1970年夏、共に初決勝進出だった東海大相模とPL学園


 



大阪万博が行われた1970年、春の選抜高校野球はその大阪の北陽が、延長で和歌山の箕島に4対5でさよなら負けして準優勝の年でした。

北陽は夏は4年前に初出場し2回戦敗退でしたが、春はこの大会が初出場での見事な準優勝。一方、こちらも夏は前年初出場、春もこの大会が初出場だった原貢監督率いる東海大相模は、共に一回戦敗退。

有名な話ですが『東海大相模』という校名を知らず読めず、『東海大相撲』(とうかいおおずもう)と誤って読んでしまった人は、日本中に沢山おりました(笑)。

それほど神奈川の東海大相模は当時、監督の原貢氏だけが1966年夏に九州の三池工を初出場初優勝させた事で知られた存在で、学校そのものはまだまだ全国的には、全くの無名校(原辰徳氏は当時、小学生)。



そんな東海大相模は、優勝した箕島の前に2対6で初戦敗退。

この選抜大会は、その箕島の島本講平投手、箕島に準決勝で負けた広陵佐伯和司投手、準々決勝で北陽に負けた岐阜短大付の湯口敏彦投手、この3投手が超高校級と話題でした。

なので、一回戦敗退の東海大相模は、その校名読みと原貢監督以外、全く話題にならなかったと記憶しています。

で、当時の神奈川の野球強豪校は、約10年強続いた法政二慶應の二強時代が終わり武相が強い時期でしたが、そこに初めて入ってきたのが、今や名門!強豪!の横浜と東海大相模でした。

夏の神奈川大会も東海大相模は、その横浜を決勝でやぶり夏は連続出場2回目。甲子園は夏→春→夏の3季連続出場を果たしますが、全国的にはまだ無名で、優勝候補にあげられる事はありませんでした。

超高校級と謳われた島本講平投手の箕島、湯口敏彦投手の岐阜短大付は、地区大会を勝ち上がり春夏連続出場を決めまいたが、佐伯和司投手の広陵は、広島商に決勝で延長の末敗退。



大阪大会では春準優勝の北陽を決勝でやぶったPL学園が、夏は8年ぶり2回目の出場を果たし、優勝候補は箕島、岐阜短大付、そして広島商PL学園、春夏連続出場の香川、高松商等があげられていました。

無印の東海大相模は、春に続いて2回戦からの登場で、西九州代表、佐賀の唐津商に5対4の1点差勝ち。結果、この勝利が今や名門!強豪!の東海大相模、甲子園初勝利ということになります。

2回戦、屈指の好カードになったのは、超高校級と謳われた島本講平投手と湯口敏彦投手の対戦になった、箕島対岐阜短大付。

結果は島本講平投手が打ち込まれ1対6で箕島は敗れ、春夏連覇の夢は消え、日高昌彦投手擁する広島商と、大北敏博投手擁する高松商の優勝候補同士の戦いは、1対0の投手戦の末、高松商が勝利しました。

日高昌彦投手も大北敏博投手も、同年ドラフト指名されプロに進みましたし、二回戦敗退した西中国代表の江津工の三沢淳投手も、社会人を経由しプロ入りしています。

で、当時の高校野球は木製バットですし、まだまだバッターはバットを短く持ちランナーが出れば送りバント、サードにランナーが進めばスクイズの攻防戦でしたが、東海大相模だけは変わっていました。

バットを長く持ち強振する東海大相模は、当時としてはとても珍しいチームで、準々決勝の兵庫の滝川戦でも、打て打ての強硬策で延長10回、7対6で勝利し見事に全国ベスト4進出を決めました。



全国ベスト4は超高校級の湯口敏彦氏の岐阜短大付、大北敏博投手擁する高松商、大阪大会で春の準優勝の北陽をやぶった大阪のPL学園。そして全くの無印だった神奈川の東海大相模

まぁ〜当時の高校野球ファンの10人が10人、この4校のうち無名の東海大相模が優勝するとは思っていなかったでしょう。

PL学園にも社会人を経由しプロ入りする新美敏投手がおり、打ち勝ってはいるものの東海大相模の上原広投手は、よく打たれており、他の3校のエースピッチャーに比べ見劣りしていましたし。

なので、超高校級の湯口敏彦投手擁する岐阜短大付に、東海大相模は勝てないだろう。岐阜短大付は島本講平投手の箕島に勝ってるし、準々決勝の名門!強豪!の東邦戦も完封で勝ち上がってきてるから。

実際、湯口敏彦投手はここまで3試合を投げて失点は箕島の1失点のみで、2試合を完封勝利してましたが、予想に反して強打の!東海大相模は3回、4回と1点ずつを奪い湯口敏彦投手を攻略。

東海大相模の上原広投手も、この大会1番の!好投を見せ、7回まで岐阜短大付打線を完封。試合はこのまま終わるかと思いきや!8回表に岐阜短大付は2点を取って同点に追いつきます。

が、東海大相模が9回裏に1点を奪い、2試合連続のサヨナラ勝ち。なんと無名の無印の東海大相模は決勝進出。勿論、原貢監督は三池工に続いての決勝進出ですから、話題の主はナインよりも原貢監督!

決勝の相手は高松商をくだした大阪のPL学園PL学園東海大相模も、勝てが春夏通じ甲子園初優勝。

結果、10対6で東海大相模PL学園をやぶり初優勝しますが、大学附属と宗教学校の決勝という、その後の高校野球の流れを変えたのはこの決勝戦だったと言えます。

ちなみに大阪代表は、春の選抜で北陽、夏はPL学園が準優勝しましたが、翌春の選抜でも大鉄が準優勝と、3季連続で異なる学校が甲子園大会準優勝と、今も昔もの『激戦区大阪』を感じさせた時期でした。