『キョードー東京』を作った永島達司氏と進駐軍の関係




 

日本にエレキギターを普及させた男たち!と言い切っても良いと思う、アメリカのザ・ベンチャーズ

1965年に空前のエレキブームを日本で巻き起こしたザ・ベンチャーズですが、初来日はもっと前の1962年で、レコードデビューしてまだ2年後のこと。

そしてこのザ・ベンチャーズ初来日は、アストロノウツとジョー・アン・キャンベルという女優&歌手との来日で、単独ではなく目的は在日米軍基地の慰問。

ちなみに、ザ・ベンチャーズのリズムギタリストのドン・ウィルソンは、かつて米陸軍に入隊経験があります。

で、この在日米軍基地の慰問にザ・ベンチャーズを呼んだのが、『伝説の呼び屋』永島達司氏。

永島達司氏は1926年生まれで、大東亜戦争以前、三菱銀行勤務の父親に伴い、ニューヨーク→ロンドン→ニューヨークで幼少時代を過ごしているので英語が堪能。それも外人が褒めるほどうまかったそう。



この辺の逸話は、世代が違いますが、大正時代にイギリスのケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学、イギリス貴族の子弟と親しくなり、そのライフスタイルを学んだ白洲次郎氏に似てますね。

その白洲次郎氏が大東亜戦争日本敗戦後、ダグラス・マッカーサー始めとする進駐軍との連絡係、通訳をやったように、19歳の永島達司氏は進駐軍将校クラブでの通訳に雇われています。

永島達司氏は、旧制早稲田第一高等学院の学生でしたが、英語堪能の彼は、すぐにクラブの支配人にまで出世しており、白洲次郎氏もしかりですが、アメリカ人は貴族階級の『美しい英語』に弱いよう。

というわけで『伝説の呼び屋』永島達司氏の、その仕事のルーツは進駐軍将校クラブへのミュージシャン、女優の斡旋。



結局、そこで演奏していた日本人ミュージシャンの中から、その後は大手芸能プロダクションになる会社を立ち上げる人達が出ますが、永島達司氏はアメリカ人の知人と『呼び屋』の会社を設立します。

その会社が、今は『キョードー東京』になった協同企画で、当初は進駐軍将校クラブへのアメリカのミュージシャン斡旋をやっており、その流れでやってきたのが前出のザ・ベンチャーズ

で、、、

永島達司氏は英語堪能だけではなく、身長も当時の日本人では大男の180cmを超えていたそうで、普通に考えて進駐軍も呼ばれたミュージシャン達も、彼が威風堂々に見えたのは当然でしょう。

しかもニューヨークとロンドンという米英の中心地で幼年時代を過ごしているので、もっとアメリカの田舎出身の米兵や、シアトル出身のドン・ウィルソンとボブ・ボーグルは自然と一目置いたと思われます。

見た目というのは今も昔も大事であり、特に男の場合、良くも悪くも体格が良い相手には威圧されるもの。更に永島達司氏は、その外見とは裏腹に物静かで仕事はきっちりやるジェントルマンだったとか。

その後、ザ・ビートルズも呼んだ永島達司氏を、ポール・マッカートニーは『サムライ』と称し、最初の奥様のリンダ・マッカートニー追悼メモリアルサービスに、日本人で唯一彼を呼んでいます。