年ぶり最下位。

中村勝広監督は6年で最下位3回、4位が2回で、唯一のAクラスが1992年の優勝争い、後一歩で優勝を逃したあの!年だけでした。