井上陽水➕ザ・モップスのアルバム「断絶」


 



井上陽水氏は、アンドレ・カンドレ名義の1969~1970年に3枚のシングル盤を発表してますが、全て不発で、1971年は殆ど音楽活動をしていません。

1972年3月、井上陽水氏は『井上陽水』名義でポリドールから「人生が二度あれば/断絶」で再デビューするも、相変わらず全く売れなかったのに、ファーストアルバムのレコーディングをしています。

それも、全く売れてない井上陽水氏の全曲!作詞作曲によるオリジナルアルバム制作で、随分と当時のポリドールの多賀英典氏は、井上陽水氏を高く評価していたものだと感心してしまいます。

レコード会社にとってレコードは、シングルもアルバムも完全に商品ですし、レコーディングにはスタジオ代にエンジニア、ミュージシャンのギャラ、そして宣伝広告費と莫大な金がかかる。

全く売れてなかった井上陽水氏に、それだけの資金投下をするというのは、企業としてはある種の冒険。

で、そのファーストオリジナルアルバム「断絶」のレコーディングは、ザ・モップス鈴木ヒロミツ氏以外のメンバーが行っているのを、ちょいと今更ながら紹介したいと思います。

井上陽水➕ザ・モップスのファーストアルバム「断絶」




1960年代後半に起きた狂乱のグループサウンズブームは、1971年1月、日本武道館で行われたザ・タイガースの解散コンサートにより完全に終焉したと言えるでしょう。

多くのグループサウンズは1970年代に入ると皆解散してしまい、有名所ではザ・モップスとザ・ゴールデンカップスだけが、実力派ニューロックグループとして残っていました。

ザ・モップスは、1971年3月に発表したコミカルな「月光仮面」が大ヒット。その「月光仮面」収録の三枚目になるアルバム「御意見無用(いいじゃないか)」を同年5月に発表。

一方、「ふぉーく」に数えられる井上陽水氏ですが、同年8月に行われ吉田拓郎氏が一気に名を上げた中津川フォークジャンボリーに参加するでもなく、1971年は何をやってたか全くわからない。

そんな全くの無名だった井上陽水氏の再デビューレコーディングに、曲がりなりにもグループサウンズブーム、ニューロックシーンでその人ありだったザ・モップスを起用した多賀英典氏は、凄いですね〜。

結果、ザ・モップスのギタリスト星勝氏は、この後、井上陽水氏とは重要パートナーになる長い付き合いは、ここから始まっています。

でも、ザ・モップスとザ・ゴールデンカップスのジョン山崎氏、そして深町純氏の鍵盤を入れた井上陽水氏のオリジナル作品はロックかというと、やっぱり違うんですよね〜。

星勝氏の所謂「ロックギター」が聴こえるのは、B面1曲目の「愛は君」の短いながら強烈なフレーズと、B面ラストのグランドファンクの「ハードブレイカー」っぽい「傘がない」ぐらいです。

アルバム「断絶」で、ザ・モップス星勝氏は何故?エレキギターを控えたのだろう?


団塊の世代から少し下の当時の日本の若者は、R&Rやハードロック、ブルースロックサウンド駄目でしたからね〜(笑)。R&B、ソウルやファンクなんて今のインディーズより知られてなかったし。

繰り返しますが、当時ニューロックで売れてたバンドは皆無。元から歌謡芸能界側だったPYGとザ・モップスはそれでも商売になっていたとは言え、アルバムがバカ売れしていたわけではない。

だから、これは商売としての多賀英典氏と星勝氏が「ロック・エレキギターサウンドは駄目、日本ではウケない」という方針で、わざと意図的にロックギターを控えたんですかね〜?私的には今も謎です。

何故なら、後の歌謡芸能の世界含む日本の音楽シーンの流れを完全に変えたメガヒットアルバム「氷の世界」「二色の独楽」では、かーなりロックギター含めサウンドはド派手になってますから。

やはり、これは1972年という時代を考慮し、より「ふぉーく」っぽい暗いサウンドの方がウケる、売れると多賀英典氏と星勝氏が狙ったのでしょうかね〜?

