現在、アメリカ在住の作曲家・実業家の村井邦彦氏は、日本が大東亜戦争に敗北した年、米国の戦争犯罪=下町地域の東京大空襲のあった1945年3月生まれ。
海軍技術将校として、飛行機部門を担当していたそうな父親を持つ村井邦彦氏は、有名私立の暁星小・中・高を経、慶應義塾大学に進学してますから、かなり暮らし向きは良かったと言えるでしょう。
最近流行りの稚拙な例えで恐縮ですが、私は「親ガチャ」はある。DNA含め子は親によって生まれてきた時点で、かなり人生が左右される。と思っているので、村井邦彦氏は「親ガチャ勝ち組」だと思います。
勿論、どんな世界にしろ誰にしろ最終的には本人の才覚と精進でその成功があるわけですが、そこに至るまでの経緯、或いはルックス含む生まれ持ってのDNAに、『親ガチャ』がないとは言えないでしょう。
なんたって村井邦彦氏は、敗戦後の混乱期にピアノを習っていたのでピアノが弾け、慶應大学は学生ビッグバンドサークル「ライトミュージックソサエティ」に所属。ジャズやボサノバに感化されています。
時は1964年の東京オリンピック開催前後、井沢八郎氏が集団就職の若者達を歌った「あゝ上野駅」が流行っていた頃ですから、こんな村井邦彦氏を「親ガチャ勝ち組」と言わず何と言うでしょうか?(笑)。
更に!村井邦彦氏は大学3年時に、当時の赤坂にあった「ホテルニュージャパン」の横にレコード店を開いており、この当時の赤坂には有名な高級ナイトクラブがいくつもあり、そこでの学生起業。
後に、飯田橋にもう一店舗レコード店を開いており、最近、働き方改革とか大学に行くのは無意味とか、学生時代に起業しろとか色々言われてますが、当時の村井邦彦氏はその先駆者です。
なんたって、慶應大学の学生の村井邦彦氏は就活も就職もしたことがない(笑)。では、起業のレコード店の開店資金はどこから出たのか?と考えると、やはり「親ガチャ勝ち組」でしょう〜。
そして村井邦彦氏は、大学卒業後に今度は作曲家になります。ピアニストとしては、大学の先輩に大野雄二氏という素晴らしいプレイヤーがいたので、その道は諦めたとか。
さて、ここで繰り返しますが「親ガチャ勝ち組」の村井邦彦氏には、母校の慶應閥がついてきます。それがレコード会社に就職し、あちらのジャズやポップスを日本に紹介していた慶應大OBの本城和治氏。
1939年生まれで、当時20代後半の敏腕音楽プロデューサーの本城和治氏は、ザ・スパイダースの担当になり、その経緯でザ・スパイダースの田辺昭知氏がスカウトした、ザ・テンプターズと関わります。
ザ・テンプターズはデビュー曲「忘れえぬ君」の小ヒット、2曲目の「神様お願い」が大ヒットし、田辺昭知氏の目論見通り、アイドル人気のザ・タイガースの対抗馬にザ・テンプターズはなりました。
ブルーコメッツとザ・スパイダースという実力派バンドがあり、その下にアイドル人気のザ・タイガースとザ・テンプターズがいるという一般に認識された構図は、田辺昭知氏が創作したものだったのです。
ザ・テンプターズの上記の2曲は、メンバーの松崎由治氏の作詞作曲で、当時21~22才の松崎由治氏は類い稀な才能を発揮しておりましたが、連続ヒットが続くかどうか?レコード会社は不安になったとか。
で、自身が営むレコード店で売れに売れていたブルーコメッツの「ブルー・シャトー」を聴き、このぐらいの曲なら自分も書けると豪語していたそうな、作曲家になりたての村井邦彦氏にお鉢が回ったきます。
慶應大の先輩後輩の仲の本城和治氏と村井邦彦氏は、色々と相談してドビュッシー、ラヴェル、フォーレ等をヒントに神秘性あるロマンティシズムと、洗練されたサウンドを狙ったそう。
この辺の、ザ・テンプターズのシングル曲を書くのに、ドビュッシー、ラヴェル、フォーレが出てくるところが「親ガチャ勝ち組」のお二人を感じさせられますが、それが見事にハマるんですね〜。
作詞は既にザ・テンプターズの「忘れ得ぬ君」のB面、洋楽カバーの「今日を生きよう」の訳詩をした、九段高校→立教大学を経由しシャンソンの訳詩を手掛けていた、こちらも新進気鋭のなかにし礼氏。
更に編曲は、プロの音楽家になったので東京芸大を中退している川口真氏と、「エメラルドの伝説」は「親ガチャ勝ち組」達による、結果アーティスティックな楽曲になっています。
バンドのオリジナル曲ゆえ、ほぼギターバンドのバンドサウンドだった「神様お願い」と違い、「エメラルドの伝説」は、イントロからいきなりクラシカル!