当の井上陽水氏にとっても、アルバム「断絶」は背水の陣だったと思います。アンドレ・カンドレで全く売れず、再デビューの井上陽水名義になってもシングル「人生が二度あれば/断絶」も、やはり売れず。

もし、その後に発表するアルバム「断絶」もこけたら、井上陽水氏は荷物をまとめて田舎に帰るところまで、追い詰められていたのではないでしょうかしらね?

アルバム「断絶」を聴いてると、今も昔もの淡い夢を見て上京してきたは良いけれどの、若者の葛藤というか苦悩というか、その叫びを感じますね〜。実際に井上陽水氏はそうだったと思いますし。



まぁ〜結果的にアルバム「断絶」発表後の7月に発表された、再デビュー第二弾シングル「傘がない/感謝知らずの女」が発表され、ここで初めてオリコン最高位69位を記録。

初めて!井上陽水氏の曲が、オリコンチャート100位以内に入ったのですから、多賀英典氏と星勝氏の戦略は実を結んだわけです。

でも、実際にアルバム「断絶」がバカ売れするのは、もっと後で「氷の世界」「二色の独楽」のメガヒットアルバムの相乗効果で、過去のアルバムも一緒に売れたのであり、1972年はそれほどでもなかった。

一方、ザ・モップス井上陽水氏のレコーディングに参加したのは「断絶」が最初で最後で、星勝氏だけがプロデューサーとして残っています。

で、ザ・モップス井上陽水氏の「傘がない/感謝知らずの女」が発表された7月に、当時人気絶頂だった吉田拓郎氏作の「たどりついたらいつも雨ふり」を発表。

こちらは見事なロックサウンドの「たどりついたらいつも雨ふり」は、オリコン最高位26位を記録し、井上陽水氏との格の違いをまだまだ見せつけてます(笑)。

たどりついたらいつも雨ふり」は、所謂「ふぉーく」の人たちの日本語詞のオリジナル曲に、ロックサウンドを乗せたアルバム、「モップスと16人の仲間」からのシングルカットでした。


ザ・モップス解散と井上陽水氏大ブレイクは、時代がリンクしていた



年が明けた1973年1月、ザ・モップスマイク真木氏作詞作曲の「気楽に行こう」をカヴァーし、このマイク真木氏ヴァージョンのCMに、鈴木ヒロミツ氏が出演し、これやたらとウケたんです。

結果的に、鈴木ヒロミツ氏が俳優に転向したのは、このCMでバカウケしたからだと勝手に思っておりますが、同年3月には井上陽水氏が、映画「放課後」主題歌「夢の中へ」を発表。

このやたらとポップで楽しい「夢の中へ」は、オリコン最高位17位を記録し、これにて井上陽水氏は吉田拓郎氏に続く、歌謡芸能の世界でも「その人あり」と誰もが知る存在になっています。

更に!9月発売のシングル「心もよう」がオリコン7位の大ヒットになりますが、吉田拓郎氏に順じてテレビの歌番組出演は全くなかったことで、逆に井上陽水氏は神秘性ある時代の寵児になりました。

そしてザ・モップスは、同年12月ラストシングル「あかずの踏切り」を発表(翌年解散)。

この曲は井上陽水氏が作詞、星勝氏作曲で、空前のメガヒットアルバムになった井上陽水氏の「氷の世界」の、A面1曲目に収録された名曲で、これにて井上陽水氏は神がかり的な商業的大成功を収めます。

アルバム「氷の世界」がメガヒットしたことにより、ファーストアルバムの「断絶」が1974年のオリコンアルバム年間チャートで7位。セカンドアルバムの「陽水II センチメンタル」が同8位。

サードアルバムの「陽水ライヴ もどり道」は、1973年もシングル「夢の中へ」「心もよう」のヒットの影響で、オリコン年間9位を記録してますが、1974年には3位と更に売れています。

当然!「氷の世界」は1974年の年間1位で(1975年も連続1位)、1974年はなんと!井上陽水氏のアルバムが4枚もオリコン年間トップ10に入る、大事件が起きたのでした。