全体に流れるストリングス、そして印象的なホルンとオーボエは編曲の川口真氏の仕事でしょうが、この録音は壮大なオーケストラ奏者のギャラを考えると、随分とお金がかかっています。
まぁ〜大ヒットの最大の理由は、勿論メンバーのショーケン=萩原健一氏のルックスと歌唱とアクションにあったわけですが、それも曲や詞、アンサンブルが良くなければ成立しません。
また、エレキバンドらしく、ちゃんとドラムや特徴的なベース、ギターも録音されている「エメラルドの伝説」は、見事なエレキバンドとオーケストラの共演サウンドで、オリコン1位を獲得しました。
で、B面は松崎由浩氏作詞作曲、そして歌唱の「僕たちの天使」だったので、嫌らしい話ですが松崎由治氏にも、A面の「エメラルドの伝説」の大ヒットによって相当な印税が入ったでしょう。
また、シングル第三弾の「おかあさん/秘密の合言葉」の作詞作曲は松崎由浩氏のオリジナルに戻っており(「おかあさん」の作詞は補作で、一般公募の松岡弘子さんが作詞)、この曲もオリコン最高位4位。
ここまで松崎由治氏は、シングル4枚A B面8曲のうち6曲作詞作曲しており、まだ大ヒット曲は「エメラルドの伝説」以外なかった村井邦彦氏よりも、印税は入ってたと想像できます。
で、そんな松崎由治氏は村井邦彦氏の1歳年下で、ほぼ同世代。
お二人は、果たしてこの目まぐるしいレコード会社のシングル選定に対し、作曲家としてお互いをライバル視する葛藤があったのか?それとも、同世代の仲間として仲が良かったのか?
この辺は、特に松崎由浩氏はグループサウンズブーム終焉後、殆どマスメディアに出ないですし、村井邦彦氏もそこまでの細かい話はされませんので、残念ながら証言が全くないのが残念です。
で、「おかあさん」の編曲は引き続き川口真氏でしたが、再びシングル第5弾の「純愛/涙のあとに微笑みを」は『作詞:なかにし礼/作曲:村井邦彦』のコンビに戻り、川口真氏がこちらも編曲しています。
まぁ〜「純愛」は、川口真氏の手腕だったのでしょうか?サウンドは見事なプログレッシグロックで、「エメラルドの伝説」ほどの大ヒットにはなりませんでしたが、オリコン最高位8位。
面白いのが、村井邦彦氏は「純愛/涙のあとに微笑みを」の発売前に、ザ・テンプターズがライバルとしていたザ・タイガースに「廃墟の鳩」を書いており、こちらも見事にオリコン最高位3位を記録。
村井邦彦氏にとって「エメラルドの伝説」のオリコン1位に続く、「廃墟の鳩」は2曲目の大ヒットで、あの『天下の!村井邦彦』は、ザ・テンプターズとザ・タイガースのヒット曲で世に出たのでした。
「エメラルドの伝説」の大ヒットで、ザ・タイガースとザ・テプターズによる『村井邦彦争奪戦』でもあったのでしょうか?村井邦彦氏はここから、一躍!売れっ子作曲家になっています。
で、ザ・タイガースと言えば、音大に入るほどのピアノの腕がなかったので東京大学に入学したそうなクラシック通、元フジテレビディレクターすぎやまこういち氏が作曲、編曲を担当していました。
1931年生まれの すぎやまこういち氏は村井邦彦氏より14歳年上なので、深い交友はなかったと思われますが、この時期(1968年)共に、ザ・タイガースのアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」に参加。
ザ・タイガースはオリジナル曲が書けない、人の曲で歌って踊って演奏してるだけの唯のアイドルと、うるさ型には揶揄中傷されていたので、このアルバムではメンバーのオリジナル曲が採用されています。
1曲が加橋かつみ氏の「730日目の朝」で、もう1曲がシングルカットされオリコン最高位4位の大ヒットになった、森本太郎氏の「青い鳥」。
そして全12曲のうち、残りの10曲を、すぎやまこういち氏と村井邦彦氏が5曲ずつ作曲しており、その中の1曲が加橋かつみ氏歌唱の「廃墟の鳩」でした。
まぁ〜レコードデビュー時からオリジナル曲のあったザ・テンプターズと違い、ザ・タイガースはここまでオリジナル曲には興味の薄かったバンドですから、村井邦彦氏もやりやすかったのではないかしら。
まぁ〜この後、すったもんだで加橋かつみ氏はザ・タイガースを辞めるわけですが、『作詞:なかにし礼/作曲:村井邦彦』コンビは、今度はザ・タイガースの「美しき愛の掟」を書いています。
「美しき愛の掟」もザ・テンプターズの「純愛」同様、プログレッシブロックですが、編曲に川口真氏の名前がなく、「純愛」に比べるとクラシカルの要素の薄いロックギターアンサンブルの楽曲。
狂乱のグループサウンズブーム終焉後、村井邦彦氏は歌謡界やトワエモア、赤い鳥への楽曲提供で、いよいよ巨匠!作曲家になるわけですが、ザ・タイガースの加橋かつみ氏とだけは関わってます。
ザ・テンプターズ、ザ・タイガースのメンバーとは、ほぼほぼその後は関わってないので、どんな世界でも人間は好き嫌いはありますから、村井邦彦氏は加橋かつみ氏だけは相性が良かったのでしょう。
そして村井邦彦氏は、加橋かつみ氏に曲を提供した高校生だった荒井由実さんとここで出会います。
グループサウンズの「おっかけ」だった荒井由実さんは、フィンガーズのベーシスト、シー・ユー・チェン氏経由で、加橋かつみ氏に「愛は突然に…」を提供し作家デビュー。
そして、ここで再び本城和治氏が登場し、本城和治氏に村井邦彦氏は「面白い子がいる」と荒井由実さんを紹介され、村井邦彦氏が作家志望だった荒井由実さんに歌うことをすすめるわけです。
作曲センスもしかりですが、これこそが!「親ガチャ勝ち組」だけではない村井邦彦氏の天性の勘で、失礼ながら荒井由実さんの声・歌を初めて聴いて、この人に歌わせようとは常人は思わないでしょうから。
敏腕プロデューサーとして、その人ありと謳われる本城和治氏でも思わなかった事を、思いついた村井邦彦氏の、この勘の鋭さはやはり凄まじかったと今更ながら思います